情報社会に生きる(現代マスコミ論) 最終更新 2021年10月11日 |
|||||||||||||||||||||||||||
1、マスコミと世論
テレビ放送が開始されたのは1953年である。今やテレビは私たちの生活になくてはならないものとなった。私たちは1年間で、いったいどれくらいテレビを見ているのであろうか。仮に1日平均3時間見るとすると・・・年間では約1000時間。すなわち、日数に直すと年間で40日以上、夜も寝ないでテレビを見ている計算になる。テレビの視聴率1%は約100万人であることを考慮すると、テレビの影響力は絶大である。
*ちなみに、創価学会の機関紙である聖教新聞の発行部数は公称550万部、日本共産党の発行紙赤旗は100万部弱といわれている。 このほかにも私たちが情報を得る手段として、ラジオ、書籍、インターネットなどさまざまなものがある。とくに最近では、インターネットによって必要な情報が簡単に手に入るようになり、便利になった。 ところで、情報社会に生きる私たちにとって一番大切なことは、こうした氾濫する情報とどう向き合うかということである。結論を先に言えば、テレビや新聞の情報も疑ってかかれ!ということである。もっと言えば、本に書いてあることや大学の先生の言っていることも疑ってかかるべし、ということである。「はたしてそうか」と疑い、「自分なりに考える」。それが情報を受け取るさいの基本でなければならない。
2.統計資料の読み方
3.客観的報道はありうるか。 結論から言うと、おおよそ「客観的な報道」などというものは存在しないと考えるべきであろう。理由は以下のとおりである。 第一に、何を記事に取り上げるか、あるいは取り上げないか、という段階で必ず記者の主観が入る。たとえばなにか事件が起きたとする。それを記事として取り上げるかどうか。その取捨選択に際して、必ず価値判断を行なわざるをえない。それは客観性を求められる教科書の記述でも同じである。たとえば教科書に第二次世界大戦中の日本軍の行なった残虐行為を載せるかどうか。それはひとえに執筆者の価値判断にかかっている。 第二に、記事をどう扱うのか(肯定的に扱うのか否定的に扱うのか)を判断する際にも記者の主観が入り込む。たとえば湾岸戦争(1991年)のあと自衛隊の掃海艇がペルシア湾に派遣されたが、その際の記事の扱い方を比較してみるとおもしろい。肯定的な記事から否定的な記事まで、新聞各社によってまちまちである。一般的にいって記事の書き方は、産経新聞、読売新聞が右寄りで、朝日、毎日は左寄りである。 第三に、事件ををどのくらいの分量で扱うかにも主観が入り込む。たとえば、テレビのどのチャンネルを回しても、同じ事件を5時間も6時間も実況中継を行なっていることがあるが、そのことにどれほどの意味があるのか。
4.情報操作 20世紀のキーワードのひとつは「大衆」である。産業革命の結果、都市に出現した大衆は、やがて政治・経済・文化の在り方に大きな影響力をもつようになった。そして政治の世界では、大衆の支持を得ることは「正義」の代名詞と考えられるようになった。いかにして大衆の支持を得るか。それは議会制民主主義でもファシズムでも 同じである。20世紀は、あらゆる支配者が大衆を意識せざるをえなくなった社会でもある。 大衆の支持を獲得するために有効な手段が「情報操作」である。この情報操作をもっともたくみに利用したのはヒトラーである。ヒトラーは書いている。
こうして彼は、大衆をたくみに操り、ドイツ国民の選挙によって権力を獲得したのである。 情報化が進めば進むほど、権力者にとって「情報の管理」は重要になってくる。ベトナム戦争で自由な報道を許したアメリカは、湾岸戦争においては一転して徹底した報道管制を敷いた。テレビで見た湾岸戦争の映像は、まるでテレビゲームでも見るかのようにミサイルが空中を飛びかう映像ばかりで、まったく死体というものが出てこなかった。では、湾岸戦争で死んだ人はいなかったのか。もちろんそんなはずはない。イラクだけでも約12万人が死亡したと推定されている。また、油で真っ黒になった水鳥の写真は、イラクが環境破壊者であるというイメージを世界に強烈に植え付けることに成功した。
ちなみに、日本のマスコミは、新聞社とテレビ・ラジオが系列化されている。 テレビと新聞社の系列一覧
もし、新聞やテレビが一斉に同じ論調で書き立てたら・・・いったいどれほどの人がそれらの情報を批判的に受けとめることができるであろうか。マスコミの報道を鵜呑みにせず、「はたしてそうか?」と問う気持ちを常に忘れないでおきたい。現代はインターネットの登場によって、私たち一人一人がマスコミに負けないだけの情報発信力をもつことができるようになった時代でもある。
|