私のスキー人生

 


(白馬乗鞍スキー場)

 雪国に生まれながら、貧乏な家に育った私は,スキーという「遊び」にお金を使うことは「悪」だと、いつのまにか思うようになっていた。その考えを打ち砕いてくれたのは,私の妻であった。

 私が本格的にスキーにのめり込んだのは、結婚をした翌年の28歳の時だった。妻とともに「金沢アルペンクラブ」というスキークラブに入り、夏はトレーニング、9月からは人工スキー場、11月には立山の新雪、そしてシーズン中はほとんど毎週地元のスキー場に出かけた。5月には立山のアルペンルートが開通するのを待って,そこで春スキーをやり、6月には乗鞍スカイラインで山頂まで登り,雪渓で滑った。

 こんなむちゃくちゃなスキー漬けの日々のお陰で、次のシーズン(1981年)にはSAJ(全日本スキー連盟)の1級を取ることができた。スキーを始めて延べ滑走日数67日目のことだった。

 
(1992年2月, 赤倉にて 撮影 岩城忠雄)    

 スキー人生を通していろんな事を学んだ。金沢アルペンクラブの石川理事長からは,生まれて初めて体育会系の「タテ社会」の人間関係を教えられた。

 また、赤倉ヨーデルスキー学校の菊地英男先生には、パラレルターンができなくてさんざん苦しんでいる時(1980年)、まことに時宜を得たアドバイスをしていただき,その日のうちにパラレルはおろか,ウェーデルンまでできるようになり、「教育方法」の大切さを教えられた。教え方一つで人間はこうも変われるものかという経験は,その後の私の教員生活の糧となった。

 これまでの延べ滑走日数は158日にのぼるが、その間,私のスキー人生で忘れられない先生が何人かいる。
 そのうちの一人が赤倉ヨーデルスキー学校の平井良司先生(現在はSAJデモンストレータとして活躍)である。先生には1999年2月にプライベートレッスンをお願いし, カービングスキーを教えていただいた。

その際、カービングの技術を教わっただけではなく、今まで誰も直すことができなかった私の滑りの欠点 (それは主として私の骨格の構造に由来するものであったが)を見事に修正し、私の滑りそのものをたった1日で変えてしまわれた。

 「左足の谷回りがしにくいのは後傾になっているから。山回りで沈み込んだ反動で思いっきり進行方向斜め前にジャンプしてください」というたった一言のアドバイスで、これまで10年あまり苦しんでいた技術上の欠点が克服されたのである。見事と言うほかない。まさか48歳にもなって自分の滑りが大きく進歩しようとは思ってもみなかった。平井先生にはいくら感謝してもし足りない。一生忘れられない先生である。


(1992年12月、三国丘高校スキー講習、 野沢にて)

 スキーに熱中することによって失ったものもあるかもしれない。しかし、私の場合失ったものよりはるかに「得た」もののほうが大きかった。「遊び」だって本気でやらなければ面白くない。「遊び」にすら熱中できない人間が、仕事に熱中できるはずがない。スキーはそのことを私に教えてくれた。体力のあるうちに,いつかヨーロッパアルプスを10q、20kmノンストップでぶっ飛ばしてみたい。 (1999年6月 記)
                           

 

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