明治憲法と 日本国憲法

 

 

1、明治憲法の特色

 明治政府が憲法の制定を急いだ理由は二つある。一つは幕末の治外法権や関税自主権といった不平等条約を改正するためである。治外法権を撤廃しようにも、憲法も刑法もないのにどうやって犯罪人を裁くのかといわれれば、反論できない。第二の理由は、明治政府の内紛に破れた板垣退助らによる自由民権運動の高まりがある。
 1889年(明治22年)、ついに明治憲法が公布された。公布の儀式は1日中続き、退屈した天皇は夜にはあくびを連発し、予定されていた5曲の雅楽演奏が3曲で打ち切られたという。 明治憲法の特色は次の3つである。

明治憲法の特色

天皇主権  「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)とされ、憲法は天皇が制定し国民に与えたという形をとった(欽定憲法)。そして、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3条)とされ、のちには天皇の祖先は神であるという天孫降臨伝説によって、天皇の絶対性が補強された。
天皇に権力が集中 立法・行政・司法の三権が、すべて形のうえでは天皇に集中していたという点である。帝国議会は協賛機関とされ、内閣に関する規定はなく、各国務大臣は天皇を助ける存在とされた。また、司法権も天皇の名において行使された。そのほか軍の統帥権や緊急勅令・独立命令など、天皇が議会と相談せずに自由に行使しうる権限(天皇大権)も認められた。「大権」とは、王が持っている特権のことを言う。
 とりわけ軍の統帥権が天皇にあったということは、
明治憲法最大の欠陥といっていよい。軍部が暴走したとき、それを止める力は議会にはなかったのである。
不十分な人権保障  人権保障がきわめて不十分であったことである。本来、憲法とは国家権力を制限し、国民の人権を国家権力から守るべきものである。しかし明治憲法は欽定憲法という形をとったため、国民の人権は法律で保障されることとなった。したがって、国民の人権は「法律の範囲内において」しか認められなかった(法律の留保)。その結果、制定手続きさえ整っておれば、議会が悪法を作り人権侵害の主体となりうる悪しき法治主義の弊害も生じた。しかも現在と違って、裁判所には違憲立法審査権はなかった。

フランス人権宣言第16条には、「権力分立の規定をもたないすべての国家は憲法をもつものではない」とあるが、この点からすれば三権分立が不徹底な明治政府はまさに憲法をもつものではな かったといえよう。また、降臨伝説によって天皇の神格性を高めようとしたことは、ヨーロッパの王権神授説を連想させるものであり、この点からも明治憲法はその構造において、日本版の絶対王政であるという見方もできる。

 もちろん、明治憲法が天皇が「議会の協賛」をもって立法権を行い、国務大臣は、天皇に対して責任をとり、また司法権は裁判所が行う、などの文言から、右翼の人たちが主張するような天皇の「非政治性」を読み取れなくはない。彼らによれば、天皇は今も昔も「政治の外」に置かれていたのであり、象徴天皇制は日本国憲法になって始まったのではないとされるだからこそ、天皇制が連綿と続いてこれたのだという。

 いずれにしろ、徳川幕府を倒した下級武士の集団である明治政府が、その権威を保ち、ヨーロッパ列強による植民地化から逃れるためには、天皇を担ぎ出さねばならなかった事情は察するに余りある。しかし、明治憲法が上記のような性格を持っていたため、その後の日本は明治憲法の運用の仕方によっては民主主義的にもなれば、非民主主義的にもなった

 明治政府は議会を無視した(超然主義)。大正時代には議会の力が強くなり、原敬の政党内閣が成立するなど(1918年)、大正デモクラシーが出現した。しかし、昭和初期には軍部が台頭し、議会を守ろうとした犬養毅は1932年の五・一五事件で暗殺されてしまった。また、ロンドン軍縮会議(1930年)で補助艦の比率について話をまとめた浜口雄幸首相は、天皇の統帥権を干犯した(犯した)として右翼に狙撃され重傷を負った(翌1931年死亡)。

 なぜ無謀な第二次世界大戦を止めることができなかったのか。そこには明治憲法のもつ構造的な欠陥があったことは間違いない。

 

 

2、日本国憲法の成立

 現在の日本国憲法がアメリカによる押しつけ憲法かと聞かれれば、間違いなくそれは押しつけであろう。しかし、最初から押しつけられたわけではないことも知っておきたい。
 第二次世界大戦で敗れたあと、1945年10月、国務大臣松本蒸治(まつもとじょうじ)を中心とする「憲法問題調査委員会」が設置された。しかし、松本案は「国体」の維持が最重要課題とされ、戦前そのままの保守的なものであった。

 これが毎日新聞によってスクープされ、これを見たマッカーサーは、GHQ(スタッフは通常は約2千人、最盛時には約6千人いた)に憲法改正作業を命じた。草案の作成にあたっては、天皇制の存続・戦争放棄・封建制の撤廃の三原則(いわゆるマッカーサーノート)の指示が出された。弁護士、大学教授、元下院議員などからなる25人のスタッフが選ばれ、彼らは理想に燃え、わずか9日間でマッカーサー草案を作成した
 これを受け取った日本政府は、多少の字句の修正を加えたうえで、1946年11月3日(明治天皇の誕生日)に日本国憲法として公布し、半年後の5月3日から施行した。

 

3、日本国憲法の特色

 日本国憲法を読む際、いちばん大切なことは「なぜこのような規定があるのだろうか」ということを考えることである。一般に現実の社会では法に書いてあることと反対の現象が起こっていると見てよい。たとえば、刑法に殺人罪が規定されているのは、現実に人を殺す人がいるからである。同様に、日本国憲法を読む際も、この規定は何を反省して作られたのかを意識してほしい。その際、今の憲法を明治憲法の否定としてみるとよくわかることが多い。
 日本国憲法の三大原理が、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重の三つであることはよく知られている。ではなぜこのような規定が盛り込まれたのか。
 国民主権は言うまでもなく天皇主権に対する反省であり、平和主義は第二次大戦に対する反省である。基本的人権の尊重は、戦前に小林多喜二虐殺事件や京大滝川事件などがあったことを思い出せば、これまた当然の規定といえよう。

明治憲法

日本国憲法 

天皇主権 国民主権(天皇主権の否定
戦争肯定 平和主義(第二次世界大戦に対する反省
人権は法律の認める範囲内で保障(法律の留保) 基本的人権は永久不可侵
憲法に違反するすべての法律は無効

そして人権保障の在り方は、戦前の法律によって人権を保障するヨーロッパ流のやり方から、憲法によって人権を保障するアメリカ流のやり方へと大きく変化した。

 

 

4、日本国憲法の全体の構成

 ところで、日本国憲法の全体の構成はどのようになっているのであろうか。憲法は大きく分けて、基本的人権の保障(第3章)と、国会(第4章)・内閣(第5章)・裁判所(第6章)などの統治機構という二つの柱からなる。

 そして大切なことは、基本的人権と統治機構の関係は基本的人権が目的であり、統治機構は人権を守るための手段であるということである。両者が目的と手段の関係になっていることを理解すると、味気ない統治機構の勉強もがぜん楽しいものになる。このことを理解しないで、ただひたすら暗記することが憲法の勉強だという愚は避けたい。 また、戦争は基本的人権に対する最大の侵害行為である。このように考えるならば平和主義(第2章)も、天皇に関する規定(第1章)も、結局は基本的人権を守るための規定であるとみなすことができる。

日本国憲法の全体の構成

基本的人権の保障 (目的

第3章

統治機構 (人権を守るための手段 国会(第4章)・内閣(第5章)・裁判所(第6章)

 

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