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彼は愛だ、再発明された完全な尺度、驚嘆すべき思いもよらぬ理性、そして永遠だ。運命的な資質によって愛される機械だ。
「イリュミナシオン」
■前口上
『カルチャー・レヴュー』では「映画館の日々」という題で書かせてもらっていましたが、「新・映画館の日々」では、映画から離れることはないにしても――これまでも〈番外編〉と称して映画以外のことも扱ってきましたが――その時々に「引っかかって」きたことを取り上げるつもりでいます。とりあえず、最近「引っかかって」いることを断片的ながら記すことにしましょう。「映画館の日々」には書き終えていない回があり、いずれそれにも立ち戻るつもりではありますが、『コーラ』ではこれが初回ですので、以下の記述によって、少しでも今後の方向性(あるとして)を示せればと思います。

■「私は同性愛者ではありませんが」
 セクシュアル・マイノリティを研究テーマにしている大学院生Cさん(女性)は、なぜ同性愛に興味を持ったのかという質問を受けることがあるそうだ。それも、どうしてそんなものに関心を持つのか想像もつかないという「あどけない」★1 態度でもって。ちなみに、当人はジェンダー研究を専攻していて、女性差別には敏感だったりするという。

 実はCさんには女の恋人がいるのだが、質問者にそれを教えることは「説明」になるだろうか? 「あどけない」質問者は、それをどのように理解するだろう? 「同性愛者」【という特殊な人間】が「同性愛」【という特殊なテーマ】を研究する?

 あの学者たち、同性愛にかかわるトピックを取り上げたり、同性愛に関係のある文献の翻訳を出すのに、「私は同性愛者ではないが」という文句を、発表時や、訳者あとがきに入れずにはいられない男性たちは、まぎれもなくそう考えているのだろう。(これが、当事者でないのに利いた風な発言をする私を許して下さい、という意味でないのはいうまでもない。)

 ある集まりでスピーカーをつとめたCさんは、こんな時どう答えたらいいと思いますか?/あなたはどう答えていますか? と参加者に質問した。Mさんは、今は(女性の)ポルノグラフィ研究をしているが、以前の研究テーマは「ジェンダー」だった人だが、カントが専門の男性から、なぜジェンダーなんかに興味を持つのだと不思議がられ、ではなぜあなたはカントを、と相手の立場を問うたそうだ。

 今ではMさんはなぜポルノに興味を持つのかとは訊かれない。ポルノに反対するフェミニストだと早合点されるのだ。

 女が(フェミニストが)取り組む研究として、反ポルノグラフィは不思議とは思われないらしい。Mさんはそうでないから、あちこちで不審がられている。私はMさんの研究を不審に思わないだけでなく、近く出るはずの初の単著を楽しみにしているくらいなのでつい忘れがちになるが、彼女の研究を目障りなスキャンダルと、そこまで行かなくても奇異なものと受け取る女の学者(フェミニスト?)は確かにいるようだ。

 Cさんは東京に来る前、故郷のセクシュアル・マイノリティ団体で活動していた(そして疲れ果て、東京では「運動」はしないと言っている)。Cさんの若さから、疲れるほどの年数やっていないだろうとはじめは思ったが、事情を聞けば無理もない。その中には、団体内でゲイ男性から女らしくないと言われたとか、ゲイ男性がレズビアンまで代表して「同性愛者は」と語ってしまうとか、反対に、レズビアンは性欲がないからいいねと、わけのわからぬことを言われたとかいうことが入っている。要するに、通常のジェンダー間の社会関係、権力関係が(なんとも退屈なことに)、そこでも反復され、再生産されているのだ。

■「私、ポルノでマスターベーションするんですけど」
 Mさんと知り合ったのはある研究会に当人の発表を聞きに行ってであるが、その第一声がこうだった。要するに、自分が「当事者」であることをのっけから明らかにしたのだ。私をその研究会に誘った人は、ああいうことを言わなければならないこと自体が問題だ、と眉をひそめてあとで私に言ったけれど、私はこのパフォーマンスでいっぺんにMさんが好きになった。

 フェミニズムもヘテロ中心だから、たとえば夫婦別姓のようなテーマの方が研究として上位と見なされるという発言も、Cさんが話題提供した会では出た。参加者の一人が最後に述べた、いかに順位を下にされ、瑣末なこととされていても、「本当は瑣末なことじゃないんだ」とはっきり言っていかなくてはならないという意見が印象に残った。

 柳澤厚生労働大臣の「産む機械」発言に対して日本女性学会が意見書を出したことを、その席ではじめて知った。あれも抗議すべき事柄の順番が違うという批判が出たのだ。早速見てみると――(
http://www.joseigakkai-jp.org/yanagisawa.html)「人をモノにたとえるのは人権感覚の欠如である」という文句が真先に見える。順序だの何だの言う前に、言語感覚の欠如ではないか。人をモノにたとえることなど日常生活においてありふれている。「民さんは野菊のようだ」とか、「安倍くんはしなびた茄子に似ている」とか。

 あれが「機械」でなく、「産む性」とか「産む役割」とか「産む役目を持つ人間」だったらよかったのか? いや、女の性の中心に「産む」ことがあると決めつけることこそがおかしいのだ。しかし、柳澤のようにそう考えない人間が佃煮にするほどいることはわかっているので、あの発言の翌朝、TVのワイドショーが競って柳澤大臣を非難しているのを、私はむしろ不思議なものとして眺めた。読売新聞特別編集委員の肩書で出ているジイサマは、柳澤さんにだって産んでくれたお母さんがいるでしょう、と訴えた。そうか、ここでないがしろにされたのは、女自身ではなく〈男〉の母であったか。

 柳澤発言がそうやって非難の的となったとき、「瑣末なこと」とされたのは何であったか? 産む気がなく、産みたくない女の生だ。安心して産める環境を整えろとか、産みたくても産めない女の気持ちを考えろとかいう主張はもっともなことだが、同時に「産む」ことを特別視し、女の「産みたい」という欲望を「自然」視している点では柳澤と異ならない。ついでに言えば〈母〉をそんなふうにまつり上げずとも、女は産むときは自分の理由で産む。

 柳澤発言は何よりもまず「女の性的自由に対する侵害である」ことを、日本女性学会は言うべきであった。「女のセクシュアリティにとって再生産は周辺的で派生的なことに過ぎない」と明言しろとまでは言わないにしても。

■「女性は出産という、もっとも現実界に近づけるイベントを運命付けられている」
 柳澤発言を検索していて、〈「産む機械」という言葉の力〉と題する記事を見つけた。「アブラブログ」というこのサイトは、ラカンについて該博な知識を持つ人が書いているらしい。「あぶらすまし」と名乗る書き手は、柳澤発言に「過剰な」反応を示す「社会学的フェミニズムの皆さん」や「社会で働く女性の権利をテーマにしている女性論者の方々」と、「一般の女性」とを分け、「政治的な問題、フェミニズムの問題という視点」からだけものを見るフェミニストの女は「思考停止」だと言う。「私は政治関係を論じるつもりはないので、脇においておきたいと思います」と断って、「フェミニスト」からは隔たった「一般の女性」の感覚(といわれるもの)を中心に据えようとする。そして彼女たちは「子供を産む機械」という表現に〈現実界〉の暗喩を感じている、と分析する。《この「子供を産む機械」という言葉は、現実界的本来の意味でのリアリティを持っていると言えるのではないでしょうか。》

「機械的」とは「動物的」ということだ。《自我なしで世界を認知するのは動物的と言えるでしょう》とか、《「子供を産む機械というものが動物的に感じる[ママ]のはこのためです》と言われ、「近代的自我信仰」が強い「今の時代の人々」にはそれは耐え難く感じられると説かれる。自我の強い女たちはヒステリックに糾弾し、「一般の女性」はそれを過剰反応だと感じる、というわけだ。

 こうした分析が必ずしも的を外しているとは思わない。また、たとえ外しても、そこに組み立てられた図式は何がしか役に立つものだ。全体として、なかなか面白いブログなのだ。だが、「政治的な」「自我の強い」女と「一般の女性」とのあいだにはどうやって線が引かれるのか。林道義が荒川区の男女共同参画ナントカの会長に就任するという茶番があったとき、Mさんが、彼らは保育所を減らそうとしていると憤りをこめて言うのを見て、そうか、政治的にはそういうことに怒るべきであり、その線で訴えて賛同者をふやすべきなのかと気がついたが、私にはもともと、保育所がどうのより、馬鹿の言説が大手をふってまかり通ることが何より不快であった。柳澤発言にしても「社会で働く女性の権利」として糾弾するのは〈必要な仕事〉だとは思うけれど、本当の問題はそこにはないと感じている。「政治関係」を「脇において」おきたいのはあぶらすまし氏と同じなのだ。だからといって、Mさんが「自我の強い」フェミニストで、私が「一般の女性」ということにはなるまい。

 あぶらすまし氏は、柳澤発言に怒る女性について次のように分析する。

《受動的とはいえ、女性にも自我はありますし、象徴界に参入しています。ファルス的享楽のような能動性がないわけではありません。しかしそこで、「自我なんてものは必要ないんだ、能動性なんか必要ない」みたいなことを「父親」から言われたらどうでしょう? 「父親」により象徴界に参入させられた身としては、その言葉は「裏切り」のように思えるでしょう。柳沢大臣という人物は高齢の男性であり、その肩書きも象徴界=社会的に代表といえるものです。即ち「父性」を強く暗喩する人物(の名)であると言えます。
比喩的にまとめましょう。柳沢大臣のこの発言への強い反発は、父親に裏切られたことへの怒りである、ということになるでしょうか(こういった言い回しも女性が精神分析を嫌う一因になるのかなあ)。これは性的な女性差別という解釈による反発の奥にあるものとして捉えて下さい。》

 精神分析を嫌うのではなく、女について知ったかぶりをする奴を嫌うのだろう(精神分析自体は女にとっても貴重なツールだ)が、それ以前にこの古典的図式の応用は笑える。《柳沢大臣という人物は高齢の男性であり、その肩書きも象徴界=社会的に代表といえるものです。即ち「父性」を強く暗喩する人物(の名)であると言えます》って、あの情けない爺が? まあ、そういう反応自体が、ふがいない父に対するアクティング・アウトだとか言われかねないのだろうが。

「同性愛者」が当事者性を言うのは、当事者でない語り手によって自らがあまりにも一方的に規定されてきたからだが、同じく一方向的に規定されてきた女性の場合、さらに悪いことに、「女性自身にとっても女性は謎である」といった言説にさらされる。それならば男にとってはなおさらわからないだろうということにはなぜかならず、「女性の謎」は相変らず男の手のうちにあることになる。女は存在しない――あるいは、(たとえば)あぶらすまし氏の分析によって存在する。小見出しにしたのは同ブログ中の文章だ。柳澤大臣の言葉を、あぶらすまし流に言い換えたものともいえよう。

■女のオタクは存在しない
 アブラブログの別の記事〈「ボーイズラブ」にはまる「少女」たち〉になると、「女」に対する一方的な規定はいっそうひどさを増す。〈私は「変な人」マニア〉であり〈「オタク」というシニフィアンを好んで分析する〉という彼は、分析する対象を「オタク文化のもう一つの側面」、「女性のオタクの文化」と呼ぶ。 だが、やおい(適当な言葉がないのでこう呼ぶ。私はボーイズラブとはまず呼ばないが、やおいとボーイズラブの違いについて論ずる気は、あぶらすまし氏同様、ない)にかかわる女は「女性のオタク」ではない。今、それについて深入りする気はないが、ここでは一般的に、男を基本にしてその変奏として「女の場合」を規定するのはいい加減にやめないかと言っておこう。

 あぶらすまし氏は「ボーイズラブという文化を理解できない」と言っている。ところが、「だからそれについては書かない」ではなく、「だから書く」になぜかなる。女について書いても、当事者から苦情は(少なくとも自分を脅やかすようなそれは)来ないと見くびっているのか。そして女ではなく「同性愛者」からも、次のようにエクスキューズ(というより媚び)を書きつづっておけば文句は出ないと思っているのだろうか。

《特に同性愛者は男女関係無く、頭でっかちでロゴス信仰も甚だしく論理的に喋っていると自分では思い込んでいるのか知らないが私なんかからみたら論理も稚拙で感情に流されているようにしか見えないヘテロ男性諸君より、はるかに知的で論理的で体感の言葉というものをきちんとわかっているように思う。一般的な傾向として。こういったエセインテリぶりたがるヘテロ男性より、同性愛者との語らいの方がはるかに楽しい。》

「同性愛者」ってそんなにすばらしい人たちなのか。私も会ってみたいものだ。

《/Laという女性の最初の位置が受動的であることに違和感を覚える女性もいるだろう。しかしよく考えて欲しい。女性は愛する男性が変わればファッションが変わったり、口癖が変わったりしないだろうか? 私がネットで見つけてとても感心した言葉にこういうのがある。「男性は過去の恋愛を『名前を付けて保存』し、女性は『上書き保存』する」。これはまさに/Laが受動的に決定されることを表現しているのではないだろうか。》

 /Laというのは象徴界に登録された女性の記号のこと(本当はバーで文字が消されているのだが、フォントがないからこうなっている。見馴れないので最初は何かと思った)。しかし、ラカンの用語を外してしまえば、これはただのオヤジ言説だ。一つ前の小見出しが柳澤発言と変りないのと同様に。

《……男性の方を見てみよう。Φを暗喩する事例を挙げてみる。少年漫画の「究極の強さ」、学問における「真理」、英雄が得る「絶対的権力」、宗教なら「絶対神」などだろうか。男性にとって失われたΦ=象徴的ファルスとは絶対的で単一のもの、まさに平原にそそり立つペニスのようなイメージを持つものである。一方、女性のS(/A)とは他者との「境界」である。だから絶対的でも単一でもない。女性にとって自らに求めるものは、強さなら究極でなくてよいし、真理も一つじゃなくてよいし、権力も絶対じゃなくてよいし、神も何人いてもよい。こういったことをフロイトは「女性は超自我が弱い」だの、誰の言葉か忘れたが「女性は自我理想が低い」などと表現しているのだ。また、象徴界の中でペニスのようにそそり立つ一つのものを構築する必要がないからロゴスもいらない。「女の勘」や「体感の言葉」でよい。このことを「女性は非論理的だ」と表現される。これらは単に去勢というトラウマ的なものに縛られている男性の言い分だと思えば可愛く思えてこないだろうか?》

こないよー。可愛いと思ってくれるのは「ママ」だけだろう。

■「私、やおいでマスターベーションするんですけど」
 レズビアン、宝塚にはまる女性、ボーイズラブにはまる女性を並べて論じようとして、あぶらすまし氏はある本を典拠として指名する。

《まずレズビアン。藤田博史氏著『性倒錯の構造』を紐解いてみよう。》

 これはなつかしいといえばなつかしい本だ。彼の文章は青土社が一時出していた第三の雑誌「イマーゴ」に連載されていて――それがこの本になったのだったかは忘れてしまったが――単行本も買い、面白く読んだし、知識も得られた。ただ、それほどの人でも、女について言及した途端、なんだ、ただの男の書き手だったんだという馬脚をあらわすと知った。そういう本なのだが――

《女性はS(/A)の位置から、対象aを求めることも可能である。これに父親=男性への幻滅が加わると、父親への挑戦として、あたかも「騎士道的愛」(ラカンによる表現)の如く、「本当の愛とはこういうものだ」というアクティングアウトで、S(/A)→対象aを体現する。これがレズビアンの精神分析らしい。》

「らしい」とは何をとぼけているのか知らないが(これだけ精神分析について知識のある人が、この事例をフロイトの著書に遡って承知していないとは思えないので)、この古典的な例一つにレズビアンを代表させているのはやはり問題だろう。そうやっても誰にも怒られないと思っているのは、「当事者」を見くびっているからだろうともう一度言っておこう。〈父〉に対して「本当の愛とはこういうものだ」と見せつけるアクティングアウトを、宝塚ややおいにも見ることは確かにできようと私も思う(宝塚については、荷宮和子の著作が興味深い)。少年マンガが求める「究極の強さ」云々といった指摘も面白い。だから、枠組みとしては役に立つものの。適用のしかたに無理があるから全体としてはひどくずれているという印象だ。

《男性にとって「かわいい」のはシニフィエとしての女ではなく、シニフィアンとしての「少女」だ。この男性のまなざしが、女性を「徹底して空虚な」シニフィアンとしての「少女」化に向かわせる。その究極的な存在としてのイコンが、戦闘美少女=ファリックガールである。
実は、現代でもっとも「女性」[ママ]というシニフィアンであろうとしているのは、男性の欲望に忠実なのは、ファリックガールに近い現実的存在は、BLにはまる女性たちなのかもしれない。》

「ファリックガール」は〈「子供を産む」という言葉の力〉の結びにも比喩として登場していた――《近代的自我とは、前の記事に書いた斎藤環氏の言う「戦闘美少女」のような、外側にファルス的な「確かなもの」を纏わせ、内部は空虚的な「曖昧なもの」なのではないでしょうか。彼らはその空虚に言動を操られているという事実から逃避している、そんな印象を、今回の騒動から私は感じました。》――が、ここでは、「男性のまなざし」によって「〈少女〉化」〉した、「男性の欲望に忠実」な「BLにはまる女性たち」として「現実的存在」になっている。しかしこれは、男性の(ここではあぶらすまし氏の)の「まなざし」が作り出した幻影にすぎない。徴候的なことに、書き手はこの「女性たち」から性的な気配を限りなく抜き去ろうと努めている。そのためなおさら「彼女たち」は「空虚で曖昧」な浮遊物とならざると得ないのだが、あぶらすまし氏にはそれが「男性の欲望に忠実」だからとしか見えていない。この人には、男同士のセックスのイメージで少なからぬ女が快を得ているということがわかってないようだ。いや、わかっているからこそ、それを脱性化しようとする無意識の機制が働くのだろうか。

■「愛は再発明されなければならない」★2
 やおいについて知りたければWikipediaのとるにたらぬ寄せ集めの記述に拘泥することはやめて、たとえば24年組に近い年齢の女性マンガ家たちが、少年マンガでヒーローが傷つけられたり、拷問されたりするシーンで性的に昂奮した記憶を語っていることを思い出してみよう。「伊賀の影丸」や「少年ジェット」で育った世代である彼女らは、男の子たちはヒーローの強さにばかり目が行って、そうしたエロティシズムに気づかなかったと言っている
★3(あぶらすまし氏が「BLの創始者であるらしい」と注しつつ引いている中島梓などは、彼女自身の特殊性を普遍化しないまま一般化してしまっているので、このあたりについてはあまり信用しない方がよろしい。)

 誰かが創始する以前からはじまっている空想の、より古い記録として明らかに指摘しうるのは、父親によってそのやおい的空想を分析されたアンナ・フロイトのケースである(「子供が打たれています」)。彼女の場合、その偉大な父との関係、生涯独身でレズビアンだったことなど、「精神分析理論があてはまりやすい群」(あぶらすまし氏)の一人であることは明らかだが(あたりまえといえばあたりまえだ)、同時に、《レズビアンが対象aという領域において、初めて「欠如」から脱し、「不在」ではなくなるのに対し、「BLにはまる女性」たちは永遠に「不在」であるのだ。》といったあぶらすまし氏の分類の無意味さを予感させもする。

 彼の使用する、ファリックガールの鎧にも似た道具立てにはなかなか惹かれるものがあるが、語られている内容は、もともと興味が持てないと自分でも言っている対象で理論の切れ味をためしているにすぎないからだろうか、「空虚で曖昧」だ。今はまだ「瑣末なこと」とされていようと、ヘテロセックスによって子供を得ること(「子供とその母親の関係性は、男女の愛よりもはるかに対象aに「究極的に」近似されている」(あぶらすまし氏)という「産む」ことの中心化)ではなく、この「再発明された愛」のほうが、女のセクシュアリティにとって「本質的」でないと誰に言えよう?

★1:「この世のものとは思えないほど「あどけない」文章の書き手である茂木健一郎」という金井美恵子の文章に、失笑しつつ手を打ったところなので早速流用する。「一冊の本」(朝日新聞社)2007年3月号。
★2:アルチュール・ランボー『地獄の季節』
★3:しかし、男もまた「究極の強さ」を求めるだけの単純な馬鹿ではなく、ファンタジーを〈少女〉と共有しえていたことが、「伊賀の影丸」や「鉄人28号」をリアルタイムで読んでいた男性によって証言されている。「rentoの日記」参照。


★プロフィール★
鈴木薫(すずき・かおる)二十年と十一ヶ月勤めた職場を晴々と辞める。この間失った、友人、祖母、両親(以上死別)、恋人(生別)。だが、それ以外には気分的に何一つ変わらない。両手は相変わらず空で、得るものはつねにこの先にある。ブログ
「ロワジール館別館」

Web評論誌「コーラ」01号(2007.04.15)
「新・映画館の日々」第1回:愛の再発明 あるいは愛される機械(鈴木薫)
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