裁判所

 

 1、法廷の傍聴

 教科書を勉強することも大切だが、現実に触れることはもっと大切である。法学を志そうと思ったら、まず実際の生の法廷を傍聴することをお勧めする。
 憲法第82条には「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行なふ」とあり、誰でもが自由に裁判を傍聴できることになっている(裁判が密室でなされたら恐いですね)。
 生徒を引率して多人数で傍聴するときは事前に裁判所の広報係に連絡が必要であるが、少人数なら連絡は不要である。各法廷の入口に開廷時刻が書いてあるから、開廷5分くらい前には法廷に入っておくようにしたい。
 傍聴席は前の方は事件関係者のためにあけておき、なるべく後方に座るようにしたい。開廷後の出入りは遠慮すべきである。裁判官が入廷したら、「一同起立」することも知っておこう。

 なお、法廷内を含め裁判所の敷地内での一切のカメラ撮影は禁止である。判決が下されるまでは被告人の無罪が推定され、被告人のプライバシーを守るためである。ただし、法廷内でメモを取ることは1989年から認められるようになった。

 高校生が傍聴するのであれば、刑事事件がよい(民事事件は見ていても分かりにくい)。10回傍聴にいけば、その内の6〜7回くらいは「覚醒剤取締法違反」である。そのくらい覚醒剤がらみの事件が多い。刑事事件の弁護人の大半は国選弁護人である。国選弁護人 に志願すると順番制で仕事が回ってくる。

 合議事件の場合、3人の裁判官で裁判が行なわれる。中央の裁判長をはさんで、裁判長から見て左側が左陪席、右側が右陪席である。通常、左陪席は裁判官になって5年以内の若い判事補が、右陪席は5年以上の判事補がすわる。合議事件ではいちばん若い左陪席が判決を書く習わしになっている。
 昔、あるお嬢さんが左陪席がお見合いの相手だといわれ、お忍びで見にいった。そして傍聴席から見て左側に座っているすでに髪が薄くなった人(実は右陪席)をお見合いの相手と錯覚して憤慨したという話がある。(『裁判官は訴える』日本裁判官ネットワーク、講談社 p41)

 現在、日本には裁判官が約2900人、検事が約1800人、弁護士が約3万人いる。 (弁護士白書2011年より)


 

 

 

 

 

 

 












2、制度

 憲法第76条では、司法権は最高裁判所及び下級裁判所(高裁、地裁、家裁、簡易裁)に属し、戦前にあったような行政裁判所軍法会議のような特別裁判所は設置することができないとされる。また、公正取引委員会や行政の許認可など、行政機関が下す決定に対しては、不服があれば訴訟で争うことができることも定めている。
 日本の裁判制度は「三審制」がとられており、一審に不服があれば「控訴」、二審に不服があれば最高裁に「上告」できる。
 一般に、最高裁の役割として、

1,憲法判断、
2,解釈の統一(判例の変更等)、
3,具体的事件の救済、

 の三つがある。このうち、重大の事実誤認や量刑不当などによって原告の訴えが認められたのは、5万件のうち50件程度(0.1%)である。

 

3.最高裁判所

(1)ある最高裁判官の1日
 『弁護士から裁判官へ』(大野正男著、岩波書店 2000年発行)を読むと、裁判官の激務ぶりがわかる。
 朝8時40分に公邸に迎えにきた車に乗り込み、9時20分に最高裁判所に到着。その間も車の中で書類に目を通す。最高裁が年間に扱う事件は約6000件。これを三つの小法廷でこなすから、一つの小法廷で約2000件。小法廷は約5人から構成されるから、一人で400件くらいを主任として担当する。これがいかに大変かは、平均的な弁護士が処理する件数が、年間30件くらいというから想像がつこう。
 仕事の大半は記録読みである。中には2万ぺージをこえる資料もある。もちろん全部を読む暇はない。記録には約30人いる調査官(彼らはもまた裁判官の資格をもつ)が事前に下読みをして「現判決に問題なし」「現判決に問題あり」などと意見を付してくれる。ほとんどの事件は原判決通りで最高裁の出る幕はない。判決の言い渡しは、当事者には通知しないので、書記官、廷吏など裁判関係者以外だれもいないガランとした法廷で言い渡される。1回に数十件あるが、まとめて言い渡されるので30分もかからない。
 午後6時退庁。万歩計をつけたら1日750歩だったという笑えない話がある。公邸に帰っても夜8時から書斎で仕事を開始。夜12時就寝。

2)大法廷と最高裁の構成
 最高裁の裁判官は長官を含め15名で構成されている。大法廷では長官を中心に、15人が左右に先任順で並ぶ。
 大法廷は憲法判断や判例の変更を行なうときに開かれるが、1975年頃から大法廷に回付される事件はめっきり減少し、年間1〜2件である。それだけ憲法判断を争う事件が減少したからであろう。

 最高裁の長官は内閣(実際は首相)が指名をする。また、14名の判事は、長官(個人)の推薦を参考に、内閣(=首相)が任命をする。したがって、ここに任命権者による政治的配慮が入り込む余地がないとはいえない。

 法律では15名の判事のうち、5名以内の判事については法曹資格者であることを要しない。一般に、判事の出身構成は、裁判官6名、弁護士4名、検察官2名、行政官・外交官・大学教授各1名、というふうにバランスをとることが慣行となっている。たとえば弁護士出身の判事が70才の定年で退官すれば、その後任には、日弁連の推薦リストを参考に、長官が弁護士の中から判事候補者を首相に推薦することになっている。

 

4.司法権の独立

 昔から洋の東西を問わず、裁判官は権力者に従う配下として裁判を担当してきた。大岡越前にしても、遠山の金さんにしても、彼らは幕府の意向を無視できる立場にはなかった。裁判官が、権力者の顔色を見ながら裁判を行なえばどうなるか。少なくとも権力者を批判する自由は保障されまい。
 裁判官が、権力者に対抗して国民の権利を守るためには、権力者の干渉を排除し、自分一人の判断で独立して裁判を行なえる制度が必要である。

司法権の独立を担保するための制度

職権の独立  憲法第76条3項は、「すべての裁判官は、良心に従い独立してその職権を行なひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しているのは、そうした要請を制度化したものである。
裁判官の身分保障  裁判官の独立を担保するために、徹底した裁判官の身分保障がなされている。たとえば、しかるべき理由がなければ罷免になること(クビになること)はない。また、報酬も減額されない。
 特に「裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行なふことはできない」(第78条)と定めているのは、過去の歴史がその反対であったことを物語っているのであろう。そのほか、最高裁に裁判に関する規則制定権を認めているのも、司法権を不当な干渉から守るためである。

 裁判官はこうした制度があるために、たとえ相手が現役の権力者であっても、安心して公正な判決を書くことができるのである。ただし、どんな職場でも嫌がらせがないとはいえない。裁判所でも、最高裁は任地(だれでも都会に行きたがる)や、昇給をテコに裁判官を統制しているという指摘もある。
 司法権の独立に対する干渉事件としては、大津事件(1891年)や平賀書簡事件(1969年)が有名である。

 


5.司法権に対する民主的統制

 権力を国民からの距離によって順に並べるとするならば、国会・内閣・裁判所の順である。国会議員は国民が直接選ぶので、国民に非常に近い位置にある。これに対して内閣は、国民からすれば間接的に組織されるので、もう少し遠い位置になる。
 一方、裁判官は、司法試験に一回受かっただけでなれるので、国民からすればいちばん遠い位置になる。いくら専門性が重視されるとはいえ、国民主権の立場からすれば、これは問題といえる。2 900人も裁判官がいれば、中には裁判官として好ましくない人物がいるかもしれない。いかにして不良な裁判官を排除し、司法権を主権者である国民の統制下に置くか。 基本的には次の二つの方法がある。

弾劾裁判所  

 これは、衆参各7名の国会議員で構成され、非行があったとされる裁判官が訴追された場合、審議し、罷免できる制度である。戦後、これまでに7回開かれ5人が罷免されている。
 弾劾裁判所は永田町の自民党本部隣の参議院第二別館(南棟)9階にある。14人の裁判員(=国会議員)のほか、12人の職員からなる事務局がある。年間予算1億8000万円(2004年度)。法廷は最高裁大法廷と同じような立派なものである。
 一方、訴追委員会は各議院10名で構成され、事務局は衆議院第二議員会館内におかれている。

 

国民審査  最高裁の裁判官については国民審査の制度がある。これは任命後初めて行なわれる衆議院総選挙の際に、罷免させたい裁判官に×印をつけるものである。しかし、判事の一人一人の判決や人柄にまで精通している人はほとんどなく、ほとんどの人は何も書かずに投票するため、現在までに罷免された裁判官はいない。憲法は、その後10年を経過した場合にも同様の審査を行なうものと定めているが、最近の最高裁判事の任期期間が平均6年程度であるから、現実問題として2回国民審査を受ける人はほとんどいない。

 

 

6.国民の司法参加制度

 陪審制度はイギリスで発達し、のちにアメリカに伝わった。もともとは事件の起きた付近の住民の中から、事情をよく知っているものを呼び集めて、集団的証言で判断させたのが起源といわれる。 映画「12人の怒れる男」は、陪審制度を描いた名作である。

 日本では1923年に導入されたが、実施の成績がよくなかったのと費用がかかりすぎたことなどから、1943年に停止された。しかし、2009年から裁判員制度の導入が予定されている。裁判制度は職業裁判官による裁判以外に次の3つのタイプがある。

陪審制、参審制、裁判員制度の比較

陪審制度  アメリカやイギリスで行われている制度で、12人の一般市民が、裁判官と独立して事実問題について「有罪か無罪か」を決める(全員一致)。有罪ということになれば、裁判官が法律問題(法解釈)や量刑を行う。陪審員は事件ごとに選任される。
参審制度  ドイツやフランス、イタリア、スウェーデンなどで行われている制度で、裁判官と一緒に、事実問題・法律問題(法解釈)について審理し、有罪・無罪・量刑を決める陪審制より参審制の方が裁判参加の度合いが強い。参審員は任期制で選ばれる。 ドイツの場合参審員の人気は4年である。
裁判員制度  裁判官3名と裁判員6名が一緒になって事実認定と量刑を決定する。この点 は参審制と同じである。また、裁判員が事件ごとに選任される点では陪審制と同じである。裁判員制度は、陪審制・参審制のいずれとも異なる日本独自の制度である。
 なお、対象となる事件は死刑または無期懲役になるおそれのある重大事件で、裁判員制度は地方裁判所のみで実施される。地方裁判所の刑事事件(第一審)は年間約10万件あるが、そのうち裁判員制度対象事件数は全体の3%、約3000件である。また、裁判員に無作為抽出で選ばれる確率は平均、4 900人に一人で、裁判の多くは6回以内の審理で終了する。

 

 

7.免田事件に見る冤罪(えんざい)

(1)事実
 1948年(昭和23年)熊本県人吉市で強盗殺人事件が起きた。翌年1月免田栄さん(23歳)が別件逮捕され、1審で死刑判決、2審・3審とも控訴・上告棄却で死刑が確定した。
 1952年、家族の下に1通の封書が届いた。死刑の際、遺体を引取にくるかまたは火葬代金700円を支払えという連絡であった。もし連絡なき場合は九州大学病院で解剖材料にするという。

(2)無罪判決
 しかし、免田さんは獄中から冤罪を訴え続け再審請求6度目でようやく死刑囚としては初めて再審裁判で無罪判決を勝ちとった(1983年7月)。事件発生から34年6ヵ月、死刑確定から31年7ヵ月という長い年月が流れていた。当時23才だった免田さんも、自由の身になれたのは57才であった。拘置された代償として、刑事補償法第4条に基づき約9000万円が認められた。しかし、免田さんの人生は取り戻すことはできない。以下、免田さんから直接聞いた言葉を紹介する。

(3)免田さんの生の声より
  「取り調べでは、逆さづりにされたり、竹刀で殴られたり、引きずり回されたり等の拷問を受けた。そしてへとへとになってから誘導尋問をされた。刑事が3交替で入れ代わりたち代わりやってきて、夜も寝かさないで数日間の取り調べがなされた。しまいには熱がでてきてガタガタ震え始めると、『人を殺して良心が痛むのか』といわれた。
 どうして自白をしたかということだが、調書がどうやって作られたかを言うのは恥ずかしいものだ。ともかく楽になりたい一心で、『やってないんだから、裁判所で本当のことを言えばよい』と、自分に言い聞かせて、自白に同意してしまった

 刑務所内では煙草1本が、今だったら500円くらいのヤミ値がついていた。独居房で暴れて懲罰にかけられた。手錠をされたり、棒を背中にして手を縛られた。飯も用もそのままの格好で足した。
 死刑台にゆくのは牛・馬の方が素直だ。台に乗ったらすぐストーンと落とす。死刑台から落とされると息はすぐ切れるが、心臓だけは動いている。頭に昇った血は首にロープが巻きついていて心臓に帰れないため、鼻、口、耳や 頭髪からもほとばしり、見られたものではない。

 自分の命も欲しいが、真実はもっと欲しい。釈放されて10年。今68歳。社会はそれでも『無罪』とは認めてくれない。寂しいですよ。なんで出てきたのかと思うこともありますよ。」    (1993年10月27日 枚方市で行われた講演より)

 

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