リカイガデキナイ。


ザ、と流れる生暖かい風と。
鉛と、血と、汚物のような、香りと言葉が流れて行きます。
草を声の主が踏み分ける度に、周囲の闇が、深く濃くなる。
血の香りが、むせ返るほど、広がる。

声の主は、サラッと、長い髪をかき上げました。

今、葡萄酒よりも深い紅のネイルが、月明かりで輝きます。
ネットリとした、湿り気のある唇が、歪んみながら微笑んで居ました。
狂気を帯びた青い瞳が、慈愛さえ帯びながら、凄まじい殺気を放ちます。


「お前は・・・。
美獣!」

「・・・。
魔法、呪い、あらゆる力。
人は闇に無知だから。
幻だとは見破れない。
マナの女神が、闇を拒絶する限り、人間は、永遠に、呪いに対して盲目のままさ。
事実、お前には、私の言葉の一文字だって、理解が及ばないだろう?
ローラントの、お嬢ちャアアアン」




■ Rolling Cradle




___ズ


鈍くて深い音を立てながら、凄まじい闘気が、美獣から放たれます。
風が一面に吹きすさび、樹海の木々を揺らし、黒い鏡面のような水面に、波紋を起こしました。
そして、美獣は、消える。


「・・・!!」


次の瞬間に、私は、泉の端まで吹き飛ばされて居ました。
視界一面が、突然、夜空に変わります。
私の横腹に衝撃が走り、美獣の鋭い爪が、甲冑を、いとも簡単に、切り裂きました。


「___くっ!」

「ホホホッ。
油断は禁物だよッ?
・・・お嬢チャアン!」


再びミゾオチに激痛が走り、次は泉まで飛ばされます。
バシャッと、顔にかかる水が、まるで、ヘドロのよう。
髪と、顔に、生暖かく滴るソレが、私を支配するかのように、絡み始めました。
黒い水に身体が入った瞬間に、私は動けなくなります。
どんなに身体を起こそうとしても、黒い水で、濡れた身体が重くて、動けない。


「此れは、一体・・・」

「もの忘れが激しいのは、ナバールの坊やと同じだねエ、お姫様。
女神の使者も言っただろう。
此処は、幻惑のジャングル・・・<古代呪法>の世界だ。
ソイツは<闇の味>さ」

「・・・!
闇の・・・!」


ヤブレルモノナラ、ヤブッテゴラン?


耳元で囁かれたの美獣の言葉。
其れを、最後まで聴く事はなく、再び水に落とされる身体。
構えの無いまま沈んだ口には、大量の水が入る。
肺にまで、勢いよく入る闇が、私の息の根を止める。


「う!」

「フフフ・・・!
そのまま楽におなりよ、お嬢チャン。
そうすれば、坊やと同じ処へ行けるよ?」

「・・・美獣!
お前は、ホークアイの行先を知って居るのッ!?」

「ハ・・・。
知りたければ、そのまま落ちろ」


美獣が、再び、私の髪を掴みます。
何とか上げた顔、酸素を吸った口が、再び水へと落とされます。
___このままでは、死んでしまう!

今其処に迫る危機に、私の身体が、恐怖を覚えて、固くなる。
私は、渾身の力を振り絞り、顔が水面に浮かんだ瞬間を狙って、風を起こします。
美獣の目を狙って、つむじ風を叩きつける・・・ッ!


「こんな幻・・・私は敗けないッ!
美獣、お前は、お父様の敵。
・・・覚悟!」

「・・・チイッ、小賢しイッ。
風使いの小娘ガア!!」


一瞬<古代呪法>の支配が緩んだ隙を突いて、私は槍を払います。
槍を喰らい、水に落ちた美獣の上に、更に、切先を突き立てる。
ですが、バシャッ!と重い水を突きぬけ、ヘドロにのみ埋まる槍。
僅か数センチの所で、槍先を躱した美獣の腕が、柄をグッと掴みました。
今、美獣の爪が、異常に伸びて行く。


「お前如きに、私の魔獣の姿を晒すとはね。
だが、私は、我が主より、お前の生け捕りを命じられて居る。
ヒト型では、どうもやりずらい」

「・・・その姿は・・・。
やはり、お前は、魔族だったのですね!」

「フフ、言ったはずだよ?
私は<魔界の住人>だと!」


美獣の槍を掴んで居た腕が、総て、銀色の、柔らかな毛並みに覆われてゆきます。
形のいいルージュの唇は牙をむき、黄金色の髪は、タテガミに変わる。
目前には、女の形など何処にも無い。
代わりに獅子のような獣が、闇を舞う。


「お前も、魔獣になるがいい!
黒の貴公子様は、お嬢チャンもご所望だよ。
共に、我が主の、深い寵愛に預かるのだ・・・小娘!」

「クッ・・・美獣。
お前は、まだそんな事を。
・・・誰が貴方達の配下などにッ!」

「聖剣を抜き、神獣を倒したお前達など、本来は用済みの駒だ。
だが、黒の貴公子様は、其の功績を讃えて、お前達が軍門に下る事を許されたのだ。
実に有難いことさ。
現に、ナバールの坊やは、私達を選んだよ・・・?」

「・・・!?
ホークアイが・・・っ?
・・・あっ!」


___ナバールの坊やは___


美獣の言葉が囁かれた時、再び、黒き水の呪法が、私の足の自由を奪う。
このままでは、私は、もう一度、全身を呪いで支配されてしまう。
私は、まだ身体が自由になる内に、再び風を起こし、槍先に纏わせました。
頭上で棒術を使い、槍を回し、宙に飛んだ美獣に風を払う。
美獣が切先を爪で薙ぎ払うと、其の一瞬のみ、呪いが・・・解ける!


「何故抵抗する?!
お嬢チャアアンッ!!」


迫る美獣の一撃を、間一髪で避ける事が出来た。
ですが、もうこれだけで、私の息は上がり始める。
・・・次は無い。
其の時、突如、フと美獣の姿か小さくなり・・・。

ト!

今、軽い音を立てながら、子猫のような獣が、私の槍先へと乗ったのです。
満月を背負い、ニ・・・ッと鳴いた猫は、小さな顔を舐め始めました。
獣は鳴き、そして嗤う。
甘く絡みつくような声で、人語を操る。
トトト、と柄の上を走る子猫が、私の鼻先まで、やって来る!


「坊やは、賢い選択をしたんだ。
お嬢ちゃんも、坊やの事が好きなら___おいで」

「・・・!?
美獣っ、お前は一体、何を・・・?
・・・ク!」


次の瞬間、子猫の顔が、醜い嘲笑で歪みました。
其の爪が、私の目を狙って、再び跳ねる。
私は、咄嗟に身を屈め、再び水に落ちますが、同じ過ちは・・・繰り返しません!

そのままヘドロを足で蹴り上げ、風の力を借り、水から身を引く。
この泉にさえ、落ちなければ、勝てる。
私が、再び上がる息を堪え、槍を構えた時。


「させないよ!」


美獣の声と共に、大地から蔦が足に絡んで、私の身動きを封じました。
今、水面に浮かぶ美獣、獣が私を詰るように見つめて居る。
私は、せめて視線だけでも抗いながら、彼女の愚行を詰り返す。


「・・・美獣。
何故、貴女はこんな事をするのです!
ナバールを利用し、ローラントを貶めるだなどと・・・!
許される事ではありませんっ」


アストリアで、初めて、ホークアイから聴かされた名前___イザベラ。

私は、彼女と、何度も、祖国で直接あいまみえ、今再び、槍を交えて居る。
けれども、其の圧倒的な力の前に、私は、再び、膝を屈しています。
いつも私の心を読み、私の槍の軌道、其の全てを知るような、美獣。
私は、獣に読まれても。
私が、彼女を知る事は出来ません。
だから、せめて、問うのです。
・・・何故だと。
けれども彼女は嗤うばかり。


「・・・何故?
それは、自分の胸にでも、聴いてごらん?
お嬢チャンも、真の恋を知っているのなら___分かるさ」

「!!」

___そして、子猫は。


再び、黒い鏡面の上を跳び、回転するごとに、大きな獣に変わります。
満月の月明かりの中で、小さな子猫から、銀色の巨体と、金のタテガミを持つ、美しい獣に変わるのです。
一方で、私の足は、まだ・・・蔦に絡まれたまま。
・・・一歩も動けない!
もう、駄目・・・!


___其の時です。


パリン

何処からか、乾いた音が、響いたのは。

パリンパリンパリンパリン___

それは、まるで、鏡が幾つも、割れて行くような音でした。
最初は、唯、一つ、二つと、割れていただけの音。
其の音は、やがて、何重にも重なった演奏のように、鏡面のような水上に、響き渡ってゆく。
音が、大きくなればなるほど。
目前の空間そのものに、ヒビが入ってゆく。
______本当に、空間が、割れて行く。


「・・・?
誰だ。
何者かが<古代呪法>を破って居る・・・」


今、美獣が割れ目を振り返り、そして、一際、音が巨大になった瞬間。
ビッと空間そのものが裂け。
突如、巨大な城が、鏡上に姿を現したのです。
其れは、高く、何処までも高く聳える、黒と白の城でした。
輝く黒曜石と、白い大理石が重なり合う壁が、雲の上まで続いて、頂上さえ見えない。
満月よりも、まだ高い場所に、遥かソラの彼方まで続くかのような、巨大な宮殿が・・・。
・・・突如、現れたのです!


「何故・・・今、ミラージュ・パレスが」


城を見上げた瞬間、美獣は変化を解きました。
すぐにヒト型へと戻ります。
彼女は、小さく舌打ちをしてから、水面を蹴り、宙に跳びました。
美獣は、私を見下ろしながら、不敵に嗤います。


「運が良かったね、お嬢ちゃん。
たった今、お前などより、よほど大事な案件が出来たよ」

「・・・待ちなさい、美獣!
ホークアイを・・・。
お前達は、ホークアイを、どうしたと言うの!?」

「知りたければ、自分の足で、お城までおいで。
・・・本当に坊やが愛しいならね」


そして、美獣は、天高く聳え立つ城の高みへ、飛び上がりました。
人影が、雲の切れ目の彼方へ、小さくなって、消えて行きます。
私は、唯、見上げている事しか出来ません。
もう、足の蔦は、消えていたけれど___。


「待って・・・。
待ちなさい、美獣!」


今は、唯、闇の中へ。


私の声は、響いて消えるだけなのでした。