バブルの経済学

 プラザ合意(1985年)のあと、1ドル240円から1ドル120円まで急速な円高が進んだ。円高になれば輸出産業が大打撃を受ける。日本は輸出でもうけている国である。もし輸出が止まれば・・・。財界も政府も学者も真っ青になってしまった。今までに経験したことのないような深刻な不景気が襲ってくるに違いない。実際、プラザ合意の翌1986年には円高不況がやってきた。

 もちろんここで冷静に考えるならば、輸出産業が打撃を受けても輸入産業が円高によって潤うはずであるから、差し引きゼロ(または若干のマイナス)にとどまるはずである。実際に、例えば関西電力では原油・重油の支払い代金は、1985年の2330億円から1986年には1012億円へと 減少し、1300億円余りの円高差益が発生している。東京電力でも、1円の円高で年間40億円の利益が出るといわれた。

 しかし当時、日本が初めて経験する円高を前にみんな冷静さを欠いていた。政府は、公定歩合を史上最低の2、5%にまで引き下げ、金融緩和に乗り出した。財政政策のほうは財政再建の途上にあったため、勢い金融政策に負担がかかることになったのである。

 公定歩合を引き下げた結果、日本経済にはマネーという水がジャブジャブとあふれだした。この時余分に企業に供給されたマネーの量は、約20兆円にのぼると推定された。余ったマネーは、土地や株の投機に向かった。土地が値上がりする。株が値上がりする。資産が増えた国民は気が大きくなり、消費も増えた。こうして瞬く間にバブルが生まれた。

 しかし、経済で一番難しいのは、「現在」がどういう状況であるかを判断することである。今になってあの時はバブルであったというのはたやすい。しかし、当時はほとんどの人にバブルという認識はなく、これが日本経済の「実力」だと錯覚した。 こうして1987年から1990年にかけて、いざなぎ景気にも匹敵する長い長いバブル景気(1986.12〜91.4 )が出現した。

 政府・日銀はバブルをつぶし景気の加熱を押さえるために、1989年から金融引き締め政策に転じた。公定歩合は2、5パーセ ントから、翌90年には6パーセ ントにまで引き上げられた。全開状態にあった水道の蛇口を一気に閉め、日本経済にあふれていた「マネー」の量の適正化に乗り出したのである。

 まず株価が下落し、少し遅れて土地も値下がりをはじめた。人々の所有する資産価値が下落すると消費は落ち込み、企業の投資活動も一遍に冷え切ってしまった。日本経済はいつか来た反対の道をたどり、 1990年をピークに、バブルは瞬く間につぶれた

 土地資産および株式資産はピーク時から、その後1 300兆円も下落した。大量の不良資産を抱えた金融機関は日本経済の足かせとなり、その後日本経済は 10年以上に渡って不況に苦しむこととなった

 この間1997年には消費税が3%から5%に引き上げられたことなどもあって、山一証券や北海道拓殖銀行などの大型倒産が相次いだ。1997年の実質経済成長率は、オイルショック以来23年ぶりにマイナス成長となった。その後、小淵政権になってなりふり構わない景気浮揚策がとられた結果、財政赤字は急速に膨ら んだ。

(コラム)
 
日本を一つ売ればアメリカが4個買える!

 1986年から1990年までの日本の株や土地の値上がりは確かに異常であった。5千万円で買った土地があれよあれよという間に1億5千万円に駆け昇った。株式が買われ、ゴルフ会員権が買われ、ゴッホが買われた。日本列島の地価総額は1842兆円(1988年末)に達し、アメリカの地価総額403兆円の4倍になった

 さらに、土地や株が値上がりすると「資産効果」が働いた。5千万円で買った家が1億5千万円になれば誰だって金使いが荒くなる。高級ブランド品や400万円もするような高級車が飛ぶように売れ、消費活動は活発になった。これに応じて、企業も積極的に設備投資を行ない増産した。経済のエンジンとも言うべき設備投資と、チームの4番打者とも言うべき消費が力強く伸びた結果、有効需要は高まり日本は好景気に酔いしれた。

 脹らみ続けたバブルの中で、社会的影響が一番大きかったのは土地の値上がりである。地価上昇の結果、マイホームは平均的サラリーマンが一生働いても手が届かない「高嶺のはな」になってしまった。通常、好ましい住宅価格は「年収の5倍」程度であるといわれる。それが、首都圏などでは8倍を越えてしまった。「真の豊かさ」とは何かということが真剣に議論されはじめたのもこの頃である。

 しかし、バブルであるかどうかは、結局、宴が終わったあとでないとわからない。いまから思えば、この時の日本の株や土地の値上がりの仕方は、明らかにバブル(泡)であった。

 だが、当時はだれもバブルとは思わなかった。”Japan as number one”と誉め讃えられ、それが日本経済の実力だと思った。恥 ずかしながら、私もそう思った一人であった。戦後、過労死するほど働いた結果、ようやく日本が手に入れた勲章だと思った。

(コラム)
 
消えた1300兆円

 バブルが崩壊し、日本全体の土地資産総額は、ピーク時(1989年末)の2137兆円から、1998年末には1388兆円まで749兆円も低下してしまった。株式も同様である。ピーク時(1989年末)に890兆円あった株式資産総額は、1998年末には316兆円にまで低下し、574兆円も減少してしまった。土地と株式を合わせた資産の消失額は、1300兆円余りである(野村総合研究所推定)

 1300兆円はいったいどこに消えたのか。 結論は簡単である。要するに「評価」が膨れ上がり、またしぼんだというにすぎない。1円の石ころに100億円の値段がついて、また1円に戻ったとしても、その間「長い昼寝をしていた人にとってみれば、何もなかったのと同じ」 なのである。悲劇的なのは、それを100億円と信じて買った人たちである。



(コラム)

 
アメリカへの遠慮が被害を拡大した?

 バブルだとわかった段階で、もっと早く金融引き締めはできなかったのか。誰しもが抱く疑問である。この疑問を解く鍵が1987年10月にニューヨークの株価が市場最大の下げを記録する「ブラック・マンデー」である。

 仮に日本が当時の状況をバブルだと認識していたとしても、バブルを予防するために日本の金利を引き上げれば、日本の高金利を求めてアメリカから大量の資金が逃げてくる。そうなれば、ニューヨークの株式市場がさらに暴落し1929年の再来もあり得る。そのため日本は、1989年5月まで公定歩合を2、5パーセントに据え置かざるを得なかったのである。

 この結果、日本は金融を引き締めるタイミングを失ってしまったのだ。いわば、アメリカへの遠慮がバブルの被害を大きくしてしまったともいえる。

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