憲法に対する誤解のルーツを探る

 

 憲法とは人民を入れておく檻ではなく、政府を入れておく檻である」といわれるが、今日、実に多くの人が「憲法とは人民を入れておく檻である」と誤解しているのには驚くばかりである。そもそも憲法とは、国家権力を制限し、国民の人権を守るものとしてスタートしたはずなのに、なぜ、多くの人が「憲法を守らなければならないのは国民である」と誤解をしているのであろうか

 第一の理由は、これまで日本人自身が権力に抵抗し、憲法を勝ち取ったという経験がないことに大きな原因があると思われる。明治憲法は「お上」から与えられた。日本国憲法もアメリカから与えられた。こうした歴史を持つ国民に、「憲法とは権力を制限するためにあるんですよ」といっても理解されにくいのは当然かも知れない。


 
第二の理由として、教育のあり方について触れないわけにはいかない。たとえ憲法を自ら勝ち取った経験が無くても、学校教育で正しく憲法を教えていれば、ここまで多くの人が憲法を誤解することはないはずである。

 しかし、学校で例えば人権問題を扱う際、ほとんどの先生は、憲法第14条(法の下の平等)「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」を取り上げ、「ほら、憲法にこう書いてあるでしょう。みなさん、憲法を守りましょうね。差別してはいけませんよ。」と教えているのではないだろうか。

 ある高校生が、「中学校で憲法を暗記させられたのは、私たちが憲法を守る義務があるからだと思っていました」と語ってくれたのは、こうした教育の現状を物語っている。もちろん、これには憲法の本質を詳しく紹介しない教科書の記述のあり方にも問題がある。

憲法の一番重要な立憲主義(権力を憲法で制限し、その憲法に基づいて政治を行うこと)という観念について、もっと多くのページを割くべきではないだろうか。


 
第三の理由は、十七条憲法にある「和を以て貴しと為す」という精神が、本来は役人の服務規律として書かれたものであるにもかかわらず、国民に対するメッセージとして日本人のあるべき理想のように語られること が多く、そのことが憲法を誤解させる一因となっていることも考えられる。

 そのほか、第二次世界大戦の敗戦をきっけかに、日本の憲法が大陸法から英米法に変わったにもかかわらず、いまだに明治憲法という大陸法の発想から抜けきれないせいもあるかもしれない。

 確かに大陸法の流れを汲むドイツでは、現在でも国民に対して憲法を守るべきだと強制する(憲法忠誠)。しかし、英米法の流れを汲む日本国憲法は、国民に対して憲法を守れとは要求していない。その事は憲法99を読めば明白である。

 

 大陸法系と英米法系の両方の制度をあわせもつのは世界でも日本くらいであり、そうした混乱が憲法に対する正しい理解を妨げる原因になっているのかも知れない。

憲法とは国家権力を拘束するために作られたこと

憲法の目的は人権保障にあること

統治機構の規定は人権保障のための手段であること」

この三つが理解されれば、憲法の勉強の仮免許くらいは取れたと言っていい。

 

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