授業アンケートから見えてくるもの

 

 

 最近、 どこの学校でも生徒に授業アンケートを取るようになった。自分の授業の反省材料の一つとして積極的に活用したい。ただし、アンケート結果は真摯に受け取る必要があるが、生徒の評価を過度に気にする必要はない。生徒に教員を評価できるかというと、私の意見は否定的である。その理由は以下のとおりである。


 
第一
に生徒が求めるものと我々教員が求めるものがしばしば異なる。いわゆる進学校の生徒は「受験に出るところだけ」を教えてほしがる傾向がある。しかし、教育とは本来そのようなものではない。20年後30年後の土台を作るために我々は日々教育活動を行なっている。そうしたニーズの違いが、ときに教員に対する評価を引き下げてしまうことがある。

 また、生活指導面で厳しい先生は、評価が低く出ることもある。本人のため良かれと思って指導しても、若い生徒には通じないこともある。教師は生徒に嫌われてナンボの職業でもある。

 第二に、授業以外での生徒とのコミュニケーションの多寡が授業評価に反映される。授業は教師と生徒との信頼関係の上で成り立つ。授業で教える「知識」以上に、「生徒との信頼関係」が授業の評価に影響を与える。

 担任として、遠足や文化祭などの行事をはじめ、授業以外で話をする機会 が多いと、おおむね評価は高くなる傾向がある。逆にいえば、そうしたコミュニケーションがないと、数値は低くなる。

 第三に、全員が受講しているのか、選択科目なのか。受験科目に必要なのか不要なのか 。選択科目の場合、積極的に選択したのか、消去法で選択したのか。そういった要素が評価に影響することもある。

 
 

傷ついた一言
 
以前、私は授業アンケートの中で「あの先生に教えられて、力がつくとは思わない。だから1年の間は現社捨てます」と書かれたことがある。 そういう類のことを言う多くは、ほとんど例外なく成績が振るわない生徒である。

 たしかに私の授業は、受験には直接関係ない話も少なくない。ときには、大学レベルの授業を行なうこともある。しかし、そもそもこの生徒は現代社会のセンター試験の問題を一度でも解いたことがあるのだろうか。

 私がこれまで20年以上のセンター試験問題の すべてに目を通し、その上で精選し、 受験に出そうなことは「黄色」のチョークを使って板書していることを知っているのだろうか。過去問を解いてみれば、私のノートが受験用にも用意周到に準備されていることが分かるはずである。

 ただ、これまで私はそうしたことを生徒に説明したことは一度もない。一生懸命授業をやれば、そのうち分かってくれるだろうという期待があったからである。

 しかし、「力がつかない」と思っている生徒に授業を真剣に受けさせるためには、、過去問は全部頭に入っているとか、センター試験対策問題集を執筆しているとか、そういった類の( 照れくさい)行為をあえてやらなくてはいけないのだろうか。勘弁してほしい。


生徒の理想とわれわれの理想

 そもそもこの生徒の言う「」とは一体なんだろうか。おそらく、この生徒が期待する授業と、われわれが理想とする授業との間には大きなギャップがあるのだろう。生徒が期待する授業は「受験に役立つ」授業であろう。

 一方、われわれが理想とする授業は「受験に役立つ」ことはもちろんのこと、社会に出たあとの将来も見据えた授業である。私は常日頃、受験勉強が終われば忘れてしまうような「薄っぺらな知識」ではなく、生徒の脳みそに「グサッ」と突き刺さって、10年たっても20年たっても忘れられないような学問の「太い幹」を教えたいと心掛けている。

 そうした「太い幹」の中には、何十年も勉強してきて初めて見えてくるものもあり、一人で勉強していてもなかなか要領を得ない。「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」と徒然草にあるが、教師の言葉はやはり真剣に聴く価値がある 。

 しかし、彼らにとって試験に出ない知識は余分であり邪魔であるらしい。受験に必要な最小限度の知識だけを求め、その他のことに知的好奇心を示さない。それは生徒の資質によるのか、時代の流れか、それとも教育の仕方が悪いのか。

 ある先生がセンタ試験の問題を見て、「私はこんなくだらない問題が解けるようにするために教育してきたのではない」とはき捨てるように言っていた。教師としての矜持を感じた。

 

「考えること」の大切さ

 生徒が期待する授業とわれわれが理想とする授業のギャップについて、もう一つ気になることがある。それは生徒が「覚えること」に重点を置きすぎ、自分の頭で「考える」ことを厭う傾向が見られることである。

 たしかに暗記は大切である。しかし、暗記は勉強の必要条件ではあっても、十分条件ではない。これからの時代は「覚えること」に加えて「考えること」がもっと大切になってくる。

 では、考えるとは一体どういうことか。ただ何となく心の中で思っているだけでは考えたことにならない。考えることの具体的な作業は言葉に置き換えること、すなわち言葉で表現することだといってよい。人は言語によってしか考えることができないのだ。だから、日本語の表現力が貧弱なら、考える力もまた貧弱にならざるを得ない。

 昨年行われたPISA(国際学習到達度調査)の問題の一部が新聞紙上で発表されていたが、これを解いて見て驚いた。問題そのものはきわめて簡単なのだが、解答欄の実に半分近くが100字前後の記述式で占められている。
 日本の高校生はきっと、とまどったに違いない。なぜなら、日本で行われているテストの多くがこうした形式ではないからだ。

 日本では「採点を簡単にするため」「客観性を保つため」、あるいは「公平性を保つため」と称して、記号で解答させる問題が一般的である。国語のセンター試験問題でさえマーク式である。

 以前、電車の中で男子高校生が「ゲッ」「ウッソー」「キモーッ」と携帯電話で「会話」しているのを目撃して、日本の教育はこれでよいのだろうかと真剣に思ったことがある。 考える力をつけさせるためには、まず母国語を鍛えなければならない。

 

授業アンケートの目的

 我々はさまざまな要素を考えて、教科指導をを行なっている。もともと、アンケートを始めた目的はあくまで「授業改善に向けた課題発見」であり、「教育サービスの品質保証」であったはずだ。

 アンケートの結果を生徒にどのように還元していくか。それが問題だ。もし、数値化されたアンケートの結果が教員の序列化の材料に利用されるとすれば、教員は本来の教育を捨てて、生徒のニーズに合った教育をすることになろう。それが本当の教育と言えるのかどうか。

 授業アンケートの原点をもう一度思い起こしてみる必要がある。良薬口に苦しとも言う。たとえ今は生徒から嫌われようと、やならければならないことはやるべきである。そう考えるならば、アンケート結果はABCDの Aが一番いい教育ではなく、Bくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

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