(発展学習)
憲法をより深く学ぶために

 

 

1、英米法と大陸法

 法には二つの源流がある。一つは英米法であり、もう一つは大陸法である。

英米法

 今日では法は人間が作ると考えれらている。しかし、中世のゲルマン社会・イギリスでは、法は人間が人為的に制定するものではなく、人為の外に地域の慣習として客観的に存在するものと考えられていた(=自然法)。法は客観的に存在する。だからそれは正義でもある。このことから国王を含むすべての人がそれに従わなければならないという論理が導き出される。ここでは裁判所の役割は、地域の慣習の中から客観的な法(コモン・ローと呼ばれ「憲法」に相当する)を発見することとされる。イギリスにおいて慣習法や裁判所の判例が重視される背景には、このような理由がある。これが英米法の基本的な考え方である。

大陸法

 これに対して、法は人為的に創造されると考えるのが大陸法である。大陸法は皇帝の権力が強かったローマ法に起源を持つ。法が統治者の意思を反映するとするこの考え方は、やがて絶対主義をめざす国王に引き継がれた。王権神授説を信奉するイギリスのジェームズ一世は、コモン・ローの原則を否定し、国王の命令こそが法であると主張して、国王の地位をコモン・ローの上に置こうとした。

 このような王権神 授説に対して、コモン・ローの優位を掲げ闘ったのがクックである。彼は、「国王といえども神と法の下にある」という中世のブラクトンの言葉を引用し、コモン・ローの支配すなわち「法の支配」を主張した。以後、議会の制定する法律といえども、コモン・ローに反することは許されないとされ、やがてこの「法の支配」の原理がアメリカに渡り、成文化され最高法規としての憲法典となった。憲法とはいわば、自然法を実定化したものといえよう。
 今日、英米法はかつての大英帝国の植民地であったアメリカ・オーストラリア・カナダなどに見られる。ちなみに、日本は明治時代にドイツ・フランスの大陸法の法律が作られ、その後アメリカによる憲法が導入され英米法が入ってきたため、両者が混在して現在にいたっている。

 

2、憲法の本質

 「憲法」という言葉には「立憲的な意味の憲法」と「固有の意味の憲法」という二つの意味がある。話し手がどういう意味で憲法を理解しているかによって、議論がすれ違うので、二つの意味の憲法をしっかり理解しておきたい。

立憲的な意味の憲(立憲主義)

 これは憲法によって国家権力を制限し、国民の自由を保障しようとするものであり、絶対王政の国王の権力を制限するところから生まれた。今日私たちが憲法とよんでいるものは、このような憲法であり、大多数の憲法学者はこの立場に立つ。立憲的な意味の憲法が英米法に由来することは言うまでもない。
 また、政治権力を憲法にもとづいて行使するという考え方を立憲主義と呼んでいる。
固有の意味の憲法  これは政治権力の基本的な在り方を決めているものをすべて憲法と呼ぶものであり、いかなる社会にも存在する。このような意味での憲法は、絶対王政にも存在した。また、聖徳太子の17条の憲法もこの広義の意味で使われている。
 この用語法は、立憲的意味の憲法を生み出しえなかった19世紀ドイツにおいて成立した用語法である。

 憲法の本質はもちろん「立憲主義」にあり、憲法の名によって無制限の権力行使を認める「固有の意味の憲法」は、立憲的意味の憲法とは根本的に異なるものであることに注意しなければならない。

 

 

3、日本国憲法における「法の支配」

 法の支配の内容としては、次の4点があげられる。

憲法の「最高法規性」  日本国憲法第98条は、憲法は国の最高法規であって、その規定に反する一切の法律や命令その他の国家機関の行為は無効であると定め、ここに明確に法の支配を認めている。
基本的人権の尊重(97条)  これは国王に代わって、議会が立法によって基本的人権を侵す権力として登場してきたことから、立法権を憲法の下位におき、個人の人権を保障しようとするものである。
裁判所の役割の重視  イギリスでは中世以来、コモン・ローを発見することがコモン・ロー裁判所の任務とされ、そのことが裁判所に対する尊敬の念となり、立法権も行政権も裁判所の判断に従うべきだという「法の支配」となった。わが国では、立法権も行政権も憲法によって拘束されることを担保するために、裁判所に違憲立法審査権を認めている(81条)。
「適 正手続き」の要請  権力を抑制するためには、法律の定める権力の行使もまた正当な手続きでなければならない。憲法第31条は、特に司法手続きとしての刑事手続きが適 正でなければならないことを定めている。


 

4、憲法と国民の義務

 日本国憲法は、国民の義務規定について次の3つを定めている。

教育を受けさせる義務(26条)  教育を受ける義務ではなく、親に対して子どもに教育を受けさせる義務課している。これは、子どもの「教育を受ける権利」を実質化するために設けられたものである。
勤労の義務(27条)  働く能力がありながら働かないで生活保護を頼ることがあってはならないという程度の趣旨である。
納税の義務(30条)  84条の租税法律主義と並んで、納税の義務は「法律の定めるところにより」行われる。

 近代憲法がもともと、生来の人権を保障するために、国家権力の制限・限界を示そうとするものであったことを考えると、国民の義務規定の強調は、本来の趣旨には馴染まないと考えることができる。したがって、上に述べた3つの義務規定も「立法による義務の設定の予告という程度の意味を持つにとどまっている」(『憲法T・U』野中俊彦ほか、有斐閣)と見ることができる。


5、憲法改正の限界と人権保障

 今では自然法の存在を肯認する人はほとんどいない。しかし、憲法が「憲法を超えたもの」から出発していることは、憲法理解の原点である。そして、憲法の源流が一種の自然法にあることは、基本的人権を侵すような憲法改正はそれ自身が無効である、という憲法改正の限界を導き出す一つの根拠ともなり得るのである。
 憲法第11条、97条において、基本的人権が「永久の権利」と書かれているのは、基本的人権が、憲法改正によっても侵すことができないという趣旨を示したものである。

(コラム1)  法と法律はどこが違うか?
 「法律」は立法機関によって作られたものであり、ときには悪法も法律となる可能性がある。これに対して、「法」は正しいものという意味をもっていて、 広い意味での社会規範や判例、自然法のようなものも含む。法は人によって作られるものではなく、人によって発見されるものということができる。それを成文化したのが憲法である。だから「法の支配」というときの法は「法律の支配」ではない。また、「憲法は法であるが、法律とは違う」ということになる。悪法が法に含まれないことも以上から明らかであろう。
 もちろん、「法」が憲法・法律・条例など法規範全体を指す場合もある。ただし、「法の支配」というときの法が、この意味ではないことは以上の議論から明らかである。

 

(コラム2)  憲法の私人間効力の問題
 人権にとってもっとも恐るべき侵害者は国家権力である。したがって、憲法の名宛人は国家権力だといわれる。では、憲法は私人間には適用されないのか。もちろん、憲法自身の法文やその目的から、憲法が私人に直接適用される場合もある。たとえば、憲法第15条C、第18条、第28条、などがその例である([2]『憲法』)。しかし、一般的には、憲法を私人間に直接適用するのではなく、民法90条の公序良俗規定などを媒介にして、憲法の人権規定を間接的に適用する「間接適用説」が通説となっている。
 大陸法の流れを汲むドイツでは国民も憲法を守るべきだと強制されるが、英米法の流れを汲む日本国憲法は、国民に対して憲法を守れとは言っていないことに注意しなければならない(日本国憲法99条)。

(参考文献)
[1]『憲法T』『憲法U』 野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利 有斐閣
[2]『憲法』 芦部信喜 岩波書店
[3]『日本国憲法概説』 佐藤功 学陽書房
[4]『憲法2統治』 渋谷秀樹・赤坂正浩 有斐閣アルマ
[5]『憲法入門』 伊藤真 日本評論社

 

授業こぼれ話の目次に戻る

トップメニューに戻る