和をもって尊しとせず

 2007年08月28日
 

 聖徳太子が役人に説いた心得に十七条憲法がある。この中に「和をもって尊しとなす」という一文がある。「役人どもよ。仲良く仕事をしろよ」というわけである。これを見て多くの人は、日本には古くから和を大切にするすばらしい精神があったと誇りに思う。

 しかし、誤解しちゃいけない。法で「盗むな」「殺すな」「立ち小便するな」とお触れを出すのは、実際にはその反対の現象が目に余るからである。太子がことさら「仲良くしろ」ということを言わざるを得なかったのは、そこに仲良くしない役人どもがいたからにほかならない。

 ところが、いつの間にか「和をもって尊しとなす」精神は日本を特徴づける文化となり、集団の和を乱すことは極端に忌み嫌われるようになった。そして争いを避けるためには自分の意見を言わないことが美徳とされ(「沈黙は金」)、会議などでも「場の空気」を読み、みんなと同じ意見を述べることが一般的となってしまった。

 特に全会一致が広く採用される日本の会議では、「場の空気」と違った意見を述べることはよほどの勇気とリスクを覚悟しないとできることではない。それは学者も同じで、大学の先生は、教室では自説を展開するが、学会では通説を展開すると揶揄される。
 
 人の振り見て我が振りなおす。赤信号は決して一人では渡らないが、みんなが渡れば自分も平気で渡る。まるで集団催眠にでもかかったように、思考を停止し、みんなと同じような行動を取る。日本社会はそんな等質的人間の集まりとなってしまった。日本人の特性をそうしたものと理解すれば、いろいろな社会現象にも納得がいく。

 たとえば「バブル」の発生がそうである。隣のおばちゃん、おっちゃんが株で大もうけをしている。だから自分も株を買う。また、誰もが異常な土地の値上がりだと思いながら、みんながやっている。だから自分も土地投機に走る。
 さらには、戦争に突入する場合も同じである。日本全体の「空気」が一端そちらの方向に流れ始めると、「私は戦争には反対です」という当たり前のことを発言することさえはばかれる雰囲気になる。個人よりも全体を優先させる思想は「全体主義」(=ファシズム)以外の何者でもない。

 最近、学校や職場でいじめが問題になっているが、結局これも他人とは違った異質な人がいじめのターゲットになりやすい。一端いじめが始まると、見て見ぬ振りをしないと今度は自分がいじめのターゲットになる。だから、誰も止めに入らない。かくしていじめはますますエスカレートしていく。

 人間は本来一人ひとり異なる存在である。そういう当たり前のことを前提として、その上で「和」を大切にするなら問題はない。しかし、現実は「あいつ、俺の意見に反対しやがって、俺に何か恨みでもあるのか」と受け取られることも少なくない。
 「あいつ、俺の意見とは違うおもしろいやつだな」と考える人間を一人でも増やす必要がある。
 

南英世の息抜きエッセーに戻る

トップメニューに戻る