新聞って何!?
記事は社会の一断面,常に疑問を忘れずに

以下の記事は1995年9月18付『産経新聞』に掲載されたものです。私がイスラエルを訪れる1年前(1993年)、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間でオスロ合意が取り交わされ、パレスチナにつかの間の平和がもたらされていました。この記事はその直後のイスラエルの状況をもとに書かれたものです。

 

  ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 見ると聞くとでは大違いという事がある。 去年(1994年)、イスラエルに行ってみて驚いた。日ごろの新聞などの報道から、アラブとの領土紛争に明け暮れる物騒な国ばかりをイメージしていた。また黒い服を着たユダヤ教徒が、エルサレムの「嘆きの壁」で熱心にお祈りをする姿ばかりを想像していた。

 ところが実際に行ってみると全く違う。街は年間200万人の外国人観光客であふれ,平和そのものである。(もちろん観光コースにはあらかじめ危険なところは省かれているせいもある)。また,黒装束の熱心なユダヤ教徒は500万人の国民の少数派(約2割?)で,イスラエル国内でも特異な存在でしかない。

 いったいどちらのイスラエルが本当なのか。 たぶん新聞が伝えるイスラエルも,私がこの目で確かめたイスラエルも両方とも真実であろう。考えてみれば当然のことである。新聞に載っていることは全体の一部でしかない。しかし,このことを常に肝に銘じておくことは大切である。新聞は社会の一断面を切り取ってきて読者に伝える。その際,記事になるのは社会全体から見れば例外的な現象といってよい。

 バス爆破事件が記事になったとしても,それは万に一つのことである。普通に走っている大半のバスのことはニュースにはならない。しかも国内と違って,海外からの情報はきわめて量が少ない。その結果,入ってきた情報がたとえ例外であっても,それが「全体」だと一般に信じられてしまう。

 東大,朝日新聞,NHK,岩波書店を称して日本の四大権威と呼んだ人がいた。確かにこれらに代表される機関が言うことや書くことは信頼度が高い。しかし、いくら信頼度が高くても,常に心の中で「はたしてそうか」と問う気持ちを持ちたい。

たとえ書いてあることに誤りがない場合でも,もっと大切なことが書かれていない可 能性もある。「それは教科書を読む場合も同じだよ」 と生徒には教えている。 (大阪府立三国丘高等学校教諭 南 英世)

 

授業こぼれ話に戻る

 

トップメニューに戻る