ノートの取り方の指導
考える力を養うため、私が日頃よくやるのは、授業中に「相談タイムを設けること」である。これは生徒の間にも非常に評判がいい。友達と話し合うことによって他人の考えを知ることもできるし、また、相談をすることによって気分転換にもなる。しかし、ここではもう一つ別の方法を提案してみたい。
私自身は、プリントを使わず、板書で授業を進めることが多い。板書で説明すると時間はかかるが、板書するスピードと人間の理解するスピードがほぼ一致するため、意外と効率的に理解させることができるからである。また、手を動かすことによって眠気覚ましにもなる。
(2007年12月3日 日経新聞)
メモによる思考力の育成
@先生の話を理解する(集中力) ところが、現代人はこうしたことがきわめて苦手である。苦手にさせられているといってもよい。例えばテレビのインタビューには必ずテロップが流され、耳だけではなく目からも話の内容が飛びこんでくる。学校の授業は先生が丁寧なまとめプリントを作ってくれる。市販の問題集や参考書には「要点のポイント」が色鮮やかに整理されている。 自分でまとめるという面倒なことをしなくても、誰かが「手取り足取り」まとめてくれるのだ。本人は、ただ口を開けて待っているだけでいい。私の感触では、学習の一番基本である教科書すら読んでいない(いや読んでもまとめることができない)生徒がかなりいると思われる。
私は意図的に、「一番大切なことを板書しない」という意地悪な授業をすることがある。たとえば授業で、「保守主義とは何か」と問いかけ、すぐそのあとで「保守主義とは、人間の能力には限界があるとして、変革に懐疑的な態度をとることだ」と説明する。もちろんこうしたことは入試には出ないから板書しない。 しかし、敏感な生徒にとってこの言葉は「琴線に触れる」はずである。私は口頭で説明しながら、目で生徒の手の動きを追う。何人がメモをしているか。それでだいたいそのクラス・学年の学力が分かる。 よくノート提出を求める教科がある。その場合、どんなふうに点検しているのか非常に気になる。実は、私自身はこれまで1回もノート提出を求めたことがない。ノート提出を求めると、「きれいなノート作りに命をかける(笑)」生徒が出てくることを恐れるからだ。 しかし、最近考え方が変わった。ノート提出を求め、きれいなノートを提出したら「バカモン、ノートはそんなきれいにとるものではない。もっと、板書されたこと以外のこともメモしろ!」と活を入れるのだ。そして良いメモがあれば花マルをつける。
ノート点もメモの量と質を含めてABCDに評価する。そのような指導を徹底すれば、もう少し自分の頭で考える習慣が身につくのではないか。
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