「正義の戦争なんてあるはずがない。 戦争はしょせん人殺しである。いかなる理由をもってしても、人殺しを正当化する理論なんてあり得ない。」と単純に言い切れないところが、国際政治の難しいところである。
1,三つの戦争観
古来、人々は戦争をどのようなものと考えてきたのであろうか。代表的なものとして、中世の「正戦論」、近代の「戦争無差別観」、20世紀に入ってからの「戦争の違法化」という三つの考え方がある。
(1)正戦論(中世)
4世紀のアウグスチヌスから始まる考え方で、キリスト教的正戦論ともいわれる。すなわち、神の意に添う戦争は正しいとするもので、「汝の敵を愛せよ」という隣人愛を説くキリスト教の例外として、戦争の遂行を認めるものである。では、なにをもって神の意に添うとするのか。答えは明快である。ローマ法王が正しいといえばその戦争は正しいとされる。そして、戦う相手は不正義であり、戦利品を略奪することもまた正当化される。なぜなら、罪あるものからの戦利品は略奪ではなく「処罰」と考えられたからである。
(2)無差別戦争観(近代〜19世紀)
近代にはいると無差別戦争観が現れる。「戦争に正義も不正義もない。全ての戦争は合法であり許される」、とする考え方である。たとえば、19世紀のドイツの軍人クラウゼヴィッツは、「戦争は政治の延長」と主張した。主権国家には戦争をする権利があり、外交で決着がつかなければ、戦争で決着をつけるのもやむなしとされたのである。
このような考え方が出てきたのは、1648年のウェストファリア条約によって主権国家が誕生し、全ての国が対等になったからである。この条約によって、中世のローマ法王の権威が失墜し、どっちが正義であるかを判定する上位機関が消滅してしまった。全ての国がお互いに正義を主張すれば、戦争は正義と正義のぶつかり合いになってしまう。この結果、戦争には正義も不正義もないと考えられるようになったのである。
ただ、そうした中でも戦争をルール化しようとする動きはあった。人間がケンカという行為をボクシングやプロレスというゲームに変えたのと同じ発想である。戦時といっても何をしても許されるわけではなく、戦争の時でも守るべきルールがあるというのである。こうした考えを最初に打ち出したのが、グロチウスであり、彼は『戦争と平和の法』(1625年)を著した。ただし、ここでいう法(=ルール)とは、人間が作ったものではなく、自然界に存在し、人間の理性の力で発見されるもので、一般に「自然法」とよばれる。こうしたことから、グロチウスは「国際法の父」とか「自然法の父」とよばれたりするようになった。
こうした戦争のルール化はその後も継承され、1899年のハーグ陸戦法規では、毒ガスの禁止などが決められた。また、1907年のハーグ陸戦法規では、「開戦に関する条約」が結ばれ、戦争をするに際しては、宣戦布告をすることが取り決められた。今日、当然のように思われるこうした取り決めも、当時は明確なルールがなく、日露戦争にしても、日清戦争にしても、明確な宣戦布告の前に実質的な戦争状態に入ってしまっていた。
1949年、ジュネーブ4条約が結ばれ、捕虜を人道的に扱うことが決められた。これらは、1977年の追加議定書と並んで、一般に国際人道法とよばれる。
(注、国際人道法という法律は存在しない。国際人道法とは人道に関する取り決めの総称であ
り、具体的には次のようなものがある。
1.ハーグ陸戦条約(ハーグ法)1899年
捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術などを定める。23条では「毒、または毒を施した兵器の使用」を禁じている。
2.ジュネーブ諸条約(4条約からなる、ジュネーブ法)1949年・・・・狭義の国際人道法といった場合、このジュネーブ条約を指す。
◆戦地にある軍隊の傷者および病者の状態の改善
◆海上にある軍隊の傷者、病者および難船者の状態の改善
◆捕虜の待遇
◆戦時における文民の保護
3.1977年: 1949年ジュネーブ諸条約の二つの追加議定書(1949年のジュネーブ諸条約を補完するもの)
◆国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する第一追加議定書
◆非国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する第二追加議定書
4.対人地雷の使用、貯蔵、生産および移譲の禁止並びに廃棄に関する条約(1997年)
5.国際刑事裁判所に関するローマ規程(1998年)
*そのほかにもたくさんあるが、これらを総称して国際人道法と呼ぶ。 |
(3)戦争の違法化(第一次世界大戦後〜現在)
20世紀に起きた2度の世界大戦を反省して、国際社会は「戦争の違法化」に動き出した。すなわち、次の規約・条約・憲章などにおいて、あらゆる戦争は基本的には全て違法だとしたのである。
1920年 国際連盟規約
1928年 パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)
1945年 国連憲章(第2条第4項)
とくに国連憲章第2条第4項は、「全ての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を…………慎まなければならない」と述べ、戦争の違法化を戦後の国際社会の柱として強く打ち出した。
ただし、あらゆる戦争は違法だとしても、次のような場合は戦争をすることが許されている、とするのが国際法の常識である。
国際法上許される戦争
個別的自衛戦争 |
侵略された場合、自国を守るための防衛戦争(国連憲章第51条)。 |
集団的自衛権の行使 |
軍事同盟を結んでいる一方の国が攻撃された場合、これを自国に対する攻撃と見なし、同盟国とともに戦う場合(国連憲章第51条)。 |
国連が認めた武力制裁 |
集団安全保障を機能させるために、国連は国際法に違反した国に武力制裁を行うことができる(国連憲章第42条)。(例)湾岸戦争(1991年)。 |
およそ、全ての戦争が違法だというならこんな分かりやすい話はない。あらゆる戦争に反対すればよいからである。そうではなく、場合によっては許される戦争もまた存在するからややこしい。
夜道を歩いていて暴漢に襲われれば、自分の身を守ることは「正当防衛」で無罪である。また、暴漢を捕まえて裁判によって刑罰という「制裁」を加えることも正義にかなう。それと同じで、国際社会でも許される戦争はあり得るのである。
ただし、違法ではない戦争があったとしても、それが正義の戦争であると言えるかどうかは議論の余地がある。すくなくとも、個人レベルで見ればいかなる理由をつけても戦争は「人殺し」であり、正義とよべるような代物ではないはずである。
2.正義は勝つか?
「正義は勝つか?」と質問されたら、皆さんはどのように答えるであろうか。
「勝つ」とか「負ける」という答えを考える前に、この設問に何か引っかかりを感じないだろうか。そう、そもそも「正義」とは何だろうか。いったい誰が正義と決めるのであろうか。その事を考えないで、この設問に答えることは不可能である。歴史を振り返れば、しばしば戦争に勝った方が「正義」を名乗り、負けた方は不正義とされる。
例えば、第二次世界大戦。戦争に勝った米・英・仏は自らを「民主主義の守護神」と名乗り、日・独・伊の「ファシズム」を打倒したと歴史に刻んだ。そして、東京裁判やニュルンベルク裁判で、敗戦国の戦犯を処刑した。確かに、「民主主義」対「ファシズム」という対立図式を出されたら、ファシズム側に勝ち目はない。しかし、連合国の中のソ連は、はたして「民主主義国」だったのか? 600万人を処刑したというスターリンの独裁体制をいかなる理由で「民主主義陣営の一員」と呼べるのか。笑止というほかない。
歴史に「もし」ということはあり得ないが、もし第二次世界大戦で日本が勝っていたら、今頃日本の教科書は第二次世界大戦をどのように記述していたであろうか。「アジアから欧米の勢力を追放し、近代500年の欧米中心の世界の流れを変えた正義の戦いをした」とでも書くのであろうか。そして、米・英・仏を「アジアやアフリカを植民地として食い物にした鬼畜国」とでも書くのであろうか。
また、アメリカについては、「広島
・長崎に原爆を投下し、武器も持たない一般市民を何十万人も大量虐殺した戦争犯罪者」とでも記述するのであろうか。
日本の右翼とよばれる人たちは、素朴にこうした考え方を支持しているが、
広島・長崎についてはその通りだとしても、単純に、日本がそんなカッコイイ戦争をしたとも思えない。いずれにしろ、歴史を客観的に評価することは非常に難しいことだけは肝に銘じておきたい。
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