世界恐慌の原因
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1920年代のアメリカ経済は、「永遠の繁栄」と呼ばれるほどの快進撃を遂げた。この快進撃を支えた要因は二つある。 もう一つの要因は、国内における都市化である。自動車が普及するにつれて郊外に都市が出現し、それが住宅需要を喚起した。また、ヨーロッパから帰還した兵士が結婚をし
て新しい家を建て、それが住宅建設ブームを加速した。 こうした実体経済の繁栄を背景に、1920年代の後半からアメリカの不動産と株価はやがて投機の対象となり、しだいに実態から離れ、やがてバブルへと転化していった。八百屋も運転手も酒場で働く人も、みんな株を買った。人々は超強気相場がまだまだ続くものと信じて疑わなかった。まさに「永遠の繁栄」を信じていたのである。 しかし、バブルはいつかは破裂する。均衡点から離れすぎれば、いつかは「神の見えざる手」が働き、均衡点に引き戻そうとする。最大の悲劇は、その均衡点がどこにあるかを人々は事後的にしか知ることができないことである。すなわち、バブルかどうかは破裂してみなければわからないのだ。
2.暗黒の木曜日 1929年10月24日(木)、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、ついにバブルがはじけた(暗黒の木曜日)。株価は11月に入って一端は3分の1ほど戻したものの、その後1932年までの3年間に渡って歴史的な大暴落を続け、株価は80%以上下落した。 それにともない実体経済も悪化し、GNPは29年のピーク時の半分に落ち込み、失業率は25%に達した。この間に公定歩合は5%から1.5%まで引き下げられた。しかし、それでも株は下げ止まらなかった。 アメリカは、1930年に国内産業の保護のために悪名高いスムート=ホーリイ関税法を成立させ、1000近い輸入品に平均40%という高関税をかけ、保護貿易を展開した。これに対してカナダ、フランス、イギリスなども報復措置に出て、関税引き上げ合戦が繰り広げられ、世界貿易は一気に縮小した。 一方、イギリスは1932年、オタワ協定を結び排他的なブロック経済を実施した。これにともない、アメリカもフランスもブロック経済を形成したため、以後、「持てる国と持たざる国」の対立が強まることとなった。 1933年、フーバー大統領に代わって民主党のローズベルト大統領が就任した。ローズベルトは恐慌対策としてニューディール政策を実施し、アメリカ経済がそれ以上悪化するのをくい止めることに成功した。 1936年、ケインズの『雇用・利子・および貨幣の一般理論』が発行され、「不況期には財政赤字」という提言が出された。しかし、ローズベルトは決してケインズ経済学の有効需要創出政策を確信に満ちて実行したわけではない。そのことは、1937年に景気が一端回復に向かうと、今度はインフレを恐れるあまり財政支出を大幅に削減し、1938年には再び経済を失速させてしまったことからも分かる。
3.世界恐慌の原因
好景気のあとに不景気がくるのは資本主義の宿命である。経済活動が自由であるということは、時には均衡点から離れて行き過ぎることがあるからだ。だから、不景気とは「均衡点からはずれた経済を再び均衡点に引き戻す作用」であるともいえる。問題は、「下方修正」がなぜ行き過ぎて「恐慌」に発展してしまったかという点である。
もちろん、このほかにもフーバー大統領が均衡予算主義者であり、積極的な財政政策を展開しなかったことが世界恐慌の傷口を広げてしまったといえなくもない。 しかし、それは無い物ねだりと言うべきであろう。当時の経済学者の大半は、「恐慌という嵐は、じっと耐えて息を潜めていればそのうち収まるだろう」と考えていたのであり、 そうした伝統的な経済学の教えが正しいと信じていたのである。 また、第一次世界大戦後、ドイツで発生したハイパーインフレーションの記憶があまりにも生々しかったため、安易な赤字公債による景気浮揚策を採ることを躊躇させたこともある。 不景気のときには赤字公債を発行してでも公共事業を行うべきだというケインズの補正的財政政策が採られるようになったのは、第二次世界大戦後のことである。
4.世界恐慌から学んだこと 第二次世界大戦後、世界から恐慌が消えた。2008年のサブプライムローン問題に端を発する世界同時不況は「百年に一度の不況」と形容されるが、それでも世界は平穏であり、恐慌には至っていない。なぜ、世界から恐慌が消えたのか。理由は簡単である。 第一に、ケインズの有効需要管理政策という不況に対する治療薬が発見されたからである。これは新型インフルエンザに対する特効薬タミフルの存在のようなものといえる。不況になると、財政政策が発動され、不況が深刻化する前に適切な対策が採られるようになった。 歴史に「もし」ということは許されない。しかし、大恐慌がなければヒトラーは現れず、世界大戦も起こらなかったかもしれない。そう考えると、恐慌という病気をやっつけることは人類の最大の課題の一つであることは、今も昔も変わらない。
5.昭和恐慌 ところで、世界恐慌は日本にも波及し、昭和恐慌となった。このことについて経済的な視点から簡潔にまとめておく。 日本は1917年から1930年まで金本位制を停止し、金輸出禁止措置をとっていた。しかし、ドイツ、イギリス、フランスが1920年代に相次いで金本位制に復帰したことから、日本も金本位制に復帰すべきだとの意見が強まった。金本位制に復帰すれば、物価の安定と為替の安定が自動的に達成されると考えられていたからである。
1930年1月、ついに日本は金解禁(金輸出の自由化)を実施し、金本位制に復帰した。アメリカで株が大暴落した3ヶ月後のことであった。 そのうえ円高にすれば外国から安く原材料を輸入することができる。それは日本経済にとってもプラスになる。そう踏んだのである。「人は伸びんとすれば先ず縮む」。これが井上の考えであった。 しかし、恐慌の真っ最中に、デフレ政策に加えて10%以上も円を切り上げればどうなるか。答えは明白である。 輸出が減少し不況はさらに深刻になる。今でいう円高不況が追い打ちをかけることになったのだ。まさに、世界恐慌という「嵐に向かって窓を開く」結果になってしまったのである。 1931年12月、大蔵大臣に就任した高橋是清は金輸出再禁止を決定し、金本位制は2年足らずで崩壊することとなった。高橋は日本のケインズともいわれるように、今でいう有効需要創出政策を採った。低金利 政策をとり、公債を発行して軍事費を拡大し(31年9月、満州事変)、さらに公共事業を積極的に押し進めた。高橋の政策はかなりの成果をあげた。一方の井上は32年に暗殺されてしまった(血盟団事件)。
しかし、1935年、国債残高が膨らみ国債消化率が低下したことから、このままでは日本の財政は破綻するとして、高橋は一転して国債抑制、軍事費削減を打ち出した。これに反発した軍部は、1936年、高橋を暗殺した(二・二・六事件)。
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