講義形式によらない授業法
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1.講義形式の授業の限界 おもしろい話や興味深い話をすれば生徒はきっと聞いてくれるはず、などと思っていたら大間違いである。そんなのは一部の学校だけであり、大半の学校の実態は次のようなものではないか。
こんな実態を見たり聞いたりするにつけ、講義形式の授業はもはや限界に来ているのではないかという気がする。つまり、授業がうまいとか下手だとかいった問題を超えて、講義形式という授業システム自体に欠陥があるのではないかと思うのである。 一般的に「授業が成立していない状態」とは、私語がやまなかったり、立ち歩きが目立ったりする状態を言う。そうした最悪の事態を避けるために、多くの教員は穴埋めプリントを準備したり、ひたすら板書してそれをノートに写させたり、色塗りの作業などをさせる。 もちろん、生徒をこちらの指示に従わせるために、成果物は授業終了後回収し、平常点に組み入れるという脅しを忘れない。今、多くの教育現場で行われている授業には、こういうタイプの授業が少なくない。 しかし、私はそうした授業のあり方に疑問を持つのである。はたして、静かでさえあれば授業が成立していると言えるのだろうか。「授業が成立していない状態」をもう少し広くとらえるべきではないのか。 たとえば、寝ている生徒がたくさんいる状態は、たとえ表面的には静かであっても授業効果があがっているとはいえない。また、黙ってノートをとって一見平穏に見える授業も、生徒の大脳が活発に動いていなければ 、決して授業が成立しているとは言えない。 要するに、1時間の授業で、確実に何かを身につけたという実感がなければ、「授業が成立していない」といってもいいのではないかという気がするのである。 特に私語がやまなかったり、立ち歩きが公然と行われるような場合はなおさらである。自分の力量が足りないと思い、ひたすら「忍」の一字で堪え忍ぶ。
2.生徒主体の授業の試み しかし、教育の大衆化が進み、95%もの生徒が高校に進学し、約7割の生徒が大学に行く時代に、講義形式という一方通行の授業だけではうまくいくはずがない。世の中にはおもしろいことがいっぱいある。ゲーム、ケータイ、インターネット、テレビ、音楽等々。社会がみんなで子供たちの知的好奇心を奪っているといってもよい。
もっと学ぶ側の心理状態を考慮し、講義形式の「説明」だけではなく、読む、聞く、話す、書く、体を動かすといった要素を取り入れ、単調な講義にならないような工夫をする必要がある。 グループ学習の成否はグループ討議に入る前の十分な個人思考(=仕込)に依存する。そこで、グループで話し合いに入る前に、自分の考えを少なくとも3つ以上はメモをさせる。 次に、グループを作る。1グループの人数は4人くらいがちょうどいい。少なすぎると議論が発展しないし、多すぎると発言しない人が出てくる。4〜5人のグループの時が一番話しやすいのだ。そして、議論しやすいように机を移動させ、机間巡視をしながら議論の様子を観察する。議論が活発でない
グループには適宜助言を与える。
発表形式を決めておけば、初心者でも一応の格好はつく、しかし、さすがに発表は緊張するとみえ、みんなコチコチだ。 冒頭に、メモは見てもよいが、原稿の棒読みにならないように、また、目線は教室の後ろのほうから前の方にZの字を描くように見る(Zの法則)といったプレゼンテーションの基本を指導する。 発表が始まると、早速
だれ一人寝るものもなく、すごく活気のある授業となった。こちらが期待していた以上にうまくいった。最後に、生徒の議論をふまえたうえで私がポイントをまとめ、1時間の授業を終えた。授業終了後に聞いてみた生徒の感想も、総じて好評だった。生徒の心に届いた授業だと久しぶりに充実感を味わった。 3.反省点 ところが、このやり方はクラスによって大きな差が出る。 最初のクラスでうまくいったものだから、意気揚々と別のクラスで同じように試みたところ、完全に失敗に終わり、落ち込んでしまった。成功したのは日頃から明るい雰囲気のクラスで、友達関係がうまくいっているクラスであ り、失敗したクラスは友達同士がお互いに気を遣いあい、議論が盛り上がらなかったクラスであった。 しかし、今回の体験を通して、講義中心の授業という枠組みを取り払えば、いろんな授業展開が可能であるということが分かった。ディベート、発表、イラストを描かせる等々、さまざまなバリエーションがある。みなさんもいろいろ工夫してみてください。
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