エリート教育と平等教育

 2000年5月4日

 

 1980年代、レーガン大統領はアダム・スミスを墓場から甦らせ、自由競争を基調とする新しい時代を切り開いた。経済は活性化し産業は甦った。90年代のIT革命の基礎はまさに80年代に準備されていたといってよい。現在、アメリカは史上最長の経済繁栄を謳歌している。

 ひるがえって、日本はどうか。
経済改革をするべき時期にバブルが発生し、改革が遅れた。90年代に入ってなお、改革を先送りし10年を無駄に過ごした。事の重大さに気づいたのは、ようやく去年あたりからである。

 今、日本はアメリカの1980年代末だと思えばよい。約10年遅れでアメリカの後追いを始めた。だから、アメリカにキャッチアップするのにあと数年はかかる。ただし、追いつくことはできても、追い抜くことはできないかもしれない。

 何故なら、フロントランナーには独自の技術・ソフト開発力が必要だが、今の日本の教育には、独創性を育成する教育が不充分だからである。高校以下の教育では、暗記することを強調しすぎるし、大学生は受験勉強で疲れ果て、大学を遊ぶところと心得ていて、新しいことに挑戦しようという気概に欠けている。

 戦後、平等教育の理念のもとに、学習能力のある人間にも、学習能力の劣ったものにも同じ教育を施そうとした。しかし、国民の95%もの人が外国語を自由に話し、1000年前の日本語を自由に読めるようになるとは到底思えない。いわんや、高等数学においておや。

 その結果が、学力の低下であり、公立学校の荒廃であり、塾の繁栄である。今の教育改革はその修正といえる。ベクトルの方向はようやく自由主義の方向に向き始めた。

 能力のあるものには徹底的にエリート教育をすればよい。その代わり、真のエリートたるものは如何なる生き方をしなければならないかも同時に叩き込む必要がある。私は、三国丘高校の生徒には徹底的にエリート教育をしたいと思う。但し、自分の幸福のみを追求するような器の小さな偽エリートではなく、広く日本・人類の幸福に貢献することを優先できる、真のエリートの養成である。

 私は、今年の授業の最初の時間に「才能を 私物化するな」と言った。また、『たまたま諸君は、素晴らしい才能を持って生まれてきた。そのことを神に感謝し、同時にその才能を社会のために使ってほしい』とも言った。せっかくの才能を私腹を肥やすためにだけ使うような人間にはなってほしくない。

 平等教育によって社会的平等は実現できても、社会全体のパイ
が大きくならない可能性がある。平等をある程度犠牲にすることによって、かえって社会全体が豊かになれる可能性もある。それは今の中国の経済発展が証明している。

 エリート教育、大いに結構。その代わり、エリートには自己犠牲が伴う事も知らしめねばならない。振り子が行きすぎて、社会的不平等が行きすぎても困る。

 21世紀は、1人の天才的な発明によって日本全体が食っていく時代になるかもしれない。今の日本は、その天才をみんなで寄ってたかって潰すことしかやっていないのではないか。
                      
 

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