「ポストモダニズム」早わかり 2008年2月5日
ポストモダニズムっていう言葉を良く聞くが、これは一体何者だろうかと長い間思っていた。一般的にはポストモダン(Postmodern)とは、「近代の次」という意味であり、フランスのリオタールは、ポストモダンをマルクス主義のような壮大なイデオロギーの体系(大きな物語)が終わり、近代イデオロギーが瓦解したという意味で使っている。 先日、たまたま読んだ『ヘーゲル・大人のなりかた』 (西 研 NHKブックス)という本の中にポストモダニズムについて大変分かりやすく書いてあったので以下で紹介する。 この思想が爆発的に広がったのは1980年代に入ってからである。1970年代まではまだマルクスのような社会変革を目指す思想に人気があった。この思想は、「真理は自分達の思想の中にあり」、その真理にしたがって「社会を作り変え」、そのために共同体の一人として「共同体に貢献」することを求める。 しかし、貧富の差も労働問題も公害問題も一応の解決をみ、社会が豊かになり安定してくると、社会が変わっても解決できない個人的な生き方の問題が浮上してくる。つまり、社会のことなんか「そんなの関係ねえー」とばかり、恋愛の問題とか他人との関係とか、親との関係や自分の死の問題といった個々人の悩み、個々人の実存的な課題が重要になってくるのだ。ポストモダニズムの思想は、ニーチェやハイデガーを思想の源泉とするといわれるゆえんである。 かくして、ポストモダニズムは「真理」「道徳」「共同体」といったものに価値を見いださず、むしろそうしたもの はかえって自分たちを抑圧する存在であるとして、そうした世界から「軽やかに」「逃走」することを主張する。 かつてルソーは、富・権力・名誉などを得ようとしていつもあくせくして自己喪失に陥ることを批判して、『エミール』を書いた。つまり、そうした自己喪失から抜け出すために、孤児のエミールを競争社会から隔絶して、田舎で育てるというフィクションを構成した。私たちは競争社会の中で能力以上の過大な欲望を植え付けられ、それが不幸のもとになるのだから、競争関係を断ち切ればよい。そうすれば子どもは自由になれるだろう。 ウッソーではない。ルソーはそう考えたのだ。 ポストモダニズム(ドゥルーズら)の考え方は、こうしたルソーの考え方を徹底的に押し進めたものと言える。「世界はこうなっているのだから、人間はこうあるべきだ、と人間をひとつのかたちに縛りつけてしまう。そうした真理や道徳や共同体に取り込まれず,そこからどうやって逃走して自由で快楽的な生をつくれるか、これが(ポストモダニズムの)課題なのだ」と西研は主張する。共同体の価値観に染まらないように「逃走」し続ける態度は、思想界のみならず 文学、建築・デザイン、音楽などさまざまな場面で主張される。 |