翼在る者の父・フラミー。
白竜の大きな羽が、空に舞う。
眼下には、七色に光る巨大な渦が在る。
海上に在るのなら、単なる渦潮にも見えただろう。
けれども渦は、空中で渦巻き、虹色に輝いて居る。

最初に渦を確認した時には、空と海の間に『一本の線』が在るように見えた。
厚みが一切無い線だ。
しかし、近づけば近づくほど、其れは『線じゃない』と解る。
ハッキリと奥行を持った渦。
それも、何処まで続くのかも解らないほどの大きさだと、俺が理解出来たのは・・・。
フラミーが<扉>の真上に辿り着いた時だった。


「此れが<聖域の扉>!」


ゴウッと重い音がして、伸し掛かるような風圧が、俺達の行く手を阻む。
フラミーの翼が庇って居なければ、3人諸共吹き飛ばされ、海の藻屑と化しただろう。
俺の隣では、アンジェラが必死になり、白い毛並みにしがみ付いて居る。
その目には、薄っすら涙が滲んで居た。
そんなアンジェラの隣では。


「ぎょえええ~!
うわあああん!
きいてない、こんなのきいてないでちよう!
せーいきのトビラがここまでデンジャーだなんて、あんまりでちーっ!
おじイ~ちゃあぁぁん!」


泣き叫ぶシャルロットが、泣き叫ぶ余り手が滑り、宙に舞い掛けて居た。
次の瞬間には、くるっとフラミーの尾が、シャルロットの身体を掴む。
其の結果、シャルロットは、空中でフラミーの尾に巻きつかれたままになる。


「ぎょっ・・・!!」


シャルロットは、俺達のように、フラミーの背中で視界を遮られて居る訳じゃない。
高度四千メートルの世界を、宙ぶらりんかつ、風圧に晒された状態のまま、渦の中へと落ちた。
そうしてシャルロットは完全に停止をした。
眼球が白目を剥いて居る。


「うわっ、エグッ・・・」

「気を付けろ、アンジェラ!
俺達まで飛ばされたら、次はあの尾もねえんだぞッ」

「!
う、うんっ」


例え、失神したのだとしても。
其れで済んだのだから在り難い。
ドウ!と叩きつけるような風爆持つ、虹の渦に近づくほど、周囲の大気が不安定になってゆく。
<巨大な要塞>を飲み込むほどの渦と<マナの聖域>を目前にして、気を失えるなら、その方が楽だ。
その時、隣のアンジェラが、フラミーにしがみ付きながらも、渦の奥に目を凝らした。
翡翠の瞳が一際険しくなり、凛と、深く澄んでいった。

けれども、彼女の指先は震えて居る。
気が付くと、俺は、彼女の指を掴んで居た。
きっと此の先は<ヒトの世界>ではなく、禁じられた<神の領域>だ。
それでも俺達は行くしか無い。
___アルテナを止める為に。







かつて、世界がまだ、暗黒に閉ざされて居た頃___。
<マナの女神>は<世界を滅びに導く災厄の化身>である神獣を<マナの剣>によって打倒し、<8つの要石>の中に封印した。
かくして闇は去り、世界は創造された。


「そうして今も、女神は樹に姿を変えて<マナの聖域>で眠る、か・・・」


俺の隣のアンジェラは、思い出すように<マナの伝説>を口ずさんで居る。
シャルロットは俺の背中だ。
高度4千メートルの世界に突っ込んだシャルロットは、トコトン気を失って、未だに白目を剥いたままだった。
それでも眼球が乾かないままなのは、妖精の血を引いてるせいなのか?
エグい顔つき以外に外傷は無く、ずっと眠り続けて居る。


「昔、ホセに教えられた伝説かあ。
私、ロクに聞いてなかったのになあ。
こんなトコ、本当に来ちゃった・・・」


一方のアンジェラは、まるで『やっちゃった☆』みたいな感じで、自分の頭をこづいてる。
ついでに『テヘペロッ♪』もして居る。
・・・ウィンクさえして居た。
でも其れは、コイツなりの『ヤセ我慢の姿なんだな』と、今の俺には理解出来た。
他人と一か月も行動を共にすりゃあ、大体の性格ぐらいは解って来るもんだ。

コイツが何かと強気だったり、明るく振舞う時は、自分が辛い時だった。
笑顔で居なければ、持たない奴なのだ。
アンジェラの口癖は『やってみよう!きっと今よりマシなはずよ』とか『きっといい事が待ってる』。
大抵ピンチの時に言ってのける。

僅か一か月で<マナの聖域>に辿り着いたとは言え、此処までの道のりは、決して楽では無かった。
自然の猛威に晒された事も何度も在る。
その度に、アンジェラは、弾けるような笑顔で自分を励まして居た。
それでも余りにキツい状況じゃあ、指先が震える癖は変わらない。
その事に、一度、気が付いちまうと・・・。
俺は、アンジェラの『笑顔』よりも・・・
爪先に目が吸い付いた。


「デュラン。
アンタには、お礼を言わないとね。
こんなトコロまで、本当に私を連れて来てくれるなんてね。
ウェンデルでデュランに出逢わなきゃ、私、絶対に辿り着け無かったと想うもの」

「・・・。
礼なんか要らねえ」


俺は・・・。
アンジェラの指先を、もう見ないようにする。
俺だけが、傍で震える指先に気づいたからといって、一体何が出来るだろう。
俺は、世界に伝わる聖剣伝説を、単なる夢物語と思い、今日まで生きて来た人間だ。
アンジェラに逢うまでは。
それが何の因果か巡り合い、共に<聖域>まで着ちまった。
おかげで嫌でも強くなれた。
けれども俺は、アンジェラと、今日まで上手く目的が一致しただけの人間だ。
そうだ・・・。
唯、俺は・・・。


「・・・。
俺は、自分が強くなる為に、お前の隣に居るだけだ。
だから、礼はナシでいい。
今のお前は<聖剣>を抜く事だけを考えて居ればいい」

「あー、デュラン。
今のはもしかして、私を気遣ってくれたのかしら」

「!
ち、違う!
でも、まあ、その、なんだ・・・。
頑張れよ」


___俺は、瞳を閉じた。
アンジェラの震えたままの指先を、これ以上見ないでも済むように。
それなのに気づいてしまう。
嫌なのに見えてしまう。
俺は、お前の指先なんて、見たくは無いのに。


「エヘヘ~っ。
まさか、デュランに優しくされる日が来るなんてネ?
遂この間まで『これだからアルテナ産はッ!』とか言ってた癖にさあ。
ねえねえ私、ちょっとイイ気になっていいのカナ?」

「!
早まるなっ。
まだ剣も見つかってねえだろう」


その後の俺達は、1時間は歩いたように思う。
不思議な事に<マナの聖域>に居ると、疲れを感じなかった。
腹が減る気配も無い。
時間が経っているはずなのに、止まって居ると感じる方がしっくり来る。
<マナの聖域>は、世界の何処からも断絶して居る場所だった。

音の無い森と、崩れかけた遺跡が、星をばら撒いたような空の下に広がって居る。
無言で歩みを進めれば、俺達の肺が動く音まで、身体の内側から響いて来そうだ。
時々、ザッと音がして、霧雨が降る。
冷たい霧が、俺とアンジェラの髪を濡らし、儚く通り過ぎてゆく。

俺達の両脇に続く鬱蒼とした繁みは、透明な露を纏いながら、キラキラと輝いて居た。
雨に濡れた石畳が、静寂の空間に浮かび上がる。
やがて、何処までも続くように思えた石の小道が途切れた時。
俺達は、瑞々しい木々の向こう側に<白く光る剣>を見つけた。


「あれが<マナの剣>!」


<聖剣>は、思ったよりも、ずっと普通の剣だった。
確かに神々しさは感じるが、フォルセナ王室にある宝剣と、見た目は大して変わらない。
どちらかと言えば、近くで見ると刃こぼれや傷も多く、劣化の激しい剣に見えた。


「フーン。
此れが<マナの剣>?
なーんかフツーの剣ってカンジ。
私を助けてくれるかと思って、わざわざ来たのに」


アンジェラは、これまでの道のりの割に、剣自体は普通過ぎて、拍子抜けをしたらしい。
それは俺も同じで、ガッカリ感は否めなかった。
背後に聳える大木の威圧感の元じゃあ<聖剣>自体はどう見ても、凡庸にしか見えないのだ。


「ま!
思ったよりもボロっちいけれど、これなら楽勝ね。
じゃあ、サッサと抜いちゃいましょ?」


アンジェラは、袖の無い服なのに、腕まくりのポーズを決めた。
『あー長かった、あーしんどかった、早く帰ってお風呂に入りたあ~い!』
などと言いながら<聖剣>に手を伸ばして居た。
しかし・・・。


「・・・痛ッ!」


<聖剣>には触れられなかった。
アンジェラはもう一度腕まくりをし、触ろうと試みるが、其の度に『いたーい!』と言う。
やがて10回目のトライを経たが、それでも抜け無かった。
怒ったアンジェラは、あろうことか、<聖なる剣>を蹴飛ばした。


「ああっ!?
聖剣の勇者が<聖剣>になんて事を~ッ」


其の時、アンジェラの額が銀色に輝いた。
額からフェアリーが現れたのだ。
フェアリーは、鈴のような声音のまま、心底狼狽して語る。


「そ、そんな事をしたら<マナの女神>様に、私が顔向け出来なくなってしまう・・・。
<創世の杖>を足蹴にするなんて、絶対にダメだからね、アンジェラ!」

「フーンだ!
ゼンゼン抜けないのが悪いのよ。
女神様も、聖剣の勇者に抜いて欲しいなら、もっと簡単に抜けるようにして頂戴。
玉のお肌がキズついちゃったじゃない」

「ああっ、そんな心でいるからダメなのに・・・。
全く、勇者のクセに、雑念と怠惰の塊ね。
そんな<心の在り方>じゃあ、絶対に<マナの剣>は抜けないよ?
もっと心を落ち着けて___。
剣と対話をするの」


フェアリーに諫められたアンジェラは、渋々<マナの剣>と向き合う。
けれどもやはり、触れる事さえ出来ずに終わる。
アンジェラ自身は何度も触ろうとするのだが、どうやら痛みが走る箇所の前で、躊躇をするようだ。
さっきまでのフザケタ笑顔が、ピタリと張り付いて居た。


「・・・どうした、アンジェラ」


俺は、おぶっていたシャルロットを木陰に下し、アンジェラに尋ねた。
アンジェラの様子がおかしいからだ。
尋ねられたアンジェラは『きっと大丈夫よ』と言いながら、ぎこちない微笑を浮かべるだけだ。
けれども手は止まって居る。
俺もアンジェラの傍まで寄り、すぐ近くで<マナの剣>を見た。
もう一度近く見ても<聖剣>は、薄く光るだけのオンボロ剣にしか見えない。
それなのに何故?


「・・・うん。
こんなのタダのぼろい剣だもの。
大丈夫大丈夫。
痛く無いし怖く無い」


アンジェラは、俯きながら呟いて居る。
そして、何度も自分に言い聞かせるように『楽勝よ』を連呼して居た。
しかし、アンジェラよりは背の高い俺からは、額の汗が丸見えだ。
冷静に『どう見ても無理してるだろ』と感じた、其の時だった。


「あのね、デュラン。
一つだけお願いがあるの・・・。
私の事を叱ってくれない?」


アンジェラの、いつもは弾けるような明るい声が___。
最後の方は、消え入るような懇願になって行った。


「不思議ね。
いざ『何でもお願いが叶う』となると、とても怖くなっちゃった。
<聖剣>を抜いたのは、お母様じゃなくて、私なんだなって。
私はまだ、どんな事でも、お母様には叶わないのにね」

「・・・アンジェラ」

「だって『国一個のコト』だもの。
自分の事だけじゃないのだもの。
だけど、今はもう、私にしかアルテナを止められないの、解ってる。
でも、私はまだ、そんなにしっかりしてないよ。
物心が付いた時から、ずっと長い間、落ちこぼれだったのだもの。
私は、理の女王であるお母様にとっては、魔法が使えない『要らない子供』。
だから<マナストーン>の生贄にされてしまうほど、無力な王女だった」


そして、アンジェラは。
そっと、震える指先を<聖なる剣>から離した。
寄せされた眉毛が悩ましそうに歪んでゆく。
伏せられた睫毛も揺れている。
・・・また、泣くのかと。
・・・一瞬、思った。


「だから、デュラン。
今だけでいいの。
私を叱って。
しっかりしろって言って。
___私を、支えてて」


薄く光る<古の剣>の前で、アンジェラは、もう震える身体を隠せない。
ずっと指先だけだった動揺が、今は全身で表現をされて居た。
普段の強気な態度で、心の奥深くに隠された、涙。
哀しみは、こうなる前から、ずっとアンジェラの内には在った。
其れが、初めてハッキリと、俺自身に示されてしまう。
気づいた時から、見ないふりをしてきた、桜色の指先。
普段は見えないだけで、流れ続けていた、頬を伝う滴。
アンジェラの哀しみが___俺を求める。


「・・・デュラン。
聖剣を抜く間だけでいいの。
私の背中を支えていて・・・。
お願い」


其れは、まるで、俺自身も試されて居るかのようだ。
『俺は、自分が強くなる為に、お前の隣に居るだけだ』なんて、カッコつけて来た体裁。
これまでの自分の在り方が、全く通じなくなった時だった。
いつか、取り繕った体面が、通じなくなるのが嫌だった。
だからこそ、本当は気がついても、見ないようにして来た、アンジェラの指先。
其の薄紅色の指先が、遂に語り掛けて来た気がする。
___『私を観て』。


「エヘヘ。
何だかごめん。
まあ、後ろに立ってくれるだけで、それだけでもイイのよ。
不思議なんだけど、デュランが居てくれたら、ちょこおっとしたコトでも、私は落ち着くの」

「ね?デュラン。
此れで断っちゃうのは、男としては野暮過ぎよね?
此処は『<マナの剣>の為』よ!
是非一肌!
ガンバってね!」

「くっ、フェアリーッ・・・!」


しまった、居たのか!
アンジェラの傍で『ばちーん☆』とワザとらしく、ウィンクを決めるフェアリー。
すっかり存在を忘れて居た妖精が<聖剣>とアンジェラの傍を飛び回った時。
俺の中の戸惑いは、気持ち良く空中分解をして行った。

妙な気分に浸りきってしまった俺は、気を引き締めるべく拳を作る。
きっと、今の空気は、余計な事なんだ。
とにかく今は<マナの剣>さえ抜けりゃあいいんだから・・・。
覚悟を決めた俺は『スウッ』と深呼吸をして、アンジェラの後ろに立つ。
アンジェラはニコッと笑い、トンッと音を立てながら、俺に背中を預けて来た。
普段の俺ならば、絶対に、こんな事はしないだろう。
けれども今は、成すべき事を成すだけだ。
___<聖剣>を抜く為に。
俺は、王女の期待に応えよう。


「しっかりしろ、アンジェラッ!
お前なら・・・やれるッ!!」


_____其の時。
<マナの剣>が輝いた。
剣の周囲から、春風のような暖かくて甘い輝きが、寄せては返す。
明らかに、周囲に在った障壁が崩れたのだ。


「・・・<聖なる剣>の向こう側に・・・<8つのマナストーン>が見えるわ・・・」


アンジェラは、俺に支えられたまま、眼を閉じて<マナの剣>に手を伸ばす。
古びていたはずの聖剣が、輝きに満ちて居た。
マナの女神の聖なる剣は、白金色に輝いて居る。
其処までも清らかに、透明に、溢れる力に満ちて居た。
其の時、眩しい光と風に誘われて、木陰で眠って居た少女が目を覚ました。
俺は、駆け寄る少女、シャルロットの手も掴む。
いつもなら、起きた瞬間から騒がしいシャルロットも、今は驚きの中に在る。
シャルロットは、深く魅入られるように、輝く剣を見つめて居た。
大きな碧眼が白金を映して揺れている。
其の時、大量の蛍が舞うような、輝きの群れの向こう側で、シャルロットは囁いた。


「マナの中に愛あり。
愛の中にマナありですね。
おじいちゃん・・・」


その瞬間、アンジェラの手が、聖なる剣に触れた。
震えたままの指先が、俺の手へと添えられる。
同時に、これまでとは違う、大きな輝きの波が弾け、聖なる剣がソラを舞った。


「・・・。
・・・。
これが<聖剣>!
やったあ。
私、遂にお母様よりも先に<マナの剣>を手に入れたよ!
これで、落ちこぼれの私でも、お母様とお話が出来るようになる。
ブライアンも止められる!」


妖精の放つ、金色の鱗粉と剣の輝きを浴びながら、アンジェラは、高く<マナの剣>を掲げた。
大樹の根元から抜かれた聖剣は、もう古びてなどは居ない。
其れは、俺が今まで見てきた、どんな剣よりも美しい、本当の女神の剣のようだった。
聖剣を掲げるアンジェラが・・・。
綺麗だ・・・。


「・・・ねえ、デュラン。
これでもう、フォルセナは大丈夫だよ。
私がマナの女神様にお願いをするからね。
もう誰も戦わないでもいい世界に・・・って」


やがて、輝きに満ちた<マナの剣>が、静かに光を収めて行く。
聖なる光は全く消えてしまわずに、剣を白く染め上げて居た。
アンジェラは<創世の剣>をヒュッと払う。
軽やかに舞うように、払われた剣の軌跡に光が躍る。
アンジェラの長い紫の髪が、七色の輝きを秘めながら跳ねて行った。
エメラルド・グリーンの瞳が・・・。
ずっと、涙を秘めていた眼が・・・。
今、心から笑った。


「有難う、デュラン。
デュランが後ろで支えてくれたから、私には解ったよ。
他の人が居なくっちゃ、自分だって立てないね。
それは、人だけじゃなくて、国も同じだね。
アルテナは、フォルセナが在るから元気で居られるよ。
ううん、ウチだけじゃなくて、皆そう。
世界は支え合って居ると思う。
だから私、此の世界は『だーれも戦わない世界』がいい。
ウン、聖剣のお願いは、これに決めた!」


ゆっくりと振り下ろされてゆく<マナの剣>。
やっぱり、剣なのに、アンジェラが持つと『魔法の杖』みたいだ。
マナの女神の<黄金の杖>がぶらぶら揺れて所在ない。
剣の姿をの杖を掲げ、アンジェラは、割れんばかりの笑顔になった。


「もう一度『有難う』って言わせてね、デュラン。
何度も私を助けてくれて、本当に嬉しい。
デュラン・・・。
だーい好きっ!」


其の時。
俺は、自らの後頭部を<創世の杖>で、思いッッッきり殴られた気がした。
___『大好き』。
・・・。
大好き?


「だ、だ、だい・・・!
あ、じゃ、じゃなくてだな。
お願いが『誰も戦わない世界』って正気か?
アンジェラ・・・」


其処でようやく絞り出した言葉が、そんなのだった。
俺の口は、陸にあげられた魚みたいに、パクパクとなって居た。
そんな自分に自分で気が付き、ようやく冷静になれて来る。
冷静になった俺には、アンジェラの途方もない祈りを、簡単に呑み込む事は出来なかった。
狼狽を残したまま、力無く呟くだけが、今の俺には精一杯だ。


「ん、ンな事、俺は一度も考えた事がねえよ・・・。
つうか出来んのか?
そんな嘘臭い、夢みたいな話をよう」


けれどもアンジェラは本気のようだ。
フンっと息巻いて、笑顔を振りまいている。
そして、自信たっぷりに『エッヘン』と胸を張る。


「アラ、だって<マナの剣>が在れば、世界も支配出来るのでしょう。
お母様は、聖剣で、アルテナだけを・・・。
自国だけを守りたいのよ。
でも、そんなのは、私はイヤなの。
だって、幸せになるのがアルテナだけなんて、フェアじゃないもの。
デュランの国も、ううん、皆が幸せにならなくっちゃ。
あーあ、せっかくガンバッて考えたお願いなのにナ。
なのにもう駄目出しなんて、デュラン酷い!」


アンジェラは、薄紅色の頬を膨らませながら、俺を睨みつけて来る。
組んだ手に握られた<創世の剣>は、未だにブラブラ揺れて居た。
最初こそ、おっかなびっくり触って居たものの・・・。
今のアンジェラは<創世の杖>が手の中へと吸い付くようだ。
おかげで徐々に扱いが雑になり始め、今や球技用の杖みたいになって居る。
ところが、アンジェラの雑さ加減を真っ先に諫めそうな存在が、気が付けば何処にも居ない。


「アレ?
フェアリー・・・?」


遂さっきまで、楽し気に飛んでいた妖精の姿が、全く見えなくなって居る。
<聖剣>の傍になら、何を差し置いても、いの一番に駆け寄りそうな妖精。
そんな妖精が、聖剣の傍からも、アンジェラの傍からも消えて居た。


「おーい、フェアリー!
何処行っちまったんだよ?
この剣、どうすりゃいいんだよ?」

「ねえ、フェアリーっ。
次はどうすればいいの?
お願いはどうやって叶えるの・・・?!」


俺達は、妖精の消えた<マナの聖域>に問い掛ける。
けれども声は、空しく闇に消えるばかりだ。
もう一度ザッと、輝く雨が通り過ぎ、甘い香りが聖域を吹き抜ける。
やがて、マナと共に満ちて居る、深い花のような香りに、鉄屑に似た匂いが混じり始めた。
最初は単なる違和感だった。
しかし、その異物感は、段々と確信に変わり出始める。
鉄のような香りが、ハッキリと『血の匂い』に変わったのだ。
風上から吹き抜ける風が、汚物のような異臭を纏い始めた。


「見て、デュラン!」


霧が吹き抜けたソラが、俺達の頭上に広がった。
聖域の上空に、深い黒のエネルギーが、集まり始めて居た。
ずっと漂うようだった霞が、雲のように集まって、遂に積乱雲と化してゆく。
雲の切れ目に雷鳴が走り、ぶちまけた血のように紅く光り出す。
分厚い黒雲が、マナの聖域に聳え立つ、大樹の上に重なるスピードが、異常に早い。
激しい暗黒のウネリが、やがて、ソラ全体を覆うほどにまで、深く、大きく、なる。