比較生産費説 ーー貿易の基礎理論−−
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1993年、コメの輸入自由化をめぐって、日米双方で激しい応酬が展開された。日本のコメはカリフォルニア米(まい)の約6倍の値段である。もし、完全自由化を認めれば、アメリカから6分の1の値段でコメが入ってきて、日本の農家はたちまち経営が行き詰まる。しかし、その一方で、日本の消費者は今までより安い価格でコメを買えるというメリットも生まれる。自由化を認めるべきか否か。 国際貿易は各国の利害が激しくぶつかり、血が出る。そのため議論がつい感情的になりがちである。だからこそ、しっかりと理論武装をしたい。
1、原則は自由貿易 この問題を純粋に経済学だけの問題として論じるならば、貿易は原則として自由貿易であるべきだ、というのが結論である。このことを初めて証明してみせたのが、D、リカード(英)の比較生産費説である。 今、世界にはイギリスとポルトガルの2ヵ国しかなく、また、生産している商品も毛織物とぶどう酒の2種類しかないと仮定する。そして、イギリスは毛織物1単位を 生産するのに100人、ぶどう酒1単位を生産するのに120人必要だとする。 一方、ポルトガルは毛織物1単位を生産するのに90人、ぶどう酒1単位を生産するのに80人必要だとする。さらに、イギリスの全労動量を220人、ポルトガルの全労動量を170人とすれば、貿易が行なわれないときの2ヵ国の毛織物の総生産量は、イギリス1単位、ポルトガル1単位の合計2単位である。同様に、ぶどう酒の2ヵ国の総生産量も2単位となる。
この表を見るかぎり、毛織物もぶどう酒もポルトガルの方がイギリスより少ない人数で生産でき(絶対優位)、ポルトガルにとって貿易を行なうメリットは何ら存在しないように思われる。しかし、リカードのすごいところは、このような場合でも、両国の生産費を比較し、比較優位のある商品の生産に特化することによって、双方ともに利益を得ることができることを明らかにした点である。
総労働量に変化がないにもかかわらず、2ヵ国の総生産量は貿易がない場合に比べて、なんと「増加」しているではないか。 いくら生産性が高い国であっても、生産資源は有限であるから、すべての財を自国で生産できるわけではない。そこで国際分業を行うことになるのだが、その際の原則はどうあるべきか。それを教えるのがリカー ドの比較生産費説なのである。今日「自由貿易」こそが人類のめざすべき方向とされているのは、この比較生産費説が根拠となっている。
2.GATTの三原則 自由貿易を推進するために、1947年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)が結ばれた。そして、ケネディ・ラウンド(1967年)、東京ラウンド(1979年)、ウルグアイ・ラウンド(1994年)等の各交渉を通じて、関税の大幅引き下げが実現した。
また、1995年にはGATTに代わりWTO(世界貿易機関)が設立された。
3.保護貿易は例外的に認められる。 では、いかなる場合にも保護貿易は認められないのだろうか。実は、経済学的に保護貿易が認められるケースがいくつかある。 第一に幼稚産業を育成する場合である。たとえば、かつての日本の自動車産業やコンピュータ産業などのように、最初はよちよち歩きだが、将来立派に育っていく可能性のある産業については保護貿易は可とされる。 この説を最初に唱えたのは19世紀のF,リスト(独)である。19世紀の世界貿易は、産業革命をいち早く終えたイギリスが圧倒的に強かった。もしイギリスと自由貿易をすれば、ドイツに勝ち目はない。そこで提案されたのが、幼稚産業に対する保護政策は許されるべきだとする考え方である。具体的には、関税をかけたり輸入制限をしたりするなどの措置である。しかし、このような保護貿易はあくまで例外とされる。
第三に、外国から安い製品が大量に入ってきて、国内の生産者が危機に瀕した場合、セーフガード(緊急輸入制限)といって、一時的に輸入を制限し、国内生産者を保護することも一応許される。ただし、この場合の輸入制限による保護は一時的な時間稼ぎであって、長期にわたってその産業の保護を認めるものではない。
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