米ソ対立(冷戦)

 

1.時代区分

 第一次世界大戦後、イギリスに代わってアメリカが「世界の警察」としてリーダーシップをとらなければならなかったにもかかわらず、アメリカが自らの役割を自覚せず、国際連盟にすら加入しなかった。それが第二次世界大戦を食い止めれなかった原因一つであるとも言われる。
 第二次世界大戦後、ようやくそのことに気が付いたアメリカは、ソ連という強力な社会主義国家が登場したこともあり、その後、積極的に「コワーイお兄ちゃん役」をつとめるようになった。第二次世界大戦後の世界を記述するにあたり、戦後を便宜上次のように時代区分する。

  1947年〜1962年     第一次冷戦  
  1963年〜1979年   デタント(緊張緩和) 
  1980年〜1989年   第二次冷戦
  1990年〜   冷戦後の世界

 1947年のトルーマン・ドクトリンは冷戦開始の「公式声明」といわれるように、この後、米ソの本格的な冷戦が始まった。米ソの緊張は1962年のキューバ危機でピークを迎えたが、キューバ危機をきっかけに核戦争だけは回避しようというムードが高まり、デタントが進んだ。しかし、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけに、米ソの緊張は80年代に入り再び高まった。そして、80年代における米ソの軍拡競争がソ連経済を破綻に追込み、冷戦を終わらせる一因となったのは歴史の皮肉というべきか。20世紀は資本主義対社会主義の壮大な人体実験の世紀であったと言えるかもしれない。

 

 

2.冷戦構造の形成 (ヤルタ体制の成立)

(1)鉄のカーテン演説
 1945年、F、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米・英・ソの3首脳がクリミヤ半島のヤルタで会談し、ドイツの分割占領のほか、ソ連の対日参戦と千島・樺太の領有などを決定した。この会談は東西二陣営が鋭く対立する冷戦構造の起点となった。やがて東西対立は、チャーチルの「鉄のカーテン演説」(1946年)に象徴されるように、次第に深刻なものとなっていった。

(2)トルーマンドクトリン
 1947年2月、イギリスはそれまで自国の勢力下にあったギリシャ、トルコか ら撤退することをアメリカに通告した。この地域にソ連の影響力が強まることを恐れたトルーマン米大統領は、自由主義を守るためにギリシャ、トルコに対して経済的・軍事的援助をすることを議会に要請した。これがトルーマン・ドクトリンと呼ばれるもので、共産主義に対する「封じ込め政策」の最初のものとなった。
 一方、東側陣営もコミンフォルムを結成し(1947年)、イタリアやフランスなども含めた各国共産党の組織的な系列化をはかった。

3)マーシャルプランとコメコン
 この3ヵ月後、アメリカはマーシャル・プラン(1947年)を発表し、戦争で疲弊した欧州経済を復興させるために、ヨーロッパ諸国に経済援助をすることを決定した。しかし、東欧諸国の参加はソ連の圧力によって実現せず、ヨーロッパはこれを契機に完全に東西に分断されることとなった。
 一方、東側陣営はマーシャル・プランに対抗してコメコン(経済相互援助会議)を設立した。

(4)NATOとワルシャワ条約機構
 
西側陣営は1949年にNATOを結成し、東西対立はますます激しさを増していった。一方、ソ連は 1955年にワルシャワ条約機構を結成し対抗した。

 

 

3.ドイツの分割

 1945年のヤルタ会談で、ドイツの分割統治が決定した。同時に、ソ連占領地区のなかにあるベルリンもまた、東側をソ連が、西側を仏・英・米がそれぞれ占領することとなった。

 スターリンは、2600万人の死者・被害に対する戦後補償として、ドイツにある物品を手に入れようとし、ドイツ 紙幣の原版を手に入れ大量に発行することを計画した。もちろん、そんなことをすれば激しいインフレになる。そこでアメリカとイギリスは新しい紙幣「ドイツマルク」を発行する通貨改革を断行した。ところがこれに反発をしたソ連は、ただちに西部ベルリン(西ベルリン)を封鎖する対抗措置をとった。すなわち、西ベルリンから西ドイツ地区につながる鉄道と高速道路(アウトバーン)を封鎖してしまったのである(ベルリン封鎖、1948年)。

 これにより西ベルリン235万人の市民は孤立してしまった。交通が遮断されたばかりではなく、送電も止められ、完全に陸の孤島となった。もしここでアメリカが西ベルリンを放棄すれば他の西側諸国に不安を与える。そう考えたトルーマン大統領は、大規模な空輸作戦を決意した。この後11ヵ月にわたって、1日最高1400機(ほぼ1分おき)、延べ27万7000便の輸送機で、食料・燃料などが空輸された。

 結局、約1年後に封鎖は解除されたものの、1949年、ドイツは東西に分裂し、資本主義国と社会主義国という二つの体制の下でスタートすることとなった。  
 当初、ベルリン内部では東西の往来は自由であった。そのため、生活水準の低い東独から西独への逃亡者があいつぎ、その数は毎年20万人前後に上った。
 1961年
、東ドイツは逃亡を防ぐためにベルリンの壁を設置した。その後1989年にベルリンの壁が崩壊するまで、この壁は東西冷戦の象徴とされ、逃亡を試みたうち558人が死亡した。
 

 

4.朝鮮戦争(1950年〜53年)

 第二次世界大戦が終わったとき、朝鮮半島は北半分をソ連が占領し、南半分をアメリカが占領していた。結局、大国のエゴにより、一つの民族が資本主義と社会主義という別々の道を歩むことになったのである。

 1950年、北朝鮮は武力による朝鮮半島の統一を試みた。朝鮮戦争はその後、3年余り続いた。最初の1年間は半島を北から南、南から北へとローラーのように上下する激しい攻防戦を繰り広げ、残りの2年間は国連軍100万と共産軍90万が3 8度線あたりで、泥沼のような攻防戦を展開した。1953年休戦協定が結ばれたが、韓国の李承晩大統領(1948〜60)は最後まで調印を拒否し、結局、調印は北朝鮮軍と国連軍(米軍)の間でなされた。

 この戦争で日本からは兵器、弾薬、ジープ、トラック、軍用毛布、外套、被服類など、さまざまなものが購入された。また、この戦争をきっかけに、米比相互防衛条約、ANZUS、日米安保条約など西側の反共包囲体制が急速に強化された。

(コラム) 朝鮮戦争その後


 現在も続く朝鮮半島における南北対立は、冷戦構造の最後の残滓である。朝鮮戦争は決して終わったわけではない。結ばれた協定はあくまで「休戦」協定であって、現実に戦争を終決させたものではない。

したがって、両国は今だに戦争状態にあると考えたほうが分かりやすい。朝鮮半島が南北に分断されたとき、北の経済力は南の経済力を上回っていた。北の優位性は1970年代初めまで続いた。

しかしその後、優位性は逆転した。韓国が輸出主導の経済政策によって急速に経済発展したからである。 一人当たりGNIは韓国の20045ドル(2007年)に対して、北朝鮮は1108ドル(2006年)である。

1994年、建国以来権力を握ってきた金日成が死去し、息子の金正日があとを継いだ。2000年には南北会談も実現した。しかし、朝鮮半島統一のシナリオはまだ見えてこない。 万が一、北朝鮮経済が自己崩壊をするようなことがあれば、韓国をはじめ70万人近い在日コリアンを抱える日本にも大量の難民が押し寄せることは必至である。自己崩壊は決して望ましいシナリオではない。

アメリカをはじめ、日本や韓国が北朝鮮に経済援助をする理由もここにある。いちばん望ましいのは、北朝鮮経済を徐々に回復させ、東西ドイツが統合をはたしたように、南北朝鮮を統一に導くというシナリオであるが・・・・。

 

 

5.ベトナムにおける資本主義と社会主義の対立

 ベトナムは1887年以降フランスの支配下にあった。(仏領インドシナ連邦)。第二次大戦中、フランスがドイツに破れた隙を狙って、日本がベトナムを占領した(1940年)。しかし、日本軍が引き揚げた第二次大戦後は、ホーチミンが指導するベトナム民主共和国(北ベトナム)と、フランスの後ろ盾によって成立したバオダイ政府(南ベトナム)が対峙し、フランス軍と北ベトナム軍の間で激しい戦闘が展開されていた(第一次インドシナ戦争)
 結局、北部の山岳地帯のディエン・ビェン・フーの戦いで敗北したフランスは、1954年のジュネーブ協定でベトナムから撤退した。

 協定では、それまで一つの国家であったベトナムを、とりあえず北緯17度で南北に分断することとし、2年後に統一選挙をすることとなっていた。 しかし、アメリカの反対で統一選挙が行なわれなかったばかりか、もしアメリカが南ベトナムを支援しなければドミノを倒すように東南アジア全体に社会主義国が広がってしまうという理由(=ドミノ理論)から、このあとアメリカは資本主義陣営の守護神として、フランスに代わって南ベトナムの支援に乗り出したのである。

 1961年、ケネディ大統領は100名の軍事顧問団を派遣し、62年には1万6千人に膨れ上がった。その後、ジョンソン大統領は、1964年のトンキン湾事件(アメリカの駆逐艦がトンキン湾で北ベトナムの魚雷攻撃を受けたという嘘の説明)をきっかけに、1965年から本格的な北爆(北ベトナム爆撃)を開始した。これがいわゆるベトナム戦争(=第二次インドシナ戦争)である。

 この戦争でアメリカは、1969年には最大55万人の兵を派遣したのをはじめ、第2次世界大戦の2倍以上の爆弾を投下した。しかし、アメリカの敵は北ベトナム兵士ばかりではなかった。南ベトナムの4分の3を支配する南ベトナム民族解放戦線の兵士(ベトコン)とも戦わなければならなかった。社会主義になれば幸せになれると信じたベトコンは手強かった。そのためアメリカは、2万5千トンの枯葉剤も使用した。
 それにもかかわらずアメリカは勝てなかった。アメリカの残虐な戦争実態が明らかになるにつれ、アメリカは本当に資本主義を守るための正義の戦争をしているのだろうかという疑問の声が出され、国内で反戦ムードが高まった。1973年、パリ和平協定が結ばれ、アメリカは撤退した。アメリカの後ろ盾を失って、1975年にはサイゴンが陥落し、翌1976年には南北ベトナムは正式に統一された。

追記)統一後のベトナム
 共産主義になれば豊かになれるはずであった。しかし、共産主義は人々を幸せにはしなかった。1986年、ドイモイ政策(刷新)が展開され、資本主義が復活した。ベトナムではバイクのことを「ホンダ」という。1997年にホーチミン市(地元では相変わらずサイゴンという)を訪れたが、たくさんの「ホンダ」が道いっぱいにあふれ、大変活気が感じられた。

(コラム)ベトナムでの実射体験
 ベトナム旅行をしたとき、本物のライフルを撃つ機会があった。観光客相手に1発1ドルで撃たせてくれる。合計3発撃った。初めて手にしたライフル。意外と重い。さっそく使い方を教わり、数十メートルほど先にある的に狙いを定める。そして、ゆっくりと引き金を引く。
 「バン」という音が耳栓を通して聞こえた。 初めて撃ったライフル。引き金は思ったより軽い。これだったら簡単に人を殺すことができる。指1本動かすだけで、簡単に人の命を奪うことができる

ナイフで返り血を浴びながら殺すことにはためらいがあるとしても、ライフルの場合は、至近距離でないかぎりそれほど罪の意識を感じないのではないか。そんなことを瞬間的に思った。

ナイフ→鉄砲→爆弾→ミサイル・・・・ 武器が進歩するにつれ、殺す相手の顔を見なくてすむようになった。それだけ人を殺すことが無機質化し、ゲーム化する。恐ろしい時代になった。

 

   

6.キューバ危機とデタント

(1)核開発競争
 核を大量に持つことによって戦争を防ぐことができるという核抑止論にささえられて、戦後、米ソは激しい核開発競争を展開してきた。1949年ソ連が原爆を完成させると、アメリカは1952年水爆を完成させた。これに対抗するように、翌1953年にはソ連も水爆を完成させた。その後、核を運搬するミサイル技術の開発に重点がおかれるようになり、大陸間弾道ミサイル(ICBM)や原潜発射型ミサイル(SLBM)が開発された。

(2)キューバ危機
 アメリカは1960年代はじめまでには、ICBM・SLBM・戦略爆撃機など、軍事的にソ連に大きな差をつけていた。ソ連はその劣勢を一挙に挽回するために、1959年にキューバに社会主義政権が誕生したのを受けて、キューバに中距離ミサイル基地を建設することを計画した。しかし、これはやがてアメリカの知るところとなった。
 ここに基地ができれば、北極正面でソ連とにらみあうアメリカはその背後から狙われることとなる。しかもアメリカの主要都市の大半が射程距離に入ってしまう。まさにアメリカにとって「のどに刺さったトゲ」である。ケネディ米大統領は核戦争も辞さないという強硬な姿勢でキューバ沖の海上封鎖をし、フルシチョフに譲歩を迫った。
 13日間続いた危機は核戦争寸前までいったものの、結局、アメリカがキューバを再び侵攻しないという公約と引き換えに、ソ連は基地建設を断念した。ソ連はキューバ危機で屈伏せざるをえなかったのはソ連側の核の劣勢にあるとして、その後1960年代の後半から急速に軍備増強に乗り出した。

(3)デタントの開始
 しかし、キューバ危機によって核破滅の深淵を見た米ソ両大国は、この後デタント(緊張緩和)に向けて努力しはじめた。

部分的核実験停止条約(NPT 1963年)  米英ソの間で、大気圏内、宇宙空間、水中での核実験が禁止された。ただし地下を除く
核兵器拡散防止条約(1968年)  核を持っていない国が新たに核開発をすることを禁止した条約。核をすでに持っている国に有利な非常にエゴイスティックな条約であるが、多くの国が加盟した。
SALTT
(戦略兵器制限条約
、1972年)
 核運搬手段であるミサイルの発射機をこれ以上増やさないようにしましょうという条約。

 また、1975年には、ヨーロッパにおけるNATOとWTOの対立を緩和するために、全欧安保協力会議(CSCE)が開かれ、ヘルシンキ宣言が採択された。

 もちろん、デタントの期間中にもヴェトナム戦争中ソ対立が展開されたり、SALTT後は、戦略兵器のMIRV化(個別誘導多核弾頭)や命中精度の向上といった質的軍拡が図られるなど、緊張要因はなくなったわけではない。しかし、 米ソが核大国としての責任を自覚し、軍備管理の気運が生まれてきた意義は大きい。
 1979年のソ連のアフガニスタン侵攻によってデタントは終わりを告げた。

(コラム)ソ連による自陣営の締め付け
 ソ連は社会主義から離脱しようとする国家に対して、執拗に軍事介入を行なった。「社会主義共同体の利益は、各国の個別的な利益に優先する」という制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン、1968年)が、そのための根拠とされた。制限主権論は1988年にゴルバチョフによって放棄されるまで維持された。モスクワっ子の間で流行った小話にこんなのがある。
「ソ連人は何年ごとに外国へ行けるか知っているかい」
「国内旅行でさえ当局の許可が要るのに、外国旅行なんて行けるわけがないじゃないか」
「ところが行けるんだ。12年に1度はね。ほら1944年(第二次大戦)、56年(ハンガリー事件)68年(チェコ事件)、80年(アフガニスタン侵攻)
「乗り物はなんだい?」
「もちろん戦車さ」

 

 

7.第二次冷戦と冷戦の終焉

 1979年のソ連のアフガニスタン侵攻によって、世界は第2次冷戦(または新冷戦)と呼ばれる新たな局面に突入した。1981年にレーガン米大統領がソ連を「悪の帝国」と呼び、「強いアメリカ」づくりを主張し軍拡を推進したことから、国際緊張は一層高まった。
 しかし、米ソともにこの軍事費負担は重く、とくに経済成長率の低かったソ連は、1985年、ゴルバチョフ政権の出現とともに積極的に軍縮交渉に乗り出さざるをえなかった。 一方のアメリカも「双子の赤字」で悩んでいたためここに両国の利害は一致し、このあと歴史は大きく動き出す。

INF全廃条約
 
(1987年)
 中距離方の核を全廃するというもの。人類の歴史上、初めて核を減らすことに米ソが合意した。5万発の核のうち、その4%が廃棄された。
 マルタ会談
(1989年)
 ブッシュ米大統領とゴルバチョフソ連 最高会議議長(当時)は地中海のマルタ島で会談し、第2次大戦後40数年間続いた冷戦(ヤルタ体制)の終結を宣言した。
東西ドイツの統合
(1990年)
 1989年、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、よく90年には東西ドイツの統合が実現した。
ソ連崩壊
(1991年)
 ゴルバチョフ自身は社会主義を否定するつもりは毛頭なく、むしろ彼のめざしたものは社会主義の強化であったといわれる。彼は、ソヴィエト国家を改革するためにはスターリン主義的な独裁主義から民主主義へと転換しなければならないと考え、1990年には「複数政党制」を導入した。
 しかし、彼のこうした改革に危機感を募らせた保守派は、1991年8月クーデターを起こした。これに 対して、改革を支持する多数のモスクワ市民は、エリツィンを先頭にクーデター派と戦い、クーデターを失敗に終わらせた。
 主導権を握ったエリツィンは共産党を解散させ、1991年12月には、15の独立国家共同体が設立され、ソ連邦は消滅した。

 ソ連の崩壊によって、20世紀を動かし続けたマルクス・レーニン主義は、ここに終焉を迎えた。ソ連が崩壊したときモスクワ市民が自嘲気味につぶやいた という。「社会主義とは資本主義から資本主義にいたる遠くてつらい道ではなかったか」と。

 

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