近代国際政治史

1、国際政治とは

 国際政治とは「国益」をめぐる国家間の生存競争である。「生存競争」と書いたのは、国内政治において政治家が致命的なミスを犯したとしても、国そのものが滅びるわけではないが、国際政治において政治家が致命的な判断ミスをしたら、文字通り国家そのものの滅亡を招きかねないからである。「もし、我々が国内政治をやりそこなうと、我々は飢えてしまう。もし、我々が外交政策をやりそこなうと、我々は殺されてしまう」、とJ、F、ケネディは述べているが、国際政治とはまさに、国と国との生存競争である。

 国家がその存亡をかけて守ろうとする国益の主要なものとしては、領土・資源・経済的利益・宗教・民族・イデオロギーなどがある。古来、人類はこれらの利害が対立した場合、「暴力」をもって解決することを基本としてきた。その原則は、20世紀になった今日も基本的には変わらない。国際政治の最大の特徴は、それが「やくざ」の世界に似ているという点にあるといえようか。日本国内にY口組とか I川会とかが存在するように、国際政治においても、世界的規模で展開される国際勢力図がある。それは「国家というやくざ」といっていいかもしれない。国益を守るために、そのうちのどこと手を結ぶのか。

 もちろん、このような「国益」を重視する考え方に批判がないわけではない。その一つが「国益」ではなく、「人類益」を追求すべきだという考え方である。前者を現実主義とするならば、後者は理想主義といえるかもしれない。しかし、「人類益」を追求すべきだとする考え方は、政治学者による強い支持があるとはいえ、今のところ現実の国際政治の主流とはなっていない。「自分の国さえよければいい」というエゴイスティックな考え方が、当然の権利として許されることも、国際政治のもうひとつの特徴といっていいかもしれない。

2、覇権国の推移
 国際政治は主権国家を単位として展開される。ヨーロッパにおいて主権国家が誕生したのは、30年戦争を終決させた1648年のウェストファリア条約以降である。国際政治を考えるとき、その当時のナンバーワンの国(=覇権国)を中心に見ていくと、複雑な国際情勢を理解する助けとなる。

 19世紀までは制海権を握った国が覇権国となった。貿易による利益を独占し、強力な軍隊を維持することができたからである。一般に、覇権国はおおよそ100年周期で交替するといわれる

 16世紀、最初に覇権国となったのは大航海時代に先鞭を付けた
ポルトガルであった。その後、ポルトガルはスペインに吸収され、代わって17世紀にはオランダが覇権国となった。しかし、そのオランダも3回にわたる英蘭戦争に敗れ、18世紀になると覇権国はイギリスに移った。イギリスは、世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、19世紀もまた覇権国の地位を保持した。ところが、20世紀の2度の大戦で疲弊したイギリスはトップの座から滑り落ち、第二次世界大戦以降はアメリカが覇権国として世界に君臨するようになった。

(覇権国の推移) 
     覇権国 挑戦国
16世紀 ポルトガル スペイン
17世紀 オランダ フランス
18世紀 イギリス フランス
19世紀 イギリス ドイツ
20世紀 アメリカ   ?

 一方、近代500年の歴史 を、ヨーロッパによるアジア・アフリカ支配の歴史とみることもできる。そこには、植民地をめぐる覇権国と覇権国に対立する挑戦国との激しい攻防が展開されてきた。その結果、南米はスペインの植民地となり、インドネシアはオランダが支配し、インドおよびアメリカはフランスを破ったイギリスが支配することとなった。そして19世紀末には、世界は欧米が工業生産の「中核」、アジア・アフリカは原料と市場を確保するための「周辺」という世界システムが完成した。(ウォーラーステインの世界システム論)。

 こうしたヨーロッパの動きは、日本の歴史とも密接に関連している。たとえば、日本に最初に鉄砲を伝えたのは種子島に漂着したポルトガルであったし、江戸時代の語学といえば英語ではなくまだオランダ語(蘭学)であった。一方、明治維新後、遅れて先進国の仲間入りをした日本が海外に展開するために同盟国として選んだ相手は、当時の覇権国イギリスであった(日英同盟、1902年)。

3、第一次世界大戦

 ところで、19世紀以降の国際政治はドイツを中心に見るとよくわかるといわれる。1871年、ビスマルクによって国家統一を成し遂げたドイツは、その後急速に頭角を現した。しかし、遅れて帝国主義の仲間入りをしたドイツが海外発展をめざしたときには、すでに世界の大半はイギリス・フランスなどの先発諸国によって植民地化されたあとだった。椅子取りゲームにたとえるならば、もう残っている椅子はわずかだった。ドイツに残された方法はただ一つ。他人が座っている椅子を取りにいくことであった。

 英独は植民地をめぐって激しく対立した。3C政策を展開するイギリスに対して、ドイツは3B政策を展開して対抗した。いわば、イギリスというライオンがくわえている肉を、ドイツが引きちぎりに行ったと言える。しかし、「同じことをしてもイギリスがやれば正しく、ドイツがやると間違ったことになった」(W.ウッドラフ)。

 第一次世界大戦とは、結局、「覇権国イギリスに対してドイツが挑戦し、敗れ去ったという基本的な構図」として理解するとわかりやすいのではないか。これにバルカン半島をめぐる独露の対立と、国境を接する独仏の因縁の対立という二つの対立軸が加わり世界大戦にまで発展したと考えるのである。

 第一次世界大戦の結果、ドイツは敗れ、ヴェルサイユ条約が結ばれた(1919年)。この時フランスは、敗戦国ドイツに対して1320億金マルク(当時のドイツの国家予算の17年分)という苛酷な損害賠償を認めさせた。これによりフランスは、約50年前に起きた晋仏戦争の復讐を成し遂げた。

しかし、第一次世界大戦の根本的原因となった植民地問題は未解決のまま残され、問題が先送りされた。こうした戦後処理のまずさの一つ一つが、やがて第二次世界大戦を引き起こす原因となっていった。


4、第二次世界大戦
 1929年に起きた世界恐慌をきっかけに、植民地問題が再び国際間の対立を引き起こした。恐慌を乗り切るために、植民地をもっているイギリス・アメリカ・フランスは植民地をブロック化することによって囲い込み、植民地をもたない国の製品を排除する政策に出たからである。一方,植民地をもたないドイツ・イタリア・日本は、結局また英・仏などのもっている「肉」を奪いに行くほかなかった。

 イタリアはエチオピアに、日本は満州に、ドイツはオーストリアやチェコにそれぞれ侵略していった。
世界システム論的に言えば、第ニ次世界大戦とは,第一次大戦に破れたドイツが,覇権国イギリスに再挑戦し敗れ去った戦争,と見ること もできる。

 ところで、第二次世界大戦をどのように評価するかは今だに定まってはいない。一つの見方は、第二次世界大戦を民主主義対ファシズムの戦いとする見方である。しかし、このような認識の仕方は、戦勝国が自らの立場を正当化する意図が強く、とうてい支持できるものではない。

同様に、日本が
アジアから欧米諸国を追い出すために正義の戦争をしたとする一部右翼の考え方も、日本を正当化し、非を相手にのみ押しつける意図があまりにも露骨であり、正しい歴史認識とは思えない。 いかなる理由があれ、日本が中国大陸に侵略し、たくさんの人を殺したという事実は疑いようがない。

 結局、
第一次世界大戦および第二次世界大戦は、列強による植民地という「肉」の奪い合いという中で起きた、と見るのがいちばん妥当なのではなかろうか。日本やドイツが海外に侵略したことはとうてい正当化できるものではない。しかし、同じことはイギリスやアメリカにも言えるのではないか。彼らは一体なんの権利があって海外を植民地化したのか。

 いずれにしろ、人間の科学技術が進歩した分、戦争の悲惨さも増幅されたことだけは確かである。ホロコースト(ナチスによるユダヤ人虐殺)など多くのジェノサイド(大量虐殺)が行なわれた。第二次世界大戦の犠牲者数はおおよそ5000万人〜6000万人といわれる。主な国の犠牲者数は次の通りである。

   第2次世界大戦の犠牲者数(概数)

ソ連 2600万人
中国 1000万人以上
ドイツ 1000万人
ユダヤ人 600万人(全ヨーロッパ1100万人の半分以上)
日本 300万人弱

(コラム)21世紀,人間は戦争のない社会を実現できるか。
 今から30年以上も前,世界史の勉強をしながら考えた。人間はなぜ戦争をするのか。その事が知りたくて,大学は経済学部を選んだ。以来,いまだにそのことを考え続けている。人間の持つ知識は確かに増えた。しかし,そのぶん人を殺す技術も進んだ。
人間の知識は増えたが,ちっとも賢くはなっていないのではないか。最近とみにそう思う。国際政治においては,人類はいまだに動物の世界から半歩も出ていない。

 

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