悪文を尊ぶ日本人

 

 どうも日本人には、高尚な文章は難解でなければならないという錯覚があるらしい。この傾向は作家や大学の教師に特に強いように思われる。おおよそ平均的な日本人が2回も3回も読んで、なお筆者の言いたいことが理解できないとするならば、それは読み手側の責任というよりは書き手側の責任であるというべきであろう。なぜ、自分の訴えたいことをわかりやすくストレートに表現しないのか。

 もし、自分の言いたいことをストレートに表現しないことの原因が、間違いを指摘されることを恐れることにあるとするならば、何とも情けないというほかない。大学の教師は、教室では自説を述べ、学会では通説を発表するという話を聞いたことがあるが、これなども背後に同じような心理が働いているせいかもしれない。

 毎年、センター試験後の1月末から3月にかけて、大学入試のための小論文指導に忙殺される。今年も終わってみれば40人の指導をしていた。対象は、文学部を除くほぼすべての学部に渡る。具体的には法・経・商・経営・外大・教育・国際関係・社会福祉・生活科学・農・医・薬・理・環境・工・などである。

  小論文指導をしながらいつも思うのは、出題されている課題文はまさに悪文の見本ではないかということである。これは何も、小論文の課題文に限ったことではない。大学入試に使われる現代国語の文章なども同様である

 確かに出題者の立場からすれば、どれだけいい内容でも、平明な日本語で書かれていては「問題文」としては使えない。みんな満点になってしまうからである。しかし、だからといって、平均的な(あるいはそれ以上の)学力をもった人間が、何度読んでも意味がはっきりしない文章を出題することに、どれだけの意味があるのか。

わかりやすく説明せよというのであれば、最初からわかりやすく書いてくれればいいのではないか。

 以前、川端康成氏の文章が大学入試問題に使われ、模範解答を見た同氏が「僕はそんなつもりで書いたのではない」という意味のことを語ったという笑えない話を聞いたことがある。もしこれが真実なら、その責任は、そんなあいまいな表現をした作者の川端康成氏にあるというべきであって、解答者にその責任を求めるべきではない 。もっとも、文学作品はそういうあいまいな部分が必要なのかもしれないが

 大学入試をめざす高校生は、日頃、学校で難しい日本語ばかりを読まされている。その結果、小論文を書く場合でも、とかく難しい表現を使いたがる。まるで、難しく書かないと小論文では高得点をもらえない、とでも思っているかのようである。

 私はそういう高校生に、「論文を書く場合の日本語は、100人のひとが読んで、さっと意味がわかり、しかも一通りにしか解釈できない日本語が最高の日本語ですよ。」と言うことにしている。

 平均的な日本人が読んでも意味がよくわからない日本語など、正しい日本語というに値しない、といったら言いすぎであろうか。少なくとも、小論文の文章はそうあるべきだと確信している。

 先日、英語の先生からおもしろい話を聞いた。高校生の英作文の指導をしていると、やさしく表現しようと思えばいくらでもやさしく書けるにもかかわらず、妙に難しい表現を好んで使いたがる傾向があるという。これなども学校でやさしい普通の英文をたくさん読ませず、難しい入試用の英文ばかりを読ませている弊害ではないか。背景に、ある種の共通性を感じ、興味深かった。

 昨今、大学生の学力低下ということが言われているが、こと文章を書いて自分の考えをわかりやすく表現するという点については、まったくその通りだと思う。私のところへ小論文指導を受けにきている生徒が、「高校に入学してから長い文章を書かされたことは一回もなかった」と話してくれたことに、私は少なからず驚いた。いったい誰に責任があるのだろうか。 

 

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