私が心がけていること10箇条

 
 授業の準備のために、日頃私が心がけていることは次のようなことである

(1)メッセージを明確にする
 
授業準備をする際一番大切なことは、生徒に何を伝えたいかというメッセージを明確にすることである。授業では沢山の知識を機関銃のように発射する。しかし、知識はメッセージを伝えるための手段でしかない。授業を通して何を伝えたいのか。そうしたメッセージをもたないままなされる授業が非常に多い。脳みそにぐさっと突き刺さって、10年たっても20年たっても忘れることができない強烈なメッセージ。「教育の効果は学校で習ったことをみんな忘れた後にあらわれる」とアインシュタインは言った。さて、10年後、あなたのおこなっている授業は、どのくらい生徒の頭に残っているでしょう?

 

(2)知識を通して感動を与える
 
知識それ自体を教えることはもちろん重要である。しかし、もっと重要なのは、知識を通して感動を与えることである。「あー、そうだったのか」と1時間にせめて1個は思わせたい。

 

(3)新聞記事の整理
 これはもう、ほとんど毎日欠かさない。家では日経新聞と朝日新聞を取っている。学校では毎日新聞、読売新聞、産経新聞も事務室に置いてあるから、自由に見ることができる。ただし、あれもこれも全部見ている時間的余裕はあまり無い。だから、自宅で取っている新聞が中心になる。以前は、このほかにAERAや日本語版のニューズウィークを取っていたこともあるが、最近経済的理由からやむなくやめた。
 新聞記事の整理で大切なことは、毎日処理するということである。私がやっている方法は、まず、必要だと思った記事は、朝一番に、新聞のそのページを丸ごとべりべりと破って、鞄の中に詰め込む。そして学校で必要箇所を切り抜き整理する。だから、家の者 にとってはそのページが読めないわけだから、このやり方は大変評判が悪い。しかし、大事な記事を確実に資料化するにはこれが一番である。
 学校に着いたら、空き時間を見計らって、必要な記事を切り抜き、コピーを取る。このとき、縮小機能を使って全てB5サイズに統一するのが味噌である。そして、資料専用の引き出しに、分野ごとに仕分けをする。仕分けに使っているのは、A4サイズのクリアーホールダーである。カラーのクリアーホールダーを使えば、仕分ける時分かりやすい。
 分類項目は「日本経済一般」「金融」「財政」「国際経済」「企業」「社会保障」「労働問題」「規制緩和」「消費者問題」「環境問題」「人口問題」「日本政治」「法学」「アメリカ」「EU」「中国」「朝鮮半島」「アフリカ」「中東」「東南アジア」「中南米」「教育」「倫理・スピーチ」「情報」「地理」「歴史」「異文化理解」「資格」など30種類以上に及ぶ。
 こうして分けておくと、何かのテーマで授業をしたり、原稿を書く時は、そのファイルを引っ張り出せば最新のデータが取り出せるという仕掛けである。

 

(4)枕元のメモ帳
 
いい授業をするために24時間考えている。
アイディアはいつも突然やってくる。そして一瞬のうちに消え去る。だから、その場ですぐメモをとるようにしている。電車の中や道を歩いている時、ふと、アイディアが思い浮かぶ時がある。そうした時は、すぐその場で立ち止まって手帳にメモをする。授業中に突然アイディアが舞い降りてくる時もある。そのときも、10秒ほど授業を止めて、すぐその場でノートに取る。
 もちろん、寝ている時も例外ではない。枕元には常にメモ帳を置いている。ひらめくと、ガバッと起きて、半分寝呆けながら目をつむったままの状態でなぐり書きをする。殴り書きであるから、朝になって判読できないという笑えないこともある。授業の構想や気のきいた言葉、あるいは生徒への指示など、一晩に10枚くらいになることもある。特に明け方の 2時か 3時頃にひらめくことが多い。睡眠をとった後、脳がフレッシュになっているせいかも知れない。
 しかし、この習慣のおかげで一つ困ることがある。次々にアイディアがひらめいて、ついに眠れなくなることがあることだ。メモを取るのもほどほどにしなければと思うのだが・・・。

 

(5)1時間の授業に10時間の準備
 
授業の善し悪しは、ひとえに日頃からどれだけ専門書を読み、授業にどれだけの予習時間を当てているかにかかっている。 専門書をいっぱい読み、一見無駄とも思えることをいっぱい考えることが大切である。そうした積み重ねの上に、初めて本物の学力が身に付く。
 「政治・経済」という科目は 法学部、経済学部、国際関係学部という3つの学部にまたがるから、いくら専門書を読んでも追いつかない。また、授業をやるからには、 少なくとも教科書に出てくる古典と呼ばれる書物には目を通しておきたいから、ますます時間が不足する。
 そんなわけで、土曜も日曜もない。頭がそんなに良くない自分にできることは、ひたすら努力することしかない。 家族には申し訳ないと思うが、もう、教師になって以来、ずっとそんな生活である。だから、2単位の授業の場合、1時間の授業のために10時間くらいの準備をしているのではないかと思う。 専門の科目ですらこんな状態である。ましてや、世界史、地理、倫理といった専門外の科目を担当する時は「地獄」である。
 野球の工藤公康投手がお風呂にはいる時、「ゆっ たり湯につかることはない。カーブを投げる時のポイントとなる手首の柔軟性を高めるため、湯船で水圧を利用してのストレッチを欠かさない」 (日経新聞2006年3月16日)と語っているのを読んで驚いたことがある。彼の左手首は内側に曲げると5本の指全てが腕にくっつくそうである。
 努力・努力・努力・・・・。人間はもって生まれた能力は不平等でも、努力することだけは平等に与えられている。問題は、その努力を楽しみながらできるかどうかかも知れない。

 

(6)現実こそ最良の教科書
 
30年間経済学を学んできて分かったことが一つある。それは経済理論は決して現実には追いつけないということだ。どんな分野でもそうだが、理論と現実の間には必ずギャップがある。そのギャップを埋めようと、理論は現実を一歩ずつ追いかける。しかし、現実は理論をあざ笑うかのように常にその先を行く。それは影が決して追いつけないのと同じである。
 若いころはこのことに気がつかなかった。理論を振りまわし、現実を理論に合わせて理解しようとした。凡人のなせる技である。しかし、40歳を過ぎてようやく気がついた。もし理論と現実が食い違ったら、正しいのは現実である。現実こそ最良の教科書である。こんな簡単なことが分かるまでに30年かかった。恥ずかしいというほかない。
 凡人は現実を理論に合わせる。天才は理論を現実に合わせる。A,スミス , K,マルクス , JM,ケインズといった天才たちはみなそうだった。アメリカに留学していた若い研究者が他人の論文を引用しすぎたために、「自分の説が出せないなら日本に帰れ!」と主任教授にしかられたという話を聞いたことがある。覚えることが勉強だという錯覚が、今の日本ではまだ根強い。
 理論と現実が食い違った場合、従来の理論を疑ってみることの必要性は、理系の学問にも当てはまる。工学部の大学生がある実験をした。ところが、実験結果が教科書に書かれてあるのと違う。この大学生は自分の実験のやり方がまずかったのだろうと思い、実験結果を修正して定説に合わせてレポートを作成したという。
 実験結果と定説のズレ、現実と理論のわずかなズレ、実はそこに新しい理論へのヒントがある。教科書を過信してはいけない。

 

(7)抽象語で分かったつもりにならない
 
生徒が「政治・経済」という科目を嫌いになる最大の理由は、概念が抽象的であるからだ。抽象語で授業をやっているかぎり、生徒は政経の時間を苦痛に感じるであろう。だから、教師の側でこれを分かりやすい具体例でほぐしてやらなければならない。
 「貧富の差」といわずに、一方でビルゲイツを思い浮かべ させ、他方でブルーテントに寝ている人を思い浮かべさせる。「失業」といわずに、会社が倒産し、毎日職安に通っている50代の人を思い浮かべ させる。
 「企業」といわずに、トヨタとかホンダとか具体的な名前を思い浮かべさせる。そんな風に授業をもっていけば、生徒は確実に授業が好きになる。ただし、こうした授業をやろうとすると、教師自身、猛烈な勉強を強いられる。

 

(8)授業内容の精選
 
重要なことと、どうでもいいこととの区別がつかず、どうでもいいことまで、時には「ウソ」をまじえて教えるのが三流教師
 「豊富な知識の量」で生徒を圧倒し、力でねじ伏せている間はまだまだ二流教師
 教える量を少なくして「切り口の鋭さ」で生徒をアッと言わせ、その科目を大好きにさせるのが一流教師。授業には徹底した教材の精選が大切である。 教材の精選に教師の力量があらわれる。

 

(9)全部を教えきらない
 
授業者には二通りのタイプがある。全部教えないと生徒は分からないと考えるタイプと、全部を教えないで、肝心の所だけ教えて後は生徒の自主性に任せるタイプである。私は基本的に、全部を教えきらない後者のタイプである。たくさん教えすぎると、生徒は消化不良を起こしその科目が嫌いになってしまう。だから、授業では一番おいしいところをちょっとだけ教え、完璧に理解させるように努めている。面白いと思わせることができたら授業は成功である。興味が湧けば、後は自分自身で勉強する。時には、「これは何でだろうね。」などと思わせぶりなことを言って、答をわざと言わないこともある。質問だけ投げかけて「気持ち悪さを残す」。これも大切なことだと思っている。

 

(10)一人ひとりを見る
 
以前、大失敗をしたことがある。ある生徒から、「先生は生徒の一人一人を見つめていない」という批判をされた。これは真実をついていただけに、ぐさっと胸に突き刺さった。実は、当時、進路指導部長をしていて、学校全体を切り盛りするのに忙しく、自分の受け持ちクラスのことが後回しになっていたのである。本来なら、部長職にあるものは担任から外れるならわしであった。しかし、学年主任から「どうしても担任を引き受けて欲しい」と懇願され、断り切れず引き受けてしまった次第である。
 しかし、それが間違いの元だった。やはり担任を引き受けるべきではなかった。クラスのことも一生懸命やっていたつもりではあったが、生徒には不満だったのだろう。生徒にとって担任は一人である。いくら一生懸命やっていると言っても、しょせん、言い訳にしか聞こえなかっただろう。
 それ以来、教員の仕事は、結局一人一人の生徒とどれだけ向き合うことができるかだと悟った。あのとき、「先生は生徒の一人一人を見つめていない」と書いてくれたHR日誌は今も大事にしまってある。ほかのHR日誌は全部捨ててしまったが、その1冊だけは残してある。私の宝である。

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