論文試験の採点

 

 高校生の定期考査に、「1問=100点、字数制限なし」の論文試験を課すようになってもう 20年以上がすぎた。 毎回、定期考査の時期になると憂鬱になる。採点地獄に見舞われるからだ。採点が大変だから、そろそろやめようかなと思うこともあるが、生徒の学力をつけるためには、やはりこういうタイプの試験が欠かせないとの思いから、今も続けている。

 些末なことはどうでもよい。意味も分からないまま、教科書のゴシックで書かれた用語だけ覚えて、テストで満点を取ったとしても、それで本当の学力がついたといえるのか。「真っ白の答案用紙に、小学生にでも分かるようにやさしく説明できて、初めて本当に分かったと言えるのではないか」。そうした思いは、昔も今も変わらない。

 採点基準はどのようにしているか?
私が授業中に教えたことを、教えられた範囲内でいくらきちんと書いても「せいぜい80点止まり」を原則としている。授業は学習のための単なるきっかけでしかない。授業で習ったことを元に、自分で新聞を読んだり本を読んだりして、どれだけ考えるようになったか。そこがポイントである。

 10年に1度くらい満点の答案が出る。生徒には、「私を感動させたら満点をつける」といっている。今までに 数枚つけたか。

8クラス、320枚もの答案を3日間で採点しなければならない。本当にちゃんと読んでいるのかと思う向きもあるかもしれない。断っておくが、確かにちゃんと読んでいる。不公平にならないように、また、採点基準がぶれないように、それこそ神経をすり減らしながら採点をしている。 

 採点をしていて一番困るのは、支離滅裂な答案である。論理性も何もない。意味を理解しないでただ覚えたことを吐き出しているだけの答案である。いったい、全体として何を言おうとしているのか、何回読んでもさっぱり意味が通じない。

 そもそも論文とは、何かを主張することであり、それを証明することである、という論文の基本が全く理解されていない。零点をつけたらショックを受けるだろうなあと思いながらも、心を鬼にして「零点」をつける。何でもいいから書けば点をくれるかもしれないという甘っちょろい考えは、本人のためにならないと信じている。

 また、部分的には正しいところもあるのだが、肝心要のことが理解されていない答案もやはり零点をつける。たとえば、
「ケインズは小さい政府を主張した」
「C+I+G+(X−M)は、供給をあらわす」
といった類である。物事にはどうでもいいことと、絶対に間違ってはいけないことがあることを教えるためには、このくらいの厳しさは当然と思う。 

 次に困るのが、字の汚い答案である。おおよそ、他人に読んでもらう字はどうあるべきか。別に美しい字を書けと言っているわけではない。せめて、読んでもらうんだという気持ちが伝わってくる字を書いてほしい。

 昔、三国丘高校のある国語の先生が、あまりに汚い字で書いてあった答案を見て、「読めない!」と一言書いて、零点をつけたと聞いた。その生徒は、その後、司法試験に合格し、弁護士になったが、零点をつけてくれた先生に今は感謝していると語っておられた。これこそ本当の教育ではないか。

 私もいつかこんな採点をしてみたいが、残念ながらまだしたことはない。(ただし、非常に丁寧な字で書いてあったSさんという女子生徒の答案に感動し、1度だけだが、内緒で5点加えたことはある)。

 かつて、すばらしい答案に出くわし、満点をつけようかどうか迷ったことがある。そのとき、とっさに思ったのは、この生徒に満点をつけることは本人の将来のためにならないのではないか、ということだった。 学問の奥深さを知ってもらい将来大きく育てるためには、ここは満点をつけない方がいいと判断し、あえて5点引いて95点をつけた。

 この生徒は京都大学工学部にトップで合格したが、その後「今の自分にはあのとき5点引いた先生の気持ちが理解できるが、当時は悔しかった」と言っていた。私は「君が将来ノーベル賞を取ったら、5点を追贈するよ(笑)」と言っておいたが、今もあのときの判断は間違っていなかったと確信している。

 

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