______ドウッ!


鈍い音がして、<黒の波動>が、鏡から溢れ出す。
アンジェラの身体、そして、私の身体に、漆黒の波動が纏わり付き始めました。
グッと、波に呑まれないように踏み留まる、アンジェラの額に、汗が滲む。
イキナリ、身体がどんどん、黒き鏡の中へと、吸い寄せられて行くからです。


「・・・アンジェラ・・・。
・・・手をッ!」

「___君達に、マナの加護があらんことを」


ヒースさんの言葉と同時に、視界が、黒一色に染まりました。
グニャリ、グニャリ、グニャリと、鏡の中から現れる、漆黒の波動で、空間全体が歪み出す。
身体ごと、捩じり切るような歪みに、吐き気を覚える。
お互いを庇いあう様に、アンジェラと私は、手と手を取ります。

二人の手は、重なり合っているハズでした。
なのに、どうしてでしょう。
アンジェラの手が___掴めません!

掴んでいたはずの、アンジェラの手が、透けて、多重になって行くからです。
<アンジェラの存在>自体が、ぶれて、歪んで、黒き揺らぎの中へと、消えて行くのです。
暗黒の波動に包まれて、私達には、何も観えなくなって行く。
そして、観える物の、総てが歪んでしまう!


「・・・アンジェラ!」


もう一度、アンジェラの名を呼んだ瞬間、私の手が、虚しく空を切りました。
そのまま、朝食が広がるテーブルへと、手が落ちて___。
<物体>で在るはずのテーブルをすり抜ける。
手の平まで、ぶれて、揺らいで、何重にも重なり、私の身体全体も、透けて行きます。


「ううっ・・・!
ヒースさん・・・一体、どうして・・・っ!」

「リース王女。
君も<古代呪法の世界>へ、行っておいで。
そして、<君の答>を得たまえ」


___古代呪法の世界___?


鏡から放たれる、暗黒の波動に、体中を拘束されるほど、私の意識が揺らいで行きました。
立っていたはずの床さえ、実体がおぼつかなくなって、まるで、眼に映る全てが、幻のようです。
確かな物など何一つ無い。
暗黒の空間に吸い寄せられて、もう、自分自身の心さえ、消し飛んでしまいそうになります。


「リース王女。
アンジェラ王女。
では、呪いの海で、私の言葉を理解出来るよう___努め給え」


______そうして。





今、視界の一面が、暗黒の、波に成る。




揺れる空間全体が、はち切れるほど歪んで、全てが幻に変わりました。
私の手が、脚が、髪が、頭が、ギザギザに刻まれ、分解され、空間へ散って行くようです。
『眼』という感覚器は、本来、一体、何処に在ると言うのでしょう。
___そう想えるほどの次元へ___。

認識が出来なければ、視覚など、最初から存在をしないような亜空間へ、私達は、飛ばされて行きます。
其れは、体中が粒子になったような感覚でした。

暗黒の波動と、私の身体が一つになって、流れていく感覚が、身体中を這いずり回ります。
観える景色に実体は在りません。
唯、全てが流れて行く。
亜空間の中では、事象が、総て、逆さまになって流れる。

私の手、私の足、未来へ向かって動いていたハズの身体、其れらが全て、過去へ向かって流れて行きました。
そして<私の存在>が、流れながら<多重の存在>へ、変わって行くのでした。


『クッ・・・!
ヒースさん・・・どうして・・・っ!』

『アンジェラ!』

『はあ、有難うございます・・・。
じゃなくて、あの、之は一対!?』


多重の存在となった、私とアンジェラが、光の神殿の廊下を、逆さまに歩いて行きました。
岩牢まで戻った私が、細い窓の傍まで、巻き戻って行きます。
アンジェラは、三下さんと共に、牢屋から離れて行く。


『何とか・・・窓から・・・外の様子を・・・』


ザッと、地底湖の傍で、軍隊が結集する景色が観えた時、更に、私の身体が多重になりました。
<分裂した私の存在>の<一人一人>が、どんどん、過去へと遡ってゆきます。

やがて、21歳だった私が、16歳になりました。
16歳だった、若い頃の私が、ナバール兵に向かって、槍を突き立てている、景色が観える。
其れは、ローラント城が陥落した夜です。
ナバール兵の返り血で、アマゾネスの鎧が、朱に染まる。
___私は<憎悪>に駆り立てられて居る。

16歳の私は、やがて、赤ちゃんになりました。
赤子を抱く母・ミネルヴァの顔が見えます。
周囲には、アルマ、ライザの姿も在りました。
私は、家族に囲まれ___とても<安心>して居る。

やがて、私の意識が途絶え、次に周囲を認識した時、私は、母・ミネルヴァの世界に居ました。
過去の時間を生きて居た母は、19年前の戦いの最中___<風の回廊>に居ます。
アルマが、捕まった母を庇い、かつてのナバールの指導者に向かって、吠えて居る。


『・・・オウルビークス、貴様!
今すぐ、ミネルヴァ様を放せッ!』

『・・・いいぞ、放してやる。
だが、物を得るには対価が必要だ。
アルマとやら、さて、どうする?』

『私の命を差し上げよう。
だから、ミネルヴァ様を___』

『貴様のような負け犬に、どれほどの価値が在ろうか。
己惚れるな、小娘。
此の女は、ローラントから逃げ出した、全ての難民の命と引き換えに、捕虜になったのだ。
ミネルヴァを解放して欲しいなら、全員まとめて、ナバールに連れて来い!』

『き、貴様___何処までも汚い手を___!』

『戦争に、綺麗も汚いも在るか。
戦争は、世界の意味を変え、人を変える。
一度、一線を越えてしまえば、もう元には戻らん___』


___そうして、ファ・ディールにおける、戦いの歴史が、繰り返されて行く、景色が観える。


翼ある者の父から、信託を受けたお父様が、<風の城壁>を、バトゥーク山で発見した瞬間。
ガルラのお婆様から引き継いだ宝石が、<風の城壁>を起動させた瞬間。
お父様が、一族を護る為、豊かな土地を得る為、城壁の梺に、ローラントを建国したと、宣言した瞬間。

一方、国境を越えた砂漠では、オアシスが、徐々に小さくなって行きます。
事態を憂いたナバールの首領、オウルビーグスの元へ、一艘の<空を飛ぶ船>が、やって来るのが観えました。
若きフレイムカーンは、其の技術に驚き、船の主に、何処から来たのかを問います。
船の主は『我々は<古の都・ペダン>から来た』と、二人に告げました。

<ペダンの技術>が在れば、<風の城壁>を打ち破り、ナバールが、隣国の資源を得る事も、夢では無い___。
飢えていく民を救いたいなら、ペダンと手を組み、大国を支配しよう。
古の都からやって来た使者が、ナバールを、戦へと誘う。

ペダンの技術を使い、ローラントの資源を___『ウバエ』。

資源を得る為に、水を得る為に、ペダンに誘われるまま、ローラントを、幾度も襲うナバール。
<風の城壁>が無ければ、ローラントは、猛攻撃には耐えられなかった事でしょう。
それほどに、<風の城壁>は強かった。



___其れは、殺し、奪い合う、世界の記憶。



暗黒の波動の中で、私が観た世界は、血に塗れて居ました。
やがて、ゆっくりと、周囲の景色が、闇へと溶けて行きます。
気が付くと私は、黒き波動の中を、<意識だけの存在>となって、漂って居ました。

其の時、遠くの方から、ヒースさんの声がしました。
其れは、重なり合い、響く祝詞のように、歪みながら、心の中へと響き渡る声___。


『リース王女。
私は、君が、ローラントの王女として決断する事を、祈っている・・・』


___そして___。


私の、揺らぐ視界が、突如途切れます。
今、叩き付けられるように、私の身体が地面を這いました。
身体に、質量が、物体としての肉体が___ゆっくりと戻って来る。

身体を取り戻した私が、這いつくばって居たのは、朝食を取って居た小部屋でした。
朝食が、暖かいままです。
クリスタルガラスのティカップからは、まだ湯気が立って居る。
私達が、鏡の中に飲まれてから、まだ、幾ばくも経って居ないかのようでした。

けれども、部屋の中には、もうヒースさんが居ません。
___アンジェラも居ません。

チ、チ、チ、と、秒針の刻まれる音が、狭い部屋の中で、静かに木霊してゆきます。
今、壁の柱時計が『午前7時』を指しました。
一周をした秒針が、12の数字を刺し、一分が経過して___。
時刻が『7時1分』になる。


(・・・どうして・・・。
何故、本当に時間が戻って居るの?!)


柱時計の、文字盤の下に、ウンディーネの像が立って居ました。
像の下には日付も刻まれて居る。
ファ・ディール歴、1005年、5月15日、ウンディーネの日。
現在の時刻は___『午前7時2分』。


(・・・そ、そんな。
遂さっきまで、私達は、此の部屋で、朝食を食べて居たはずです。
アンジェラが居て、ヒースさんが居て___。
・・・なのに、何故!)


アンジェラが、皮をむいていたはずフルーツが、籠に戻って居る。
ナイフとフォークが、食べる前に置かれた位置のままです。
しかも、触ると冷たい。

壁の柱時計は、黒の鏡では無く、もう、唯の時計に戻って居ました。
そして、時計の隣には、三下さんが運んだ、あの<紅き槍>が立て掛けて在る。
と言う事は『1005年、5月15日、午前7時』の時点に、私の身体だけが、戻っている事になります。
<多重の存在>になって<過去を巡った>後、<光の神殿の地下>に<私の肉体>だけが___戻った。


___此れは、一体___。


其の時、コンコンッ、とドアを叩く音がしました。
誰かが、小部屋のドアを叩いたからです。

・・・私は、恐る恐る、ドアを開きました。
すると、其処には・・・。

___歪んだ微笑の、ビルが立って居たのです。