社会主義とは何であったか

 社会主義のめざしたもの
 18世紀に唱えられたA,スミスの自由放任(レッセ・フェール)政策は、すべての人をhappyにしてく れるはずであった。たとえ人々が利己心にかられて行動しても市場メカニズムが働く結果、社会には一定の秩序がもたらされるというのである。スミスはこれを「神の見えざる手」とよんだ。しかし、実際には周期的な「恐慌」や「貧富の差の拡大」など、資本主義はさまざまな社会問題を生みだした。これらの問題をどのように解決するか。

 解決の方法として二つのことが考えられる。一つは資本主義を改革・修正することによって解決を図るか、あと一つは資本主義そのものを否定し、社会主義社会を実現することによって解決する方法である。前者の道を選んだのがケインズの修正資本主義で,後者の道を選んだのがマルクスである。

 マルクスはその著『資本論』(1867)の中で、資本主義という制度がいかに矛盾に満ちたダメな制度であるかを「実証」してみせた。もし「恐慌」や「貧富の差の拡大」といった問題が資本主義という「制度」に原因があるとするならば、その資本主義をぶち壊し、新たな社会体制を構築することに解決の道を見出そうとする発想はきわめて自然なものといえる。

こうして社会主義思想は、資本主義の生み出した矛盾を解決し、人々をhappyにするための切札として19世 紀に登場した。社会主義にさえなれば恐慌も貧困問題もない「自由」で「平等」な社会が実現する。そんな人々の夢を乗せて、1917年にロシア革命が起こり、地球上に初めての社会主義国家ソ連が誕生したのである。そして「社会主義は資本主義より人々をhappy にできるか」という壮大な世紀の大実験が始まったのである。

 社会主義の特徴を述べると次の3点である。
 第一に、私有財産制を原則的に否定し生産手段(土地・工場など)を国有化する。すなわち世の中から資本家の存在ををなくし、これにより所得分配の平等化を図ると同時に、倒産や失業問題を解決する。社会主義では、労働者は基本的には全員「公務員」のようなイメージとしてとらえるとわかりやすい。
 第二に、国家による計画経済を実施する。「何」を「どれだけ」作るか、また「価格をいくらにするか」といったことはすべて政府が決定する。これにより恐慌をなくし、インフレーションの発生を防ぐことができる。

 第三に、私的利潤の追求をやめ、社会的利益を追求する。これにより「働く喜び」を取り戻す。


 社会主義の実現したもの(旧ソ連の例)
 資本主義社会に住んでいるわれわれのもとには、一般に社会主義に対するマイナスのイメージの情報が多く入ってくる。しかし、もちろん社会主義にも良い面はいっぱいある。貧富の差がない、恐慌がない、失業がない、インフレがない、社会福祉が充実している、公共料金が安い、等々である。(資料省略)


ソ連はなぜ崩壊したか
 社会主義は、確かに資本主義の欠点を克服した。しかし、それにもかかわらず、社会主義はうまくいかなかった。何故だったのか。「万国の労働者よ、団結せよ」と記された板に、モスクワ市民が加筆した。「共産主義に反対して」と。1991年についにソ連邦は消滅した。ソ連型の社会主義がなぜ失敗したのか。その理由を考えてみる。

1、経済成長率の低下 (資料省略)
 マルクスはたとえ私的利潤の追求を禁じ、社会的利益を追求する社会を作ったとしても、人間はみんなのために喜んで働くだろうと考えた。しかし、実際は労働者の勤労意欲は低かった。 一生懸命働いても働かなくても給料が変わらないとしたら、適当に働くフリだけする人間が出てきても不思議ではない。中央集権型計画経済は巨大な官僚制を生み、著しい非能率と技術革新の停滞をもたらした。

2、政治的自由の抑圧
 自由の本質は国家権力に反対できることである。権力を批判する自由があって初めてその国は自由な国だといえる。権力に迎合する自由はいつの時代にもある。共産党による一党独裁体制をとるソ連では、そういう意味での自由はほとんどなかったといってよい。スターリンは自分に反対した者を約600万人殺したといわれる。
 1980年代にモスクワでささやかれたアネクドート(小話)にこういうのがあった。
アメリカ人とソ連人が互いに自分の国を自慢しあっていた。
 アメリカ人「アメリカは自由な国だ。たとえ私がレーガンのバカヤローといっても誰も私を逮捕しない」。
 ソ連人、「ソ連だって自由な国だ。たとえ私がレーガンのバカヤローといっても誰も私を逮捕しない」。


3、需要の多様化に対応できない中央計画
 昔は飢え死にしない程度の食料と、こごえ死にしない程度の衣類があればよかった。みんな同じものを着ていても誰も文句を言わなかった。しかし、生活が飢餓水準を脱し豊かになると、人々は自分の好みにあった良質の商品を求めるようになる。帽子の生産一つをとってみても、どんな大きさで、どんな色のものを、どんなデザインで、価格はいくらで、どれだけ供給したらよいのかを決めねばならない。資本主義のように市場が存在すればそういった消費者の好みは瞬時に生産者に伝えられる。

 しかし市場がない社会主義では、すべて中央で計画し決定しなければならない。かつてソ連には公定価格だけでも270万種類あるといわれた。豊かになればなるほど計画経済では対応できなくなるのは必然である。「生産力と生産関係の矛盾というマルクス経済学の真理は、ソ連にもあてはまった」といえる。

、軍事費というムダ使い
 およそいかなる国といえども、軍事費というムダ使いを長期に支出し続ければ、やがては国力が衰退していく。これはほとんど歴史的な法則といってもよい。レーガン大統領の「強いアメリカ」というキャッチフレーズに対抗してソ連も軍事費を拡大したことは、ソ連の崩壊を速めると同時に、皮肉なことに冷戦を終了させることにもなった。


中国の経済情勢

改革・開放政策(1978年)
 毛沢東は中国から帝国主義勢力を駆逐し中国を統一した。その点での評価は中国でも高い。しかし彼はイデオロギーにこだわりすぎた。大躍進期で政策の失敗から約2000万人の餓死者を出したことや、10年に及ぶ文化大革命によって国内を混乱させ、中国の発展を著しく遅らせたことなど、影の部分も少なくない。
 これに対してケ小平は「黒猫白猫論」でも知られるように、イデオロギーにはこだわらない政治家であった。社会主義とは「貧困の平等」であってはならない。そう考えた彼は、毛沢東の死後、1978年に農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を憲法に盛り込 み、「改革・開放政策」を開始した。またそれと同時に、一人当りGNPを増やすために「一人っ子政策」を展開した。

 さらに、1980年に深セン 、殊海、 山頭、アモイに経済特区を設置し、香港や台湾の「在外華人」の外資系企業の導入を図った。その結果、香港、台湾のヒト・モノ・カネは 1980年代の後半からは猛烈なスピードで広東や福建省に進出し始めた。そして、経済特区での試験的な市場経済化が成功すると、やがてそれは中国全土に広まり始め、1993年には社会主義市場経済という概念が導入された。香港は1997年に中国に返還された。
  一方、農村では生産責任制が導入され、84年末までに全国の98.3%の人民公社が解体された。ゆとりの出た農民は「郷鎮企業」 (村の中小企業をイメージすればよい)を起こし、万元戸とよばれる富裕層に成長した。

天安門事件(1989年)
 改革・開放という「経済の自由化」が進むと、かつてソ連がそうであったように、中国においても人々は「政治的自由」を求め始めた。その声が爆発したのが1989年の天安門事件である。しかし、ケ小平は断固としてこれを拒否し武力で鎮圧した。経済の改革・開放は推進するが、共産党の一党支配は絶対に崩さないというのである
 「中国に西欧的民主主義を持ち込めば、国内は混乱し、難民が周辺地域に何億人も流出するだろう」
 「20万人ぐらいの血の犠牲はかまわない。中国では百万人といえども小さな数にすぎない
 というケ小平の言葉は、ある種の凄味をもっている。政治的自由を優先したソ連の改革は大混乱に陥った。中国では経済的自由を優先し、政治的自由までは許さなかった 。それが成功した理由もしれない。天安門事件によって一時的な停滞はあったものの、その後中国の経済発展は目覚ましいものがある。

ひた走る中国経済
 ソ連が崩壊したときモスクワの市民が自嘲気味につぶやいた。「社会主義とは資本主義から資本主義にいたる遠くてつらい道ではなかったか」と。
 ベトナムの人々がアメリカを相手に必死にベトナム戦争を戦いぬいたのは「社会主義になれば豊かになれる」という信念からであった。しかし現実は「貧困の平等」と社会的停滞であり、1986年から「ドイモイ」(刷新)政策を展開せざるをえなかった。資本主義の欠点を取りのぞき、人々をhappyにするための切札として登場しなが ら、社会主義もまた別の「矛盾」を生み出してしまった。社会主義思想とは、レーニンや毛沢東が権力を握るための単なる手段として利用されただけだったのか。
 
社会主義思想とは北極星と同じように人類のゆくべき方向を示すが、永遠にたどりつくことができないものなのか もしれない。中国は共産党による一党支配と市場経済という根本的矛盾を抱えながら、とりあえず豊かさに向けてひた走る。

曲がり角に差し掛かった中国経済
 
中国では実質経済成長率が10%を超える高い成長率を維持してきた。2008年に北京オリンピックが開かれ 、2010年には上海万博が開かれた。しかし、資本蓄積に伴う限界生産力の低下や、少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少など、中国経済もそろそろ曲がり角に来ている。そのほか、次のようなさまざまな問題が発生している。

1、所得格差の拡大
 今、中国では確実に所得格差が広がっている。特に内陸部の農民の所得は沿海部の都市住民の40%程度しかない。この結果都市部では地方からの農民の出稼ぎの波「民工潮」が押し寄せている。ケ小平は「人によって先に豊かになる場合があるのは仕方がない。最後にみなが豊かになればよい(これを「先富論」という)」と喝破する。

2、環境問題の深刻化
  中国が経済発展を遂げれば、必然的に地球規模の環境問題が起きる。今自転車に乗っている12億の人々がみんな自動車をのり回すようになればどうなるか。 今の中国は日本より約40年遅れた状態と思っていい。日本が東京オリンピックを開催した1964年頃、日本列島は公害問題で大騒ぎをしていた。今の中国はまさしく40年前の日本の姿でもある。

3、高齢化社会の到来
 一人っ子政策はやがて急速な高齢化社会を到来させる。一人の子供に二人の両親、4人の祖父母。これをどう養うのか、深刻な問題である。


講義ノートの目次に戻る

トップメニューに戻る