松尾元和先生のこと
2000年10月15日
松尾先生に直接会ったのは2、3回しかない。しかし、妻が勤めていた高校の校長であったせいか、何かと話題に上ることが多く、妙に印象が深い。
いまでも一番印象に残っている話は,昔、松尾先生が自分の子どもさんをお風呂に入れていたとき,酔っていたため子どもを風呂にドボンと落としてしまい,奥さんから大目玉を食らったって話である。
その頃,我が家は子育ての真っ最中で、人生で一番シンドイ時期だった。妻も勤めているし、私も忙しい。妻の母親の援助があったのでなんとか切り抜けることができたが,それでも,子どもが病気をした時なんかは,夫婦のどっちが休暇を取るかでお互いケンカ腰になることもあった。結局は妻の負担となることが多かったが…。
松尾先生はあるとき妻に言った。「どうしても都合がつかなければ、子どもを学校へつれておいで。校長室においといたら誰も文句は言わへん」。
この一言で私はすっかり松尾先生のファンになってしまった。こんな校長のためなら一肌も二肌も脱ごう。そんな気にさせてくれる人だった。
もちろん、厳しい面もあった。教員の人事の話をしていたとき,「全ての人が満足する人事なんて無理だ」といわれたのが印象に残っている。言われてみれば当たり前のことだが,言いにくいこともズバリという人だと思った。
先生が亡くなられてから、先生の遺稿集が送られてきた。校長時代の生徒向けになされた挨拶・式辞を集めたものである。ていねいに,線を引きながら読んだ。私にとっては万巻の書に値する一冊である。その中からいくつかを紹介する。
「一生、何をして食べていくのか」
「人間は神でもないし、悪魔でもない。その中間であろう。・・・ 悪の誘惑に負けることなく、意志を固くして冬休みを過ごしてほしい」
「律には、なすべきことと、なしてはならぬことの二つを含みなす。」
「若いということは、何かにのめり込むということではないか」
「何かについて考えるときのポイントを述べておきたい。一つは『それは何であるか』ということ、もう一つは、『それに対して自分はどういう態度をとるか』ということ。この二つがポイントです。」
「子どもは親から期待されるのもいやがるし、期待されなすぎるのもいやがる。」
「高津の子は、決して蛹(さなぎ)のまま終わることはない。必ず蝶になる力をもっていると確信しています。」
「『ああ、そうか』ではなく、『果たしてそうか』という風に聞いて欲しい」
「自己の有限性を自覚するものは必然に寛容となる。卒業生諸君、『寛容であること』の意味を自分で考えていただきたい。」
「いろいろな人がいろいろな職業について頑張っているから、この社会が成立している。」
書かれてある一言一言が,平凡だが深い。
先生は亡くなられる少し前に、信子夫人に、「それでは元気でいってらっしゃい、と言って手を振ってくれ」と言われたという。夫人がためらいながらも言われたようにすると、先生は満足そうにうなずかれたとか。この言葉の中に先生の生きる姿勢を見る気がする。
先生が亡くなられて,次の冬で9年になるが、ある日私は授業中寝ている生徒に真剣に怒ったことがある。「授業というのは、やるほうも受けるほうも真剣にやらなければ効果があがらないんだよ。こっちは毎時間命がけでやってるんだ。そっちが寝てたんでは話にならん、いいかげんにしろ!」と。
ふと,あとで思った。そう言えば,松尾先生の本の書名が『そっ啄』だったなーって。
「教育は人であります。人とは誰か。先生と生徒です。」 とも書いておられた。
教員生活18年目。先生の松明を絶やさず、志をしっかり受け継いでいきたいと思うこの頃である。
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