南北問題

 

 

1.第三世界の台頭
 第二次大戦が終了すると、アジア・アフリカ諸国が激しく独立を要求した。彼らは独立を達成すると資本主義陣営(第一世界)にも社会主義陣営(第二世界)にも属さず、第三世界として国際的な発言力を高めた。20世紀は、近代500年の歴史の中で 第三世界が初めて国際的に表舞台に登場した世紀といってよい。

 その発端となったのが、バンドン会議(=アジア・アフリカ会議)であった。1955年、周恩来、スカルノ、ネルーらのよびかけで、アジア、アフリカの29ヵ国の首脳がインドネシアのバンドンに集まり、反帝・反植民地主義、平和共存などをうたった「平和十原則」を採択した。この会議は植民地時代の終わりを世界に告げたという意味で画期的意義をもつ。

 「平和十原則」に集約された「バンドン精神」は、アフリカの未独立国に多大の影響を与えた。翌1956年にはスーダン、チュニジア、モロッコが独立。ついで翌1957年にはゴールド・コーストが独立してガーナとなり、さらに翌58年のギニアが独立した。また、1960年にはカメルーン、トーゴなど アフリカで合計17ヵ国がつぎつぎと独立し、1960年は「アフリカの年」と呼ばれた。

 一方、1961年、チトー・ユーゴスラビア大統領らの呼びかけで、第1回非同盟諸国首脳会議ベオグラードで開かれた(参加25ヵ国)。席上、非同盟諸国とは 次のような国々であるとされた。
@東西いずれの陣営にも属さず、また東西紛争に関わるいかなる軍事同盟も結ばない
A外国の軍事基地を自国の領土に置かない
B民族解放運動を無条件に支持する
同会議はその後ほぼ3年ごとに開催され、しだいに新興独立諸国を加え、参加国は120ヵ国(2012年現在)に上る。


2、先進国に対する経済的要求
 政治的に結束した第三世界はやがてその結束力を背景に、先進工業国に対してさまざまな経済的要求を突きつけるようになった。1960年には、OPEC(石油輸出国機構)が結成され、資源は発展途上国の所有物であるとする「資源ナショナリズム」の考え方が広まった。

 また、1964には第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)が設立され、先進国による援助(GNP1%)や特恵関税などを先進国に求めた。第三世界はその後も、1973年には石油を戦略として用い先進国をふるえ上がらせ(石油ショック)、翌1974年には「新国際経済秩序(NIEO)樹立宣言」を採択した。
  資源ナショナリズムの動きは、その後、銅、天然ゴム、ボーキサイト、鉄鉱石などさまざまな分野に広がった。

 しかし石油危機およびNIEOの樹立宣言をピークとして、この後、南南問題や第三世界の足並みの乱れなどから、80年代以降彼らの発言力は低下している。

                 資源ナショナリズム

組織・宣言 事項
OPEC(石油輸出国機構) 1960年  メジャー(国際石油資本)が産油国の了承なしに原油価格を引き下げたことに、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの産油国が反発し、1960年にOPECを結成した。現在の加盟国は12カ国。
国連総会 1962年  植民地が独立したあと発展途上国は相次いで国連に加盟し、国連総会における発言力を強めた。その成果の一つが「天然資源に対する恒久主権の権利」宣言である。
OAPEC(アラブ石油輸出国機構) 1968年  第3次中東戦争でOPECが反イスラエルに結集しなかったことから、反イスラエルを掲げるサウジアラビア、クウェート、リビアの3カ国が、1968年、OAPECを結成した。石油を武器に政治的な活動をするところに特徴がある。
 ただし、OAPECの協定には「OPEC決議に従う」とあり、OPECを補完する立場をとる。
国連資源特別総会(NIEO樹立宣言)

1974年

 1970年代前半の資源ナショナリズムの高まりを背景に、翌74年、天然主権の恒久主権などNIEO(新国際秩序)樹立宣言がなされた。


 
 
 3、貧困の連鎖
 
 現在、地球に住む72億人のうちの約5分の4は発展途上国に住んでいる。なかには、年収が10万円以下の人々も少なくない。世界銀行によると、1日あたりの生活費が1.25ドル未満(年間456ドル)の「絶対貧困」と呼ばれる人々が約14億人いる。これは世界の約5人に1人にあたる。

貧困はとくにサハラ砂漠以南のアフリカに多く見られる。彼らにとって、「主権国家」とは貧困者の「収容所」の別名にほかならない。政治的には独立しても、経済的には独立できていない。彼らのような、いわば「宇宙船地球号の船底生活者」を救いあげる方法はないのだろうか。

世界には先進国がいっぱいある。また、中国やNIES(新興工業経済地域)のように、工業化に成功した事例もたくさんある。そうした事例を研究すれば、発展途上国から中進国へtake off(離陸)するのはそんなに難しくないような気もする。しかし、実際にはなかなかうまくいかない。一般に、発展途上国が貧困から抜け出せない原因として、次のような要因があげられる。

第一に、モノを作るための資本が圧倒的に不足している。モノを生産するには工場や機械設備のほか、道路、港湾、鉄道、電力、通信といったインフラストラクチャーが必要である。多くの国ではこうしたインフラを供給するための資金を国内では賄いきれない。外国資本を呼び込むことが必要である。

中国では改革開放政策を通じて、外資の導入に積極的に取り組み経済発展に成功した。しかし、アフリカ諸国ではいまだに内戦が絶えず、外国企業が入っていきにくい状況が見られる。

第二に、発展途上国の多くは、植民地時代から一次産品に依存するモノカルチャー経済から脱却できずにいる。一般的に一次産品の価格は安く、また不安定であることが多く、これが貧困から脱出できない原因の一つになっている。

第三に、基礎教育の不足をあげることができる。発展途上国では教育施設が十分ではなく、また、あったとしても貧しいがゆえに子どもを学校にやることができない家庭がたくさんある。そのため、高い技術を習得できず、経済発展に結びつかない。

そのほか、乳幼児死亡率(生まれてから5歳までに死亡する割合)が高いこと、不十分な医療施設高い人口増加率など、さまざまな要因が発展途上国のtake offを阻害している。南北問題解消のためには、政治問題、人口問題、教育問題、医療など問題が複雑にからんでおり、貧困の再生産の状況が続いている。

 

 


4.ODA(政府開発援助)

  現在、さまざまな機関が、発展途上国に対して資本や技術の援助をしている。そのなかでも特に大きな役割を果たしているのが、各国政府の行なっているODA(政府開発援助)である。

日本のODAは開発途上国に対して直接援助(二国間援助)をしているほか、国際機関にもお金を出すことで発展途上国を支援しており(多国間援助)、その実施機関になっているのがJICA(国際協力機構)である

 発展途上国を支援する国際機関としては、第二次世界大戦後IBRD(世界銀行)が設立されたのに続いて、1960年にはIDA(第二世界銀行)、1961年にはOECD(経済開発機構)の下部機関であるDAC(開発援助委員会)が設立された。また、アジア開発銀行やアフリカ開発銀行などのほか、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)も途上国支援のための機関である。

このほか、国連児童基金(UNICEF)や国連開発計画(UNDP)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連食糧計画(WFP)や国連食糧農業機関(FAO)など、国連の機関も発展途上国を支援している。日本はこうした国際機関に対してODA予算を使って応援してきた。詳細は外務省のホームページから見ることができる。

一方、二国間援助には贈与政府貸付があります。贈与は無償資金協力や技術協力など、いずれも無償で行なわれる。逆に政府貸付は円借款とも呼ばれ、将来、途上国が返済しなければならない。しかし、政府貸し付けをしても、相手国が返済できない場合は債務免除をすることもある。

日本のODAは第二次世界大戦に対する戦後補償の意味あいから出発したが、現在では国際貢献のみならず、資源確保国家安全保障戦略として位置づけられている。

インドネシアが受け取り国のトップであるのは、もちろん石油確保が狙いである。中国や韓国へのODAは、戦後補償の意味合いが強いといっていい。アジアへの援助が多いのは、インフラ整備等の援助を行なうことによって、日本企業が進出しやすいようにする目的もある。最近では、中東やアフリカ諸国への援助も増えている。

日本の援助額は1991年から2000年まで10年連続して世界一だったが、その後、2001年のアメリカ同時多発テロ以降、アメリカは「貧困がテロの温床になる」として積極的にODAを増額し、世界一の援助国となっている。一方、日本は長期にわたる景気低迷のためODAは減額され、現在は世界第5位に後退しています。それでも2014年のODA総額は約92億ドルで、これは国民一人あたり年間約1万円を負担していることになる。

このように日本は世界有数の援助国であるが、それにもかかわらず日本のODAに関しては次のような批判がある。

第一に,経済規模に対して援助額が少なすぎるという批判である。国の経済規模に対してどの程度の援助を求められているかを示す指標として対GNI比率があります。GNI(国民総所得)とは、かつて使われていたGNPと金額的には同じである。1964年の第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)で発展途上国は先進国に対して「GNPの1%の経済援助をせよ」と要求したが、その後、1970年に国連はGNPの0.7%を目標とすることを決めている。現在の日本の援助額はGNIの0.19%である(2014年)。

第二に、日本のODAは 贈与比率が低いという批判である。最近その比率はだいぶ改善されて贈与の割合が大きくなってきたが、それでも贈与を中心とする欧米の援助と比較すると、まだ贈与比率が低いことは事実である。

ただ、援助と借款のどちらがいいかは議論がある。援助は返済しなくてもいい分負担はないが、一度援助に頼ってしまうとそこから抜け出せなくなる可能性もある。援助の目的が発展途上国の自立を促すことにあるとすれば、むしろ、借款のほうが望ましいという考え方もある。
 

第三に、日本の援助がダム、発電所、道路、鉄道、港湾、空港などの経済インフラにかたより、援助が本当に貧しい層に届いていないという批判である。

2015年、政府はODAをさらに進化させるために、従来のODA大綱に代わって、新たに開発協力大綱を定めた。これは従来の国際貢献に加えて、「国益の確保に貢献する」ことを明確に打ち出した点に特徴がある。財政赤字に苦しむ日本であるが、ODAは軍事力に代わる国際貢献の有力な手段であるという原点を忘れてはならない。

 

 

(コラム)ODAの実例

(1)ベトナムにニャッタン橋

 ベトナムの首都ハノイを横断する紅河にニャッタン橋(日越友好橋)をかける工事が2014年12月にようやく完成しました。全長3080メートル、片側4車線、総工費約750億円。資金は日本のODA(円借款)によるもので、工事を受注したのは三井住友建設とIHIインフラシステムなど。

この橋の完成によって慢性的な交通渋滞が緩和されるほか、ハノイ中心部とノイバイ国際空港の所要時間が大幅に短縮されます。現地で働いた日本人は技術者や事務職員を含めて50人程度で、現地で雇用された人はその5倍以上にものぼります。若いベトナム人技術者が日本の技術を学んでくれることも期待されます。
 


(2)モルジブからの「恩返し」
2004年、スマトラ沖地震により発生した津波がインド洋のモルディブ共和国を襲い、甚大な被害を与えました。このとき、かつて日本の支援で整備された護岸が、被害を最小限にくい止めました。また、日本はいち早く無償資金協力を供与し、漁業や農業、地方行政分野などで復興事業を支援。さらに港湾・下水道などのインフラの復旧も行いました。

それから約7年後の東日本大震災に際し、モルディブは一人当たりの国民所得が日本の約1/8という国でありながらツナ缶約70万缶の寄付や、マレ市民2万人が参加した被災者支援のウォーキング大会の開催、義援金を募る24時間テレビの放映など、心温まる様々な支援を寄せてくれました。(外務省HPより)
 


(3)ある中国人女性からの手紙
平成16年1月、二人目の赤ちゃんを産んだばかりの一人のお母さんから、こんな手紙が届きました。「私は湖南省平江県口鎮西江村のものです。私は日本国政府と日本国民の方々に感謝したいのです。あなた方は二つ目の生命を私に与え、私と子どもを助けてくれた命の恩人なのです。

1月10日、突然痙攣を起こして倒れた私は、危険な状態と判断され、湖南省平江県母子保健院救急センターに救急車で運ばれました。センターで救急措置と帝王切開手術を並行して受け、無事出産することができました。保健院の方々から、『あなたが助かったことは、日本国政府と日本国民の真心と切り離すことはできないのです。日本の無償援助によって、この保健院の設備が整い、多くの婦女や乳幼児の健康が保障されるようになったのですよ。』と聞きました。

私は心から保健院と日本国政府、日本国民に感謝します。そして中日友好が子々孫々まで続くよう願っています。」(外務省HPより)
 

 

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