職業と社会的地位

2007年03月14日



 宗教改革以前、聖書はラテン語で書かれ、一般の人は聖書を読むことができなかった。だから、聖書を読むことができる聖職者は エライとされた。しかし、エライとされる職業があれば、エラクナイとされる職業もある。
 たとえば、中世から近代にかけて、賤しい職業の代表とされたのが金融業である。誰もやりたがらない。そこで、差別されてきたユダヤ人が入り込むこととなった。シェークスピアのようなインテリでさえ、『ベニスの商人』の中で、金貸しシャイロックを偏見に満ちた描き方をしている。ユダヤ人の中に金融業で成功を収めるものが多かった背景には 、そうした歴史的事情がある。

 ところが、近代に入って活版印刷が普及すると、聖書のドイツ語訳が大量に発行され、誰でもが聖書を読めるようになった。ルターが神の前の万人の平等を説いたことと併せて、プロテスタントによる新しい職業観が誕生した。英語で「職業」を“calling”という言い方がある。神がその職業に召されたという意味で、日本語では「天職」というニュアンスに近い。

 現在では、「職業に貴賤はあるか」と問われれば、多くの人は「ない」と答える。しかし、実は「ない」と答えている人のほとんどは、腹の底では「そんなしょうもないこと聞くな。あるに決まってんじゃん」と思っている。職業と社会的地位が密接に結びついていることは現代のジョーシキといってよい。

 たとえば、自らは働かないでカネがカネを生む金融業は「賤」の代表はとされてきた。現代でもそうした名残は消え去ったわけではない。イスラム社会では今も利息を取ることは禁止されているし、また、日本でもいわゆる高利貸しの社会的地位は決して高くはない。

 われわれ教師の世界にも、小・中・高・大、の違いがある。私自身世間のジョーシキに毒されて、長い間、大学の先生が一番「エライ」と思っていた。しかし、最近になってようやく、エライとかエラクナイとかとは関係がないと心底思えるようになった。今の仕事を天職と思えるかどうかが、一番大切なことではないか。

 1級建築士だけではビルは建たない。危険な現場で汗水垂らして働く人がいて初めてビルが建つ。今ある職業は必要とされているから存在しているのだ。そんなことは百も承知していながら、それでも世間のジョーシキを克服するのはなかなか難しい。

 

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