職業に貴賤はない    

2011年11月13日

 講堂朝礼

 先日の講堂朝礼で、次のような話をした。

 「今日は、みなさんに職業の選択についてお話しします。結論を先に言うと、職業には「偉い」も「偉くない」もない、「職業に貴賤はない」というお話です。

 何年か前に読んだ本の中にこんな話がありました。「
ある会社の社長が定年で退職をした。永年勤めた会社に、定年後も役に立ちたいと思って再雇用を願い出た。あるとき社員がトイレに入った。そこにトイレ掃除をしているおじいさんが一人いた。見ると元社長だった」。
 トイレは会社の鏡。それを一生懸命磨く元社長。職業に貴賎はないといいますが、なかなか実行できるものではありません。感心させられました。

 話は変わりますが、数年前、私は1週間ほど病院に入院したことがあります。病室の窓からビルの建築現場が見えました。暑い夏の日差しの中で、タワークレーンの上で終日アームを操作する人、クレーンのフックに荷物を掛ける人(「玉かけ」国家試験がある)、ビルの高い作業現場で溶接をする人。いろんな人が働いていました。建築の仕事というとわれわれはすぐに1級建築士を思い浮かべます。しかし、
1級建築士だけではビルは建ちません。いろんな人の協力があって初めてビルは完成します。
 将棋というゲームは王ばかりでは成り立ちません。歩の存在も必要なのです。

 世の中にはいろんな職業があります。これらの中から何を選ぶか。若いときは自分が何に向いているかというのはなかなかわからないものです。
 私自身も、小さい頃は歌手か弁護士になりたいと思っていました。高校生の頃は政治家とかニュースキャスターにあこがれていました。大学に行って真剣に日本銀行に入りたいと思って試験も受けました。1次試験合格。2次試験合格、・・・。そして、最終面接で、一緒に受けた友達が合格し、私は落とされました。

 今になってみれば、落とされてよかったと思っています。
「職業」を表すのに英語では“calling”という言葉があります。神が呼んでいるということで「天職」と訳されます。私は、あたかも「神の見えざる手」に導かれるように、最後は高校の先生に落ち着きました。31歳のときで、3つ目の職業でした。以来、高校の先生を30年間続けてきました。

 私は今60歳ですが、最近ようやくわかったことが一つあります。それは、人間は最後には死ぬと言うことです。若い頃は「死ぬ」と言うことがなかなか実感できませんでした。先日母を亡くし、「人間死ねば最後は白い骨になる」ことを改めて知りました。当たり前のことですが、知識で知っていることと、心の底から納得できることとはまったく別です。

 人生は一度きり。みなさんには、自分にふさわしい生き方、自分にしかできない生き方を見つけだしてほしいと思います。
仕事には「偉い」も「偉くない」もありません。必要とされるからいろんな職業が存在しているのです。自分にできることを一生懸命やってください。
 私が大学を卒業するとき、恩師から次のようなはなむけの言葉をいただきました。
人間にはできることとできないことがあります。さて、みなさんにできることは何ですか?
 自分にふさわしい仕事は何か。みなさんに改めて問いかけます。自分にしかできないことって何でしょう。


 これで今日の私の話を終わります。

 

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