ズ、と深い音が聖域の中を木霊してゆく。
俺達の頭上では、大樹を中心して、赤黒い積乱雲が集まり続けている。
幾重にも重なる黒雲は、星空も、オーロラも、瞬時に覆い隠してしまう。
鋭い雷鳴が走り、竜の形になる。
走る一瞬の閃光、煌めきの集まりは、さながら竜族の大群だ。
積乱雲が唸る、しかしそれは、雷が鳴ったのでは無い。
雷鳴に似た音は『人の声』だ。
赤ん坊の泣き声が100万人ほど集まって、唸り上げるように泣きじゃくり、金切り声を上げて居る。
数多の声は雷鳴に姿を変え、激しい勢いで<マナの木>の根元に向かった。
声は、アンジェラの聖剣を目がけて、其の悪意を轟かせる。
声の一つ一つは、単なる音波か、一瞬の閃光に過ぎない。
けれども確実に<魂を傷つける力>。

殺セ殺セ殺セ!!
奪エ奪エ奪ワレル前ニ!!

力が吠える。
閃光が走る。
赤黒い積乱雲から放たれる光に<生き物の憎悪>が宿る。
<憎悪の力>は降り注ぐ矢のように、大樹と聖剣に向けて<その力>を集約する。
一筋の閃光が、地面を深く抉ると、血糊にも似た跡が張り付いた。
そして___紅く光る雨の合間を縫いながら___『あの男』が現れたのだ。







「・・・紅蓮の、魔導師・・・」

「フン、いつかの小僧か。
我々の計画通り<聖剣>を抜いてくれたのだな。
其の点については礼を言おう」


魔導師が甘く囁いた瞬間に、大樹の陰が一際濃くなる。
重いプロペラが幾重にも回り、風を巻き起こす音が、闇に沈んだ聖域に響いて行った。
唸るようなエンジン音と、一つの街さえ入る巨体。
巨大な空中戦艦が、大樹の上空に着いてゆく。


「あれは・・・。
<空中要塞ギガンテス>!」

「アンジェラ王女様。
<創世の剣>を抜いて下さった貴女には、深く感謝をしています。
さあ、私達の舟にいらして下さい。
<我々>は貴女を歓迎致しましょう」


紅蓮の魔導師は、不敵な微笑を浮かべてから、ギガンテスへ向けて右手を上げた。
同時に、羽虫のような形をした小型機が、何台も空中要塞から降下し始める。
フアンと昆虫の群れ独特の音が響き、8体の小型機が大樹の前に群がる。
其の時、小型機の一つから、乾いた風を孕みながら、見覚えのある人物が歩み寄って来た。


「遅かったな、黒曜」


漆黒の甲冑を纏う、長身の騎士。
大樹を背にした騎士に向かい、紅蓮の魔導師は、微笑を浮かべて声を掛けた。
其の騎士の姿を俺は知って居た。
これまでに、2回は逢って居る。
一度目はフォルセナ城が奇襲された夜、二度目は<風のマナストーン>の近くで奴とは出会った。
だが其れだけでは無くて、今は何か、胸の奥に深い靄を感じて居る。
それは『過去の記憶の断片』ような___。


「・・・黒曜の騎士、紅蓮の魔導師。
お前達は何故<聖剣>を狙う?
今の俺は<マナの剣>を、貴様達に渡す訳には行かない」

「随分と威勢がいいな。
元気そうで何よりだ『デュラン』」

「!」


其の時、大樹の傍まで歩み寄った黒曜の騎士が、俺の名を呼んだ。
兜の下から深く響く、テノールのような声がする。
聖域の風が、黒曜の騎士の纏うローブに孕む度、何処かで嗅いだ事のある、懐かしい匂いがした。
そして今、確実に、俺の心が此の男を『知って居る』と認知する。
其れは直近の記憶じゃない。
やはり『想い出』に近い。
其の声も、香りも、ずっと前から知って居る。
そうだ・・・この声は・・・。


「剣術大会の優勝おめでとう。
そして今は、聖都より旅立った、評判の<女神の騎士>か。
大きくなったな、デュラン。
会いたかったよ」

「・・・ッ!」


今、俺の構えて居た剣の切先が、力無く大地を向いて行った。
俺は、目前の男の言葉を、まだ理解が出来ないで居た。
なのに『判る』。
指先が震えて止まらない俺を、黒曜の騎士は、ずっと兜越しに見つめて居る。
其の時、兜に男の両手が添えられて、ゆっくりと、漆黒の兜が抜き取られて行った。
素顔を隠した兜の下には___。


「まだ解らんのか、デュランよ。
私は、お前の父、ロキだ!」


___残酷な嘘をつく男が在る。
男の固いブラウンの髪は、肩で斬り揃えられて居る。
目の色だって俺と同じだ。
幼い頃に何度も嗅いだ、白銀騎士団の紺碧のローブと鎧の香りがする。
大好きで、何度も聴かせてくれとねだった、武勇伝を語る声も同じだ。
其の全てが『父・ロキ』だとしても。
これは嘘だ。


「へ、へへっ。
何言ってんだよ。
そんな訳あるか。
俺の親父は竜帝と差し違えて、谷底に落ちて、そして・・・」


死んだはずだ。
なのに、声の震えが止まらない。
余りにも、男の笑顔が優し過ぎて。
懐かし過ぎて___。
だとしても『俺の親父は死んだ』のだ。
ならば、この男は何者なのだ。


「デュランよ。
私は<死の淵より蘇った>のだ。
竜帝様より<闇の力>を頂いて、な」


優しい笑顔が、優しい笑顔のまま、俺の理解を超えた言葉の羅列を語る。
無垢な少年のような微笑を浮かべて、けれども声は、壮年の深さで。
目前の男は意味の解らない事ばかりを言って居る。


「さて、デュラン。
私もゆっくり再会を楽しみたい所だが、今は任務中でな。
私に<マナの剣>を渡して貰おう。
フェアリーの命と引き換えだ」


そして、騎士は、高く高く妖精を、積乱雲が立ち込める、血塗られたソラに掲げた。
大きな黒い手が、其の羽を毟るように、ギュッと縛り上げる。
同時にフェアリーの顔が苦痛で歪んだ。
『キュウッ』と言葉にならない鳴き声が、離れた場所まで響くほど、騎士は、妖精に容赦をしない。


「クッ!
何処までも汚い手を・・・。
フェアリーを離せッ!」

「・・・フッ。
お前の言う通り、汚い手口だな、デュラン。
だが此れこそが<世界の在り方>なのだ。
弱い生き物を、強者が捕食する事ほど、普通の事は無い。
縄張り争いと殺し逢う事は『命の本能』。
そして『死んだ敗者は二度とは戻らない』。
これは<マナの女神>が、其の未熟さ故に、我々に強いたルールなのだ。
<ヒト>も<我ら>も、創造主が敷いた掟に従うしか他に道は無い。
___神の掟を覆す、その時までは。
さあ、紅蓮の魔導士よ」


其の時、紅蓮の魔導師が、騎士の陰から歩み出た。
魔導師の佇まいは、前の時とは違って見えた。
燃えるような闘気や、張り詰めた緊張感が無くなって居る。
代わりに男が放つのは、凪いだ湖面のように静かな決意。
紅蓮の魔導師は嗤う。
俺の存在を見下すように。
同時に、甘く誘うように、アンジェラの姿をじっと見つめた。
水晶のような瞳が、俺には届かない遥かな高みから、優しい微笑を浮かべて居た。


「では、アンジェラ王女と<聖剣>を渡してもらおうか、デュラン。
王女様。
貴女もお帰りなさい。
愛しい王国と母の元へ」

「・・・ブライアン」

(・・・!)


其の時、アンジェラが、紅蓮の魔導師を『ブライアン』と呼んだ。
其の名は何度も、彼女の口から洩れては居た。
けれども其れが『紅蓮の魔導師』と同じだと、一度も聞かされては居なかった。
アンジェラは、ずっと紅蓮の魔導師=ブライアンと見つめ合って居る。
それは確実に、敵対する者同士の、視線のぶつかり合いだった。
それなのに、同じ故郷を知る者同士が、深い場所で通じ合うような、眼差しの絡み合いだ。
『アルテナ』という言葉を、紅蓮の魔導師が語った瞬間に。
彼女の瞳が険しくなる。


「アンタ達のやってる事が・・・。
この<聖剣>を奪い合う戦争が、本当に、アルテナの利になると思ってるの!?
ブライアン!」


アンジェラは、輝く剣をブライアンに突き付けた。
聖剣の周囲を虹色の光が舞う。
聖剣の輝きは、どんなに大樹の周囲が赤黒い積乱雲で覆われて居ても、その光を失わなかった。
むしろ、黒く沈んだ聖域の中で、眩しいほどの力を放って居る。
だが、光り輝く聖剣を突きつけられても、ブライアンは嗤うばかりだ。
『クッ』と、さも可笑しそうに、美しい口元が歪んで行った。


「アンジェラ王女様。
貴女が本当に王国を想うのならば<聖剣>は<女神>には相応しく無いのです。
貴女にも<女神の従>は似合わない。
だから、もう、俺の所へ戻っておいで。
・・・俺の姫君」

「!
止めろッ!!」


其の時、紅蓮の魔導師が風を放った。
咄嗟に俺は、風を盾で受け止める。
魔導師の魔法は圧だけで、俺の身体を吹き飛ばさんとした。
けれど、今の俺ならば、魔術の心得も幾ばくかは持って居る。
だから、魔力を帯びた風圧も、盾で防ぐ事が可能だった。
間髪入れずに踏み込んで、奴を剣で払う事も。
それなのに、空を切る音がするだけで、其処に紅い魔導師は居ない。


「のろいぞ、小僧・・・」


目前には、確かに速い、紅い魔導師。
紅蓮の魔導師は残像を描きながら後退を重ねてゆく。
恐ろしく速いスピードのせいで、魔導士の後退は、肉眼では『像』としか映らない。
何度剣を振るっても、唯の像を掠るだけだ。
俺の剣が、虚しく空を切る音ばかりが、<マナの聖域>に響いてゆく。
其の時、視界の総てが、紅蓮の魔導師になる。
青紫の瞳が視界一杯に広がり、深い花の香りが鼻孔を突いた。


「グ、アッ!!」


俺は、横腹に、魔導士の激しい蹴りを喰らう。
身体が崩れ落ちる先では、氷の礫が矢の雨の如く降り注いだ。
礫を喰らい終わる前に、次は火柱が燃え上がり、鎧と髪を焼き尽くす。


「遅い遅い、遅いナアッ!!」


ザッ!と地面を滑りながら、再び目前に紅い魔導師が立つ。
魔導師の腕が伸びて、拳に風を孕みながら、俺を大地へ落として行った。
鋭い風が刃になり___肌を切る。


「デュラン・・・。
・・・お前は弱い」


紅蓮の魔導師は、転がった俺の身体に足を置き、ギリッと踏みにじった。
次の瞬間、俺の顎に指を絡め、自らの顔の傍まで顎を引き上げる。
魔導士の歪んだ微笑が、もう一度視界一杯に広がった。
むせ返るような花の香りが、俺を、なじり続ける。


「フォルセナ?
国王陛下?
其の次は<女神>か。
ハ!
貴様はよくよく使われるのが好きな男だな!
貴様のような男に<聖剣>は不要」


そして、再び、俺の頭が地に落とされる。
砂利が口内に入って血が滲んだ。
鈍い亜鉛にも似た味が、全身に広がり止まらない。


「アッハッハ!
そうだデュラン。
お前はせいぜい『フォルセナの犬』で在ればいい。
唯アルテナを憎み、戦だけが支配する、世界の因果の中で、短い一生を終えるがいい。
・・・よし。
王女を連行しろ」

「イヤッ、もう、離して・・・」


其の時、頭上で、アンジェラの声がした。
無理に首だけを動すと、動かない俺の身体の傍で、アンジェラの靴底だけが垣間見える。
アンジェラの両足は、必死に抵抗を示して居た。
地面に食らいつくように<マナの聖域>を踏みしめて居る。
しかし、その抵抗も空しく、引きずられるようにして、彼女は連れ去られてしまう。


「・・・や、やめろ」


だから、俺は、手を伸ばし、アンジェラの足を掴んだ。
同時に彼女もしゃがみこむ。
アンジェラは、俺の傍まで顔を近づけ、俺の腕にしがみついて、絶対に離れまいとして居た。
もうその手に<聖なる剣>は無い。
それでもアンジェラは、俺の身体に食らいつく。


「だ、誰が、アンタ達なんかについて行くもんですか・・・。
どんな理由があれ、アルテナとフォルセナをこんなにした、アンタ達に!」


アンジェラは、俺を見る。
また涙で濡れそうな、淡い緑の瞳が、無様な姿を映して揺れていた。
アンジェラの翡翠の瞳が、また乞う様に見つめて居る。
『お願い、もう一度助けて』
けれどもそんなアンジェラには、冷たい魔導師の声が容赦なく降るのみだ。


「アンジェラ。
お前は敗者を生かして置きたいか?
ならば、俺と共に在る事だ。
お前が俺と来るならば、負け犬などは殺さない。
元々殺す価値も無い。
お前が共に生きるには値しない、つまらん男だと言うことが、まだお前には判らないのか。
乱暴者の傭兵を、こんな下等な<人間>を、お前が庇う道理は無い」

「争いを好む貴方には、デュランの良さが判らない。
デュランは、例え私が敵だとしても、私を助けてくれた人。
ブライアン、私には、今の貴方こそ解らない。
貴方は何故、こうまでして<マナの剣>に拘るの?」


今、紅蓮の魔導士が、ゆっくりと微笑んだ。
その笑みは、今まで見せていた、高慢な笑いじゃない。
此の場の張り詰めた空気には似合わない、心からの笑みだった。
魔導士の、ずっと寄せられていた眉間が、ふわりと開く。
長い間アンジェラは、紅蓮の魔導師を睨みつけたままだった。
けれども次の瞬間に、彼女の瞳もユラリと揺れる。


「・・・。
それは、アンジェラ・・・。
全てはお前の為に在るからだ」


そして、アンジェラの手が___俺から離れた。
同時にフアン!と小型機の音が、羽音の如く鳴り響く。
遠くで『アンジェラ、デュラン、シャルロット!』と妖精の声が木霊すが、羽虫の音で掻き消される。
同時に俺の周りから、人の気配が消えて行った。
魔導師の足も消えてゆく。
俺は動けないままで居る。
魔法の数々に焼かれた身体が、引き裂かれたように、熱い痛みに負けてゆく。
肌は火傷で爛れ、骨は折れ、横腹の異物感が軋みを上げた。
凍傷と打撲が鈍く疼き、発熱をはじめ、傷から血が止まらない。
それでも、俺は、顔をあげた。
痛みで霞む視界の向こうに彼女の髪が舞って居る。


「デュラン・・・ッ!」


彼女が、俺を、求めている。
俺の眼が、歪む視界の彼方に、彼女の姿を捕らえた時。
彼女は大樹の精と共に、小型戦闘機に乗せられて、ソラの彼方へ飛び立った。
<マナの力>で動く巨大な空中戦艦の中へ、紅い魔導士の手で連れ去られる。
俺は、地面を這って居る。
それでも、例え此の手がソラには届かないとしても、『這い上がる』そう決めた。

だって『絶対に渡しては駄目だ』そう思った。
あの時『私を支えてて』と願ったアンジェラを。
何があろうと俺の傍から離してはならないと、ああ今更、心の底から想えたのに。
俺の手がソラには届かない。
アイツの祈りは叶わなない。

___『もう誰も戦わないでいい世界に』
___『皆が幸せにならなくっちゃ』

後には、高く聳え立つ<マナの木>だけが、闇に沈んだ聖域に遺されて居た。