モラルハザードと教育改革

2001年3月12日記

 

 自動車保険に入れば、事故に対する責任感が希薄になり、スピードを出しすぎるかもしれない。モラルハザード(moral hazard)とは、もともとは保険用語で「倫理感の欠如」という意味で使われていた。ところが、今の日本には、保険だけではなく、さまざまな場面でモラルハザードが見られる。

 たとえば、学校の教員の世界。公立の場合、公務員である教員の給料は「年令」序列である。誤解のないように言っておくが、「年功」序列ではない。つまり、頑張っても頑張らなくても基本的に給料は変わらない。
 幸いにして、教員の世界は比較的高いモラルの持ち主が多いことと、マスコミおよび市民の厳しい監視下にさらされていることから、今のところ(私が知らないだけかもしれないが)それほどひどいモラルハザードは起きていないようにも見える。

 しかし、残念ながらインセンティブがなければ働かないのが人間である。やってもやらなくても大差がなければ、できるだけ手を抜こうという先生が出てきても不思議はない。
 以前は「転勤」や「管理職への登用」という人参を目の前にぶら下げておくことで、たとえ給料に差がなくてもモラルハザードを起きにくくする仕組みがあった。

 しかし、大阪府の場合、教育委員会の人事方針が1991年に変更されて以来、「転勤」に関する人参はなくなってしまった。また、「管理職」というポストも、時節がら魅力が色褪せてしまった。かくて、人参がなくなってしまい、今の職場環境は、モラルハザードが非常に起きやすい条件がそろっている。いつまでも教員の倫理感だけに依存するやり方では、公立の学校は衰退してしまう恐れがある。

 

 しかし、もっと深刻なモラルハザードが起きているのが大学である。大学の教員は一度講師に採用されると、よほどのことがないかぎり、論文の本数さえ揃えばほとんど自動的に助教授、教授に昇進していく。
 助教授クラスの人ならまだ目の前に「教授の椅子」という人参があるから頑張りもするが、教授になってしまえばもうインセンティブはない。あとは、学者としての良心だけがたよりである。

 もちろん、多くの教授達は薄給にもかかわらず、骨身を削って研究に励んでいることは知っている。しかし、そうでない教授がいることも確かである。以前、筆者が習った経済政策原理担当の老教授は、「原理は毎年ころころ変わるものではない」とか言って、使い古して黄ばんだノートを毎年教室で読むだけの講義をしていた。だから、「いちばん実力のある先生は40歳台前半の助教授だ」という話を聞いたときは、大いに納得したものである。

 大学のモラルハザードが単なる一個人の問題であれば、それほど目くじらを立てる必要もない。しかし、社会における大学の果たすべき役割を考えるならば、大学のモラルハザードは、日本の将来を左右すると言っても過言ではない。

 そもそも、日本の文教予算の半分を使っているといわれる東大が、世界の大学ランキング(教官の書いた科学研究論文がどれだけ他の研究者によって引用されているかではかる)の50位以内に入っていないというから驚く。日本の経済力からすれば、せめて10番以内に入っていなければおかしい。ちなみに、引用回数が多い論文の研究者ベスト5は次のとおりである。

  @岸本忠三阪大学長、
  A井上明久東北大教授、
  B中村修二カリフォルニア大教授(元日亜化学工業研究員)、
  C平野俊夫阪大教授、         
  D中西重忠京大教授  
                 (2000年10月3日、日経新聞)。

 東大はようやく10位に谷口維紹教授が入っているだけである。東大を出ていないひがみから言うのではないが、なぜ、こんなにランキングが低いのか。やはり、モラルハザードが起きているとしか考えられない。

 優秀な研究者には、何億円でもいいから給料を出し、世界中から優秀な研究者を集めて、もっと大学の中で競争をさせるべきではないか。ロンドン大学経済学部の教授の約半数は外国人だということを、以前何かで読んだことがある。大学の教員の給料が、現在のように一律の「年令序列」であるかぎり、大学の活性化は期待できないように思われる。

 いま日本の教育改革は、「悪平等の追放」と「右傾化」という二つの方向性をもって行われているが、本当にやらなければならないのは「悪平等の追放」の方ではないか。
                                

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