明治憲法と 日本国憲法
|
||||||||||||||||||
1、明治憲法の特色 明治政府が憲法の制定を急いだ理由は二つある。一つは幕末の治外法権や関税自主権といった不平等条約を改正するためである。治外法権を撤廃しようにも、憲法も刑法もないのにどうやって犯罪人を裁くのかといわれれば、反論できない。第二の理由は、明治政府の内紛に破れた板垣退助らによる自由民権運動の高まりがある。 明治憲法の特色
フランス人権宣言第16条には、「権力分立の規定をもたないすべての国家は憲法をもつものではない」とあるが、この点からすれば三権分立が不徹底な明治政府はまさに憲法をもつものではな かったといえよう。また、降臨伝説によって天皇の神格性を高めようとしたことは、ヨーロッパの王権神授説を連想させるものであり、この点からも明治憲法はその構造において、日本版の絶対王政であるという見方もできる。 もちろん、明治憲法が天皇が「議会の協賛」をもって立法権を行い、国務大臣は、天皇に対して責任をとり、また司法権は裁判所が行う、などの文言から、右翼の人たちが主張するような天皇の「非政治性」を読み取れなくはない。彼らによれば、天皇は今も昔も「政治の外」に置かれていたのであり、象徴天皇制は日本国憲法になって始まったのではないとされる。だからこそ、天皇制が連綿と続いてこれたのだという。 いずれにしろ、徳川幕府を倒した下級武士の集団である明治政府が、その権威を保ち、ヨーロッパ列強による植民地化から逃れるためには、天皇を担ぎ出さねばならなかった事情は察するに余りある。しかし、明治憲法が上記のような性格を持っていたため、その後の日本は明治憲法の運用の仕方によっては民主主義的にもなれば、非民主主義的にもなった。 明治政府は議会を無視した(超然主義)。大正時代には議会の力が強くなり、原敬の政党内閣が成立するなど(1918年)、大正デモクラシーが出現した。しかし、昭和初期には軍部が台頭し、議会を守ろうとした犬養毅は1932年の五・一五事件で暗殺されてしまった。また、ロンドン軍縮会議(1930年)で補助艦の比率について話をまとめた浜口雄幸首相は、天皇の統帥権を干犯した(犯した)として右翼に狙撃され重傷を負った(翌1931年死亡)。 なぜ無謀な第二次世界大戦を止めることができなかったのか。そこには明治憲法のもつ構造的な欠陥があったことは間違いない。
2、日本国憲法の成立 現在の日本国憲法がアメリカによる押しつけ憲法かと聞かれれば、間違いなくそれは押しつけであろう。しかし、最初から押しつけられたわけではないことも知っておきたい。 これが毎日新聞によってスクープされ、これを見たマッカーサーは、GHQ(スタッフは通常は約2千人、最盛時には約6千人いた)に憲法改正作業を命じた。草案の作成にあたっては、天皇制の存続・戦争放棄・封建制の撤廃の三原則(いわゆるマッカーサーノート)の指示が出された。弁護士、大学教授、元下院議員などからなる25人のスタッフが選ばれ、彼らは理想に燃え、わずか9日間でマッカーサー草案を作成した。
3、日本国憲法の特色 日本国憲法を読む際、いちばん大切なことは「なぜこのような規定があるのだろうか」ということを考えることである。一般に現実の社会では法に書いてあることと反対の現象が起こっていると見てよい。たとえば、刑法に殺人罪が規定されているのは、現実に人を殺す人がいるからである。同様に、日本国憲法を読む際も、この規定は何を反省して作られたのかを意識してほしい。その際、今の憲法を明治憲法の否定としてみるとよくわかることが多い。
そして人権保障の在り方は、戦前の法律によって人権を保障するヨーロッパ流のやり方から、憲法によって人権を保障するアメリカ流のやり方へと大きく変化した。
4、日本国憲法の全体の構成 ところで、日本国憲法の全体の構成はどのようになっているのであろうか。憲法は大きく分けて、基本的人権の保障(第3章)と、国会(第4章)・内閣(第5章)・裁判所(第6章)などの統治機構という二つの柱からなる。 そして大切なことは、基本的人権と統治機構の関係は基本的人権が目的であり、統治機構は人権を守るための手段であるということである。両者が目的と手段の関係になっていることを理解すると、味気ない統治機構の勉強もがぜん楽しいものになる。このことを理解しないで、ただひたすら暗記することが憲法の勉強だという愚は避けたい。 また、戦争は基本的人権に対する最大の侵害行為である。このように考えるならば平和主義(第2章)も、天皇に関する規定(第1章)も、結局は基本的人権を守るための規定であるとみなすことができる。
日本国憲法の全体の構成
|