世界恐慌の原因

 


1.「永遠の繁栄」に酔う

 1920年代のアメリカ経済は「永遠の繁栄」と呼ばれるほどの快進撃を遂げた。この快進撃を支えた要因は二つある。
 一つは、第一次世界大戦後のヨーロッパの戦後復興需要である。戦争で疲弊したヨーロッパに対して、戦場とならなかったアメリカはこのあと世界経済の中心としての地位を確立していく。

 もう一つの要因は、国内における都市化である。自動車が普及するにつれて郊外に都市が出現し、それが住宅需要を喚起した。また、ヨーロッパから帰還した兵士が結婚をし て新しい家を建て、それが住宅建設ブームを加速した。
 一方、都市と都市を結ぶ道路網が整備され、それが有効需要を生み出すとともに、自動車産業の追い風となった。道という道には自動車があふれ、空を暗くするほど飛行機が飛び交った。

 こうした実体経済の繁栄を背景に、1920年代の後半からアメリカの不動産と株価はやがて投機の対象となり、しだいに実態から離れ、やがてバブルへと転化していった。八百屋も運転手も酒場で働く人も、みんな株を買った。人々は超強気相場がまだまだ続くものと信じて疑わなかった。まさに「永遠の繁栄」を信じていたのである。

 しかし、バブルはいつかは破裂する。均衡点から離れすぎれば、いつかは「神の見えざる手」が働き、均衡点に引き戻そうとする。最大の悲劇は、その均衡点がどこにあるかを人々は事後的にしか知ることができないことである。すなわち、バブルかどうかは破裂してみなければわからないのだ。

 

2.暗黒の木曜日

 1929年10月24日(木)、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、ついにバブルがはじけた(暗黒の木曜日)。株価は11月に入って一端は3分の1ほど戻したものの、その後1932年までの3年間に渡って歴史的な大暴落を続け、株価は80%以上下落した。

 それにともない実体経済も悪化し、GNPは29年のピーク時の半分に落ち込み、失業率は25%に達した。この間に公定歩合は5%から1.5%まで引き下げられた。しかし、それでも株は下げ止まらなかった。

 アメリカは、1930年に国内産業の保護のために悪名高いスムート=ホーリイ関税法を成立させ、1000近い輸入品に平均40%という高関税をかけ、保護貿易を展開した。これに対してカナダ、フランス、イギリスなども報復措置に出て、関税引き上げ合戦が繰り広げられ、世界貿易は一気に縮小した。

 一方、イギリスは1932年、オタワ協定を結び排他的なブロック経済を実施した。これにともない、アメリカもフランスもブロック経済を形成したため、以後、持てる国と持たざる国」の対立が強まることとなった。

 1933年、フーバー大統領に代わって民主党のローズベルト大統領が就任した。ローズベルトは恐慌対策としてニューディール政策を実施し、アメリカ経済がそれ以上悪化するのをくい止めることに成功した。

 1936年、ケインズ『雇用・利子・および貨幣の一般理論』が発行され、「不況期には財政赤字」という提言が出された。しかし、ローズベルトは決してケインズ経済学の有効需要創出政策を確信に満ちて実行したわけではない。そのことは、1937年に景気が一端回復に向かうと、今度はインフレを恐れるあまり財政支出を大幅に削減し、1938年には再び経済を失速させてしまったことからも分かる。
 結局、アメリカ経済が長期的な成長過程を取り戻したのは、1941年以降の軍事支出急増による有効需要拡大がなされたあとであった。

 

3.世界恐慌の原因 

 好景気のあとに不景気がくるのは資本主義の宿命である。経済活動が自由であるということは、時には均衡点から離れて行き過ぎることがあるからだ。だから、不景気とは「均衡点からはずれた経済を再び均衡点に引き戻す作用」であるともいえる。問題は、「下方修正」がなぜ行き過ぎて「恐慌」に発展してしまったかという点である。
 これに関してはたくさんの専門書が出ているが、どれを読んでも今ひとつすっきりしない。ここでは、私なりの理解を「簡潔」にまとめておきたい。

 一の原因は、バブルがはじけて人々が株で大損をしたために、消費を極端に控えるようになったからである。たとえば、1000万円で買った株が200万円になってしまったとする。すると人々は、損をした800万円を取り戻そうと必至に貯蓄をする。そのためモノを買わなくなり不景気になる。

 こうした不況は一般に「バランスシート不況」と呼ばれる。金融資産の損失で傷ついた家計のバランスシートを回復させようとする家計の行動が不況の原因となるからである。日本のバブルが崩壊した1990年代にもこうした現象は広く見られた。
 一般に、金融資産の喪失額が大きければ大きいほど、不況は深刻化し長期化する。

 

 第二の原因は、アメリカが金本位制度をとっていたことと関連する。金本位制は19世紀にイギリスで始まり、その後、「豊かさの中心であるイギリスと取り引きしたいがために、世界中の人々が当時のイギリスにならって、金本位制という通貨制度を採用した」(『グローバル恐慌』 浜矩子)ものである。
 金本位制のもとにあっては、中央銀行は保有する金に見合った量の紙幣しか発行できない。つまり、不景気になっても金融マネーサプライを増やすという緩和政策を実施することができないのである。

 それどころではない。1931年にいち早く金本位制を停止したイギリスは、輸出競争力を付けるため為替レートを切り下げ、金買い政策を行ったのである。そのため、アメリカから大量の金が流出し、アメリカはマネーサプライを減らさざるを得なくなったのである。

 通貨供給量を増やさなければならないときに、反対に通貨供給量を減らすのである。これでは40度の熱がある風邪患者を、寒い夜に外に放り出すような行為である。金本位制度が事態を返って悪化させてしまったのだ。

 ようやくアメリカが金本位制度を停止したのは、1933年、ローズベルト大統領になってからである。

 

 第三の原因は、国際経済制度に不備があったことと関連する。すなわち、不況に直面した先進資本主義諸国は為替切り下げ競争に走り、ブロック経済を実施したのだ。つまり、自国の輸出を伸ばし、自国さえ景気がよくなればよいという近隣窮乏化政策を展開したのである。

 それが世界貿易を一気に縮小させ、世界恐慌の一因となったばかりではなく、さらには第2次世界大戦の原因ともなったのである。

 ちなみに、このときの失敗を反省して第二次世界大戦後、為替切り下げ競争を回避するためにIMFを作り、ブロック経済を回避し自由貿易を推進するためにGATTを作ったのである。人類は失敗をして少しは賢くなったともいえる。

 もちろん、このほかにもフーバー大統領が均衡予算主義者であり、積極的な財政政策を展開しなかったことが世界恐慌の傷口を広げてしまったといえなくもない。

 しかし、それは無い物ねだりと言うべきであろう。当時の経済学者の大半は、「恐慌という嵐は、じっと耐えて息を潜めていればそのうち収まるだろう」と考えていたのであり、 そうした伝統的な経済学の教えが正しいと信じていたのである。

 また、第一次世界大戦後、ドイツで発生したハイパーインフレーションの記憶があまりにも生々しかったため、安易な赤字公債による景気浮揚策を採ることを躊躇させたこともある。

 不景気のときには赤字公債を発行してでも公共事業を行うべきだというケインズの補正的財政政策が採られるようになったのは、第二次世界大戦後のことである。

 

4.世界恐慌から学んだこと

 第二次世界大戦後、世界から恐慌が消えた。2008年のサブプライムローン問題に端を発する世界同時不況は「百年に一度の不況」と形容されるが、それでも世界は平穏であり、恐慌には至っていない。なぜ、世界から恐慌が消えたのか。理由は簡単である。

 第一に、ケインズの有効需要管理政策という不況に対する治療薬が発見されたからである。これは新型インフルエンザに対する特効薬タミフルの存在のようなものといえる。不況になると、財政政策が発動され、不況が深刻化する前に適切な対策が採られるようになった。
 第二に、戦後、金本位制から管理通貨制度に変わり、景気の状況に合わせて自由にマネーサプライを調整できるようになったことがある。
 第三に、戦後、IMFやGATT(WTO)が作られ、国際協調体制が定着したことがある。G8やサミットなどが果たしている役割も大きい。

 歴史に「もし」ということは許されない。しかし、大恐慌がなければヒトラーは現れず、世界大戦も起こらなかったかもしれない。そう考えると、恐慌という病気をやっつけることは人類の最大の課題の一つであることは、今も昔も変わらない。

 

 

5.昭和恐慌

 ところで、世界恐慌は日本にも波及し、昭和恐慌となった。このことについて経済的な視点から簡潔にまとめておく。

 日本は1917年から1930年まで金本位制を停止し、金輸出禁止措置をとっていた。しかし、ドイツ、イギリス、フランスが1920年代に相次いで金本位制に復帰したことから、日本も金本位制に復帰すべきだとの意見が強まった。金本位制に復帰すれば、物価の安定と為替の安定が自動的に達成されると考えられていたからである。

 1930年1月、ついに日本は金解禁(金輸出の自由化)を実施し、金本位制に復帰した。アメリカで株が大暴落した3ヶ月後のことであった。
 金本位制復帰に当たっての最大の問題は、実勢為替レートよりも10%以上円高の旧平価で金本位制に復帰したことであった。

 
蔵相の井上準之介は、徹底した緊縮財政によるデフレ政策をとり、国内物価を引き下げ、それによって国際競争力を高めようとした。日本製品が安くなれば輸出がしやすくなる。もし日本の物価水準を10%引き下げることに成功すれば、たとえ為替レートが10%高くなっても問題はない。    

そのうえ円高にすれば外国から安く原材料を輸入することができる。それは日本経済にとってもプラスになる。そう踏んだのである。「人は伸びんとすれば先ず縮む」。これが井上の考えであった。

 しかし、恐慌の真っ最中に、デフレ政策に加えて10%以上も円を切り上げればどうなるか。答えは明白である。 輸出が減少し不況はさらに深刻になる。今でいう円高不況が追い打ちをかけることになったのだ。まさに、世界恐慌という「嵐に向かって窓を開く」結果になってしまったのである。

 1931年12月、大蔵大臣に就任した高橋是清は金輸出再禁止を決定し、金本位制は2年足らずで崩壊することとなった。高橋は日本のケインズともいわれるように、今でいう有効需要創出政策を採った。低金利 政策をとり、公債を発行して軍事費を拡大し(31年9月、満州事変)、さらに公共事業を積極的に押し進めた。高橋の政策はかなりの成果をあげた。一方の井上は32年に暗殺されてしまった(血盟団事件)。

 しかし、1935年、国債残高が膨らみ国債消化率が低下したことから、このままでは日本の財政は破綻するとして、高橋は一転して国債抑制、軍事費削減を打ち出した。これに反発した軍部は、1936年、高橋を暗殺した(二・二・六事件)。
 1937年、廬溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、このあと日本は戦争へとまっしぐらに突き進むこととなる。

 

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