学習の3段階
1.二兎を追う 授業を行う際、いつも悩むのが「試験で点を取らせるための授業」と「勉強の面白さに目覚めさせる授業」のバランスである。だいたい、できる生徒ほど後者を好み、できない生徒ほど、試験に出る所「だけ」を教えてほしがる。 勉強の面白さがわかれば、あとは自分で勝手に勉強するだろうと思っていたが、最近の生徒の傾向として、楽をして点を取らせてくれるのがいい先生だという風潮があるようだ。二兎を追う欲張りな指導法とはいかなるものか。
2.三段階の学習レベル 私は、生徒に教える内容をつぎの三段階に分けて考えている。 B応用力 A試験に出る知識 一番下@が学問として土台となる部分で、ものの考え方の部分。この部分は入試には出ない。しかし、一番重要な部分である。 真中のAの部分が、教科書に出てくる細かい知識。入試で出題される部分である。 そして、最上層Bが応用問題部分である。学校で教えることができない部分と言ってもいい。時事問題であったり、データを出して考えさせる問題であったり、いわゆる、知っている知識だけでは解けない問題である。 土台となる部分は、何十年も専門書をよみ、勉強をしてきて、初めて見えてくる骨太の「精神」みたいな部分である。この部分を無視して、いきなり瑣末なことを教えると、面白くないし、また本物の知識として身につかない。 私見によれば、多くの先生は土台となる考え方をあまりきちんとは教えてはいないのではないかという気がする。 例えば、憲法はなぜ必要かということを、歴史にさかのぼってきちんと教えず、いきなり日本国憲法の細かな条文の解説に入ったりする。ひどい先生になると、憲法の前文を暗記させたりもする。 しかし、勉強をする場合一番大切なのは、土台となる考え方を教えることではないか。国家権力の横暴を抑えるために憲法ができた歴史のプロセスを理解すれば、あとは普通の日本語力があれば、憲法の条文なんてそんな難しいものではない。 同じようなことは経済分野についてもいえる。なぜ不景気が起きるのかといった基本的なこと(=有効需要の原理)を教えないで、不景気になったら減税、公共事業、買いオペをやることだと結論だけを教える。 国連の原理である集団安全保障の重要性を教えないで、どうでもいいような瑣末な組織のことばかりを教える。 社会保障にしてもそうである。そもそもなぜ社会保障が必要なのか。国はどこまでかかわるべきなのか。税金は低ければ低いほどいいのか、それとも高くてもいいから充実した社会保障を確立したほうがいいのか。そうしたことを考えさせることが本来の教育ではないのか。 確かに、土台となる考え方の多くは入試問題には出ない。これが唯一絶対の正解だというものがないからである。 一般に、土台となる考え方に重点を置いた授業をやると、よくできる生徒は目をらんらんと輝かせて聞いてくれる。しかし、現代社会が苦手な生徒は、「そんなことはテストに出ないのだから、もっと出る所を教えてくれよ 」みたいな顔をする。
3.効率的な学習方法 では、試験で点を取らせるための効率的な学習方法はどうすればいいのだろうか。いきなり三角形の真ん中部分にあたる試験に出ることを中心にやればいいのだろうか。私は決してそれが最善だとは思わない。
と思っている。細かいことを教えすぎて勉強を嫌いにさせては何にもならない。 今の学校は、目先のことにとらわれすぎて、テストのための勉強に終始しているような気がしてならない。学習指導要領をきちんと読んで授業をしている先生がどのくらいいるのだろうか。 「試験で点を取らせるための授業」と「勉強の面白さに目覚めさせる授業」のバランスをどこに求めたらいいのか。さまざまな生徒を相手に、今日も悩む日々である。
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