生徒のモチベーションを高める方法

 

 

 教育で一番大切なことは本人をやる気にさせることである。やる気さえ引き出すことができれば、教育の99%は成功したといってよい。とくに、土日が休みになり、家庭で過ごす時間が長くなったぶん、きちんと自己管理できる生徒とそうでない生徒との学力差はますます広がる傾向にある。

 ところが、「やる気を引き出す」という一番大切な部分が、これまでは本人任せにされることが多かった。では、やる気の乏しい生徒を、どうすればやる気にさせることができるのか。モチベーションを高める方法を考えてみた。

 

(1)勉強の面白さを伝える
 
生徒のモチベーションを高める一番オーソドックスな方法は、授業を通して勉強の面白さを伝えることである。分かる授業をすれば勉強が面白くなり、面白くなれば成績も伸びる。その結果、ますます良い循環に入る。

 人間はいろんなことを知りたがっている」。これは私が学生時代に教育学原理の先生から教わった言葉である。とくに岸和田高校のような優秀な生徒の場合、彼らは「やればできるエンジン」を内蔵している。エンジンに火さえつければ、彼らは勝手に走り出す。問題はどうやってエンジンに火をつけるかである。

 たまたま授業がうまくいって、生徒の目が一斉にこっちを向き爛々と輝いている授業ができた瞬間は、「快感」すら覚える。そんな授業ができるかどうかは、日頃からいかに多くの専門書を読んでいるかにかかっている、と思う。専門書をたくさん読んで、そのうちの一番面白いところを「ちょっとだけ」紹介すれば、生徒は確実に授業に食いついてくる。

 指導書や資料集・便覧などにたよって教材研究しているようでは、生徒を満足させるような授業などおぼつかないとしたものだ。以前勤務していた学校で、国語の先生が指導書か何かに書いてある「発問集」を利用して現代文の予習をされているのを見てびっくりしたことがある。

 へー、こんな便利なものがあるのか」と驚くと同時に、そんなレベルの授業では生徒が「つまらない」と感じるのも無理はない、と思った。

 できる限り専門書にあたり深い知識を身につけておくことは、どの教科にも当てはまる。理科・社会などで専門外の科目を教える場合は特にそうである。指導書のたぐいを参考にするのはよい。

 しかし、指導書は本来、生徒指導などに追われて十分な授業準備ができない学校の先生のためのものと肝に銘じておきたい。何を犠牲にしてもいいから専門書を読む時間を確保したい。

 

(2)生徒を巻き込む
 生徒のモチベーションを高めるには、生徒を巻き込み、生徒の目をこちらにグッと引きつけることも重要である。そのためには授業の導入部分が非常に大切である。

 導入は、その日にやることを予告し、その意義について触れることが多い。私の場合、勉強する前(before)に比べて、1時間勉強したあと(after)、どれだけ賢くなるかをイメージさせ、学習意欲を引き出すようにしている。生徒のノリが悪いときには、生徒が食いつく話題を取りあげ、「つかみ」とすることもある。これは落語や漫才でよく使われる手法である。つかみのネタはなんでもよい。

 授業の最初に生徒をグッと引きつけ、授業に巻き込み、Excitingな授業にもっていく。そうした努力を意識的にすることが大切である。活気のない「死んだ授業」は、授業を受ける方もやる方もしんどい。

 

(3)目的意識を持たせる
 
人間が一番生き生きしているのは、夢(=目標)に向かって一生懸命取り組んでいるときである。甲子園に出たい、近畿大会に出たい、○○大学に合格したい、薬剤師になりたい、弁護士になりたい……。夢はなるべく具体的な方がいい。夢があれば多少つらいことでも頑張りがきく。

 ところが、生徒と面談していると、自分の目標を持っていない生徒が少なくない。
Q「大学はどこへ行くの?」
A「行けるところ」
Q「将来何になりたいの?」
A「特にありません」
 ベクトルの方向が定まらないままに、「走れ!」と呼びかけても成果は乏しい。何を目標にしていいか分からない生徒には、「仮留め」でもいいから、目標を具体的に設定するよう指導したい。仮留めの目標はどんどん変わるかもしれないが、それでいい。生徒が知っている世界は狭い。大学の名前さえよく知らない。職業にいたっては極端な話、医者と坊主と学校の先生くらいしか知らない(笑)。

 仮でもいいから目標を設定すれば、調べてみようという意欲も湧いてくる。オープンキャンパスに行く、関連する分野の小説を読む、現場の話を集めるなど、方法はいくらもある。まずは目的意識を持たせることである。目標を決め、夢が実現したらそのあと何をするのか。成功体験をイメージし、その後の人生設計に早い段階で取り組むよう指導したい。

 

(4)反発心を利用する
 
モチベーションを高めるための第4の方法として、人間の持つ反発心や意地を利用する方法がある。たとえば、家が貧乏だ、家族が病気になったなど、逆境という環境が頑張る動機になることがある。いわば、わが身が置かれた環境に対する「なにくそ!」という反発心が、エネルギーになるのだ。団塊の世代とよばれる人たちの中には、貧しさから逃れたい一心で勉強をした人も少なくないのではないか。

 また、何かのことで「悔しい思いをして誰かを見返してやりたい」ということも頑張る動機になる。人前で大恥をかいてその悔しさをバネに頑張るとか、失恋をして昔の恋人を見返してやりたいという理由から頑張るのは、けっして小説の中の話ばかりではない(ただし、これは私の個人的体験ではないので、念のため)。こうした反発心を教育の場で応用するのである。ただ、これはよほどうまくやらないと逆効果を招く心配もあるので、細心の注意が必要である。。

 以前勤めていた学校で3年生の担任をしていたときのことである。ある男子生徒の勉強ぶりが今ひとつ気合いに欠けていた。そこで1学期末の三者懇談の席で、母親の目の前で、「こんな調子では、絶対に受かりません。もし受かったら、東京まで逆立ちして行ってあげます!」と啖呵を切った。

 もちろん、本人のやる気を促すための演出である。その生徒とは絶対的な信頼関係があったし、生徒が精神的にタフであることも知っていた。敵役がいてこそ人生励みも出る(笑)。やる気を引き出すためには、教師は時には悪役を演じなければならない。しかし、演出とはいえ、ずいぶん乱暴なことを言ったものである。今なら口が裂けても言えない。

 幸いなことに、その生徒は見事に第一志望に現役合格した。今頃、私のことをどんなふうに思っているだろうか?「あのクソ担任」とでも思っているかもしれない。

 

(5)今、話をしているのは誰に向けてのメッセージかを意識する
 
モチベーションを高める第5の方法として、生徒の学力・関心に合った授業を工夫することが必要である。英語で言えば、1年生の段階ですでにセンター試験で8割くらいを取れる生徒もいれば、基本的な構文や単語すら知らない生徒もいる。国語で言えば、「言及する」「裁量」「抜本的」という意味が分からず新聞が読めない生徒だっているのだ。

 こうした多様な生徒を相手に授業を進めるには、たとえ一斉授業であっても、常に一人ひとりの学力を意識して授業を行うことが重要である。

 生徒の学力層をたとえば上・中・下にわけて、「今説明していることは全体に向けた説明」なのか、「できる生徒を退屈させないためのハイレベルの話」なのか、「基礎的なことすら分かっていない生徒向けの説明」なのかを常に意識する。そういったきめ細かい配慮をして、学力が異なる生徒全員を飽きさせないような授業を心がけることが大切である。そのためには、日頃から一人ひとりの学力をなるべく正確に把握しておく必要がある。

 私は授業中、あらかじめ準備しておいた、ちょっと「高級な」冗談をさりげなく言ってみることがある。それに対して生徒がどういう反応を示すか。「ニヤッ」と笑い返す生徒はたいてい京都大学レベルに合格する。学年全体でそうした生徒が何人いるか。それでその学年のおおよその学力が分かる。私が長年の経験から学んだこの学力判定法は、不思議と模擬試験の判定以上によく当たる。

 

(6)自分で気づかせなければ直らない
 
やる気を失っている生徒がいた。医学部に行きたいという気持ちをもって本校に入学したが、医学部のレベルの高さを知って、「自分の能力では医学部なんて無理だ」と感じ始め、希望を失ってしまったのだ。

 ある日、この生徒を呼んで、1時間あまり話をした。言葉を尽くし、あの手この手でやる気を引き出そうと試みた。しかし、最後に彼が言った言葉は、「先生のいうことは分かるけど、でも、やっぱりやる気が出てこない」だった。無力感に打ちひしがれた。

 そのとき、初めて気がついた。いくら理詰めで説教しても人を変えることができない。説教されれば人は反発する。自分で気づいたことのみがその人の行動を変えることができる。映画や小説の中でも、主人公が変わる「瞬間」というものは、決して他人による説教がきっかけではない

 ひょっとすると、人間が劇的に変わることができるのは、挫折して自分が頭を打った場合だけなのかもしれない。自らの体験に基づかない知識は生きる知恵にはなり得ないのではないか。内発的な気持ちをどのように育むか。未熟な私にはまだまだ分からないことだらけである。

 そんなことを考えていたとき、天台宗の故山田恵諦座主が書いた本(山田恵諦 『上品の人間』 大和出版)を読んだ。         
 「子どもを育てるときには、決して叱ってはいけない。褒めてもいけない。これが教育の基本である。特に叱ることだけはしてはいけない。叱っても、絶対といっていいほど反省はしない。

 曲がったところ、悪いところを直そうと思ったら、自覚するようにし向けなければダメである。そのためには直接的に言ったらうまくいかない。本人が自覚するように、間接的にもっていくことである。また、このごろの教育法では、盛んにその子のいいところをほめて、素質を伸ばしてやれと言う。確かに長所を見つけることは人を扱う基本である。しかし、褒めたからといって伸びるものでもない。下手にほめれば、のぼせるだけである。

 叱ってもいかん、ほめてもいかん。じゃあ、どうするのか。答は、この二つを合わせて使うのである。どうしても叱らないかん時まで、ほめる材料を取っておいて使うのである。すぐに出したらダメで、温存せなあかん。

 『あんた、いついつの時には、どこそこでこうしよったやないか。私は、賢い子だなあ、いい子だなあと思って感心しとった。それなのに、こんなことしたら、ちょっとおかしくないやろうかなあ』。

 こういう言い方は、叱るんではなしに、教えているのである。子どもには子どもなりの理由があって、正しいと思って、あるいはそう悪いことではないと思ってしていることがたくさんある。だからこそ、本人に考えさせ、悟らさなければ直っていかない。これは叱らないかん、これはほめないかんということを、一つ、二つと胸にしまっておく。そして、ここぞというときにさりげなく出す。黙っていても親の目が光っている。よほどのことがなければ口を出さない、ということが大切である。」

 教員になるとき、ほめることと注意をすることは教育の基本であると教えられた。「ほめ育て」を旨とし、必要があれば「理由を付して」「その場で」叱ることが大切であるとも教わった。しかし、ほめたり叱ったりするにも、常に工夫が求められている。

 

(7)とりあえず一歩踏み出させる
 10年ほど前に富士山に登ったことがある。朝、大阪をバスで出発し、夕方登山口に到着する。そのあとすぐ登りはじめ、途中の山小屋で仮眠を取る。そして「ご来光」を見るために深夜に再び登り始める。強行軍であった。

 高くなるにつれしだいに空気が薄くなる。やがて吐き気がし、頭ががんがん痛くなり、息も絶え絶えになった。高山病である。8合目から9合目にかけては、冗談ではなく「死ぬ思い」をした。10メートルごとに休憩し、息を整える。あこがれの富士登山、ここで止めてなるものか!最後は「もう死んでもかまうもんか」(笑)という悲壮な覚悟で登り切った。

 頂上を目指すとき心掛けたのは決して頂上を見ないことであった。頂上は気が遠くなるほど遠い。頂上を見ると「とてもあんなところまではいけない」と思う。だから頂上は見ない。あと10メートル・・・、あの角まで・・・。ひたすら目の前にある目標だけを追った

 勉強もこれと同じだと思う。高い目標を持つことは必要だが、だからといってその目標にすぐたどり着けるわけではない。とりあえず実現可能な低い目標を設定し、それをこなす。今日1日の予定、1週間の予定、定期考査で「クラスの何番以内に入ろう」などという目標を立てる。一度達成感を味わうと、またやろうという気持ちが湧いてくる。こうしたことを何回か繰り返すうちに、知らないうちに大きな目標に近づいていく。

 すべての教科を一度にできなければ、一点豪華主義でもよい。ともかく最初にできそうなハードルを一つ設定し越えさせる。一つ越えれば、それが次のハードルを越える力となる。そうして3ヶ月も努力すれば、見違えるほど実力が付く。ふと振り返ると、いつの間にかずいぶん山の高いところまで来ているのに、自分でもびっくりすることがある。

 努力という言葉は、明日から頑張ろうという未来のことに使う言葉ではなく、後で振り返ったとき、「あのときは良くやったなー」という過去の出来事に対して使う言葉である、と思う。「明日からがんばろう」と思っている生徒があまりにも多い。とりあえず一歩踏み出させることである。

 

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