グニャリグニャリと、ぬめるように歪む時空。
其の中に浮かぶ城の中で、魔族の王が微笑んでいる。
漆黒の鎧と、銀の髪が、黒の濁流に吹かれて、美しく靡いていた。
今、其の碧眼が光る。
「ミラージュ・キャッスルは、マナの女神に仇名す者が集う座。
かつて、古代呪法の存在を知り、時空の狭間に辿り着いたのは、龍帝、そして、闇の神官達のみだ。
さあ、栄え在る此の座に、お前達も迎えてやったぞ。
今こそ、我が配下となるがいい。
・・・女神の僕達よ!」
「何度言われても、俺は貴様の軍門には下らんッ!
リースも、魔界に屈する気は無いッ」
「・・・ナバールの息子よ。
お前は、深く闇を知る身だろう。
それなのに、まだ女神に仕えるのか?
古代からの呪いと共に在る女神に」
其の時、黒の貴公子が聖剣を構えた。
切先から溢れる黒の波動が、俺達に脅威を与える。
ビリッと頬に触れる、空気の振動が痛いぐらいだ。
揺れと共に、黒の貴公子の声も揺れる。
両腕を開いた貴公子の、蒼の瞳が、更にスッと細まった。
俺は、リースを背後に庇いながら、黒の貴公子を睨みつける。
クナイを構えながら、ジリジリと後退をし、退路を探して居た。
___<古代呪法>を念頭に置きながら。
「・・・フッ。
古い時代からの呪いか。
ソイツは、ファ・ディールにゃあ、存在をするのだろうな。
お前が、ソイツを、駆使出来るんだからな。
だが、それだけ強大な術を使えるなら、お前には、俺達なんて駒は、必要が無いハズだ。
俺を雇っても、余計な労力が増えるだけだぜ?
俺は寝首をかくタイプだよ」
「・・・ククク・・・。
寝首をかく部下の方が、俺は面白い。
それに、お前のナバールも、面白い。
<現在のファ・ディール>で、戦を仕掛けるだけの動機を持つ組織___。
其れも、古の時代から、魔界と縁の深い集団は、ナバールしかない。
人間共が、争いを好めば好むほど、マナのエネルギーは黒く濁る。
我が<闇の力>を発揮する温床として、ナバールは、実に良い集団だ。
だが、ナバールだけでは、足りぬモノが在る。
其れは『資源』だ。
人間どもを飼うなら、エサが要るからな。
其の点では、隣国のローラントが、丁度良いのだ。
俺が世界を支配をした暁には、ローラントの豊富な資源を、ナバールにくれてやろう。
しかも、お前達は、建国時から争いの耐えぬ一族同士。
まとめて我が手に堕ちれば、世界の<闇>が、更に増大しよう・・・」
・・・。
そんな事の為に・・・。
魔界は、ナバールを!?
俺は、黒の貴公子の言葉を聴いて、胸の奥深くで、奴に対する怒りが増大しそうになる。
其の時、ズクン!と、焼ける痛みが心臓に走った。
目前の敵を、憎めば憎むほど、俺の<闇の力>も大きくなる。
溢れ出る闇を、無理に押し止めようとすれば、息が切れた。
額に・・・汗が・・・滲む・・・。
其の時、様子がおかしい事に気づいたリースが、俺の肩へと手を乗せた。
「ホークアイ、無理をしないで下さい。
黒の貴公子は、私が食い止めますから」
「!
リース独りで、一体どうすると言うんだ。
危ない事はよせ!」
「・・・大丈夫です。
私は<聖剣の勇者>なんですよ?
ホークアイっ。
聖剣さえ取り戻せば、女神様が力を貸して下さいます。
・・・だから、大丈夫です」
「ダメだ、リース!」
けれども、リースは、俺の声を気にも留めない。
スッと立ち上がり、黒の貴公子に向かって、槍を構えた。
其れは、見た事も無い槍だ。
赤黒くてゴツゴツして、リースが持つには、大き過ぎるような形をして居た。
リースの背中は、巨大な槍を掲げたまま、一歩も引こうとしない。
そして、普段の可愛い声からは想像もつかない、凛々しい声を上げた。
「私は、ローラントの第一王女、そして、アマゾネス軍のリーダー、リース!
黒の貴公子、貴方などに、世界を渡しはしません。
マナの女神に代って、お前を討伐します!」
■ Sacrifice Ⅱ
次の瞬間、俺に向かって振り向いた、リースの横顔。
俺にだけ見せる、弱気な表情・・・。
本当は、幼いままのリースが、其処には在った。
「・・・ホークアイ。
私が食い止めている間に、貴方は、きっと、逃げて下さいね。
私、ずっとこうして見たかったの。
ちゃんと、貴方の力になれる事」
幼い女の子に、そんな風に言われて、誰が逃げられると言うのだろう。
俺は、首を横に振った。
けれども、リースは、優しい微笑を浮かべた後、黒の貴公子と向き合う。
リースの足が、震えて居る。
リースにだって、解っているのだ。
どれほど状況が不利なのかは。
それでも、リースは、俺の為に、勇者を張ると言う。
一度決めたら、頑固な彼女に、折れる気配は微塵も無かった。
戦う意思を固めた少女の姿を見下しながら、黒の貴公子が嗤う。
「フン、愚かな女だ。
自らを捨て石にするか。
俺自らが、相手をするまでも無い。
美獣。
本来、駒を得るのは、お前に与えた役目だ。
・・・全うするがいい」
其の時、揺らめく時空の影から、女の影が現れた。
美獣イザベラだ。
美獣は、一体いつの間に、黒の貴公子の傍にはべったのだろう。
ごく自然に寄り添う姿は、遥か昔から、其処に居たように見えた。
黒の貴公子は、美獣の肩を抱きながら、彼女に指令を下した。
「長らく、光の波動が、俺の邪魔をして居る。
どうやら、最期の始末をつける時が来たようだ。
俺は、此れより、マナの聖域へと出向く。
そして、今度こそ、女神の息の根を止めてみせよう。
美獣。
お前は、計画通り、女神の僕を捕縛するのだ。
捕まえた後に、古代呪法にて、魂を抜き取る事が出来れば、其れで良い。
忠誠は不要だ。
身体も要らぬ。
・・・もう、好きに刻め」
「有難うございます。
後の事は、お任せ下さい、殿下。
必ずや、女神の僕を、黒の貴公子様の御前に献上致しましょう。
黒の貴公子様は、マナの女神を打ち取って下さい。
___どうか、くれぐれもご無事で」
「当然だ。
褒美は、床の中でくれてやろうぞ!」
黒の貴公子は、美獣から目を離し、時空の暗闇に向き合った。
同時に、美獣が跪くのを止め、立ち上がる。
美獣は、リースの前に立ち塞がる。
其の瞬間に、鋭い音と共に、指先が巨大な爪と化して行った。
真紅のネイルが、鮮血のように輝きながら、指先から滴るようだ。
爪先を、ネットリと舐め上げながら、美獣が微笑む。
其の時、ドウと音がして、空間全体が大きく揺れた。
黒の貴公子の巨大な邪気が、遠ざかって行く。
今、美獣が、牙を向いた。
「・・・サアアア・・・お嬢ちゃアアアん・・・。
______行くよ!」
真紅の爪が空間を裂く。
閃光が、孤を描きながら、風を孕んだ。
ビュッと重い音を乗せ、カギ爪が、リースの脚を掻きむしらんと迫る。
リーチの長い槍は、重圧の中で、爪の動きを防ぐだけで精一杯だ。
「フフフ・・・アーッハッハッハ!
どうしたどうしたアッ!!
・・・?
アラ、こざかしい真似をするわね、ぼうや」
だが、美獣の爪の軌道は、俺のクナイに阻まれる。
俺が、溢れる闇の力に任せて、クナイを投げて居たからだ。
ガアブの下で、クナイは無限に造られてゆく。
俺が、殺意を抱けば抱くほど、ガアブは<闇>に応えた。
「ホホホ・・・ホークアイ。
随分と短い間に<闇>の腕を上げたねえ?
フフフ、とっても上手・・・。
___思わず声が漏れそうだ!」
「お前の相手は私です、美獣ッ!」
其の時、リースの槍が唸る。
ギャンッと、槍先とカギ爪が絡み合い、響き逢う音が、時空の暗闇へ木霊した。
俺は・・・。
此処まで戦い抜くリースを、初めて見た。
ずっと、か弱い女の子だと想っていたのに。
ジェシカと同じように・・・。
「棒術ならば、誰にも負けませんッ。
お前などに破れ去る、母・ミネルヴァの槍ではありません!
風の力を思い知りなさい・・・獣!」
ふわっと風が凪ぎ、リースを優しく纏う。
リースが頭上で槍を回した瞬間、柔らかな風が唸りを上げて、槍先へと絡んだ。
風と槍の力が合わさる鋒が、美獣を差し貫かんと迫る。
けれども、矛先は、虚しく空を切った。
美獣は消える。
___音も無く。
「馬鹿な娘だ・・・。
聖剣の無いお前に、何が出来る・・・」
今、美獣の姿が変わって行く。
其の姿が、徐々に、タテガミを持った獅子のようになってゆく。
一見、猫のようにも見える。
だが、可愛げなどは何処にも無い。
其処に在るのは、殺気のみの獣。
噛み付いて、骨までしゃぶりたい、野性のままの衝動が、リースに迫る。
「おのれ、野蛮な獣め・・・!
お前達、闇の魔物の居場所など、ファ・ディールには、存在しないのですッ!
マナの女神の意思に従い、滅びなさい!」
それでも、リースは強い。
奪還戦で垣間見た、ライザと同等の槍が、美獣の爪を弾いた。
「お前達は、魔界の為だけに、ナバールとローラントを、戦争に追いやった!
絶対に許せない・・・っ。
そして、美獣。
お前は、私の弟を何処にやったのです?
エリオットを返しなさい!」
「アハハッ。
相変わらず、威勢だけはいいね、お嬢ちゃん。
あのボンクラなら、黒の貴公子様のお側だよ。
おツムはともかく、身体が美しいからね。
だから、お前の弟は、貴公子様の、次のお体となるのだ。
私の愛する、黒の貴公子様の、器と成るのだ___」
「何ですって?
・・・そんな事、させない!」
ギャンッ、ギャンッと、槍と爪が交差しながら、音を放ち、閃光を放った。
リースの槍と風が唸り、美獣の爪を受け止め続ける。
美獣は顔色一つ変えず、槍に片爪を防がれたなら、間髪入れずに、次の爪を繰り出して行った。
防戦一方の、リースの息が切れ始める。
俺は、もう一度クナイを投げて、リースを助けたいと願った。
だが。
俺が『クナイを構えたい』と願えば、それだけ<闇の力>が増える。
いつか制御が効かなくなる、暴力的な衝動が、胸の内を占めてしまう。
其の時、俺はもう、自分が自分でなくなるのだろう。
___仲間を殺したくなるかもしれない___。
「絶対にさせません!
エリオットの身体を、魔王のモノにするなんて・・・!」
リースの声が、闇の衝動の向こう側で、響いて居る。
清らかな少女の声が、正義を、高らかに叫んで居る。
「汚らわしい、お前達魔族などに、ローラントは渡さない!
私の王国は、人間のものなのです!
マナの女神様と、人間の元へ、ファ・ディール返しなさいッ。
美獣ッ」
___魔族は汚い。
___魔王は汚い。
俺は、今、自らの内で、高まる闇の衝動に、魔界の力を感じて居る。
恐ろしいほどの殺戮衝動に、身を焦がして居る。
此れが<魔の力><闇の力>なら、確かに汚物だ。
相手が、自らの大切な者であろうと、刃を向けたくなる衝動なのだから。
けれども、<闇の力>を、俺と同じように、体内に持つはずの美獣。
彼女の爪先には、淀みが無い。
確実に、リースだけを、狙い続ける。
「汚らわしい魔物とは、一体、どちらだろうね!」
リースの足、リースの耳、リースの腹へ、爪を落とし続ける。
「・・・私か。
それとも、お前か・・・!」
今、ジャリッと、肌を抉る音がして、リースの右腕を裂いた。
体力の消耗が激しい上に、傷を負ったリースは、片膝をついた。
上がる息と肩が、限界を示して居る。
リースの細い身体には、似つかわしくない巨大な槍が、床に落ちた。
「人間が良き物で、魔族が悪しき物と、一体、誰が決めたというのだ、お嬢ちゃん。
・・・魔族も、生き物。
お前達人間と、何も変わらないだろう。
むしろ、人間こそが、魔族を生んでいると言っていい。
お前達が争いをすれば、それだけ<闇の力>が増大するのだから」
「・・・其れならば。
聖剣の勇者が、お前達を討伐するのみです。
マナの女神の名の元に。
其れで、闇の時代は終わる!」
「私が知って居るだけでも、これが、3度目の戦争だ。
闇の温床は、争う人間達の、生き方の中にこそ在るのさ。
お前達人間は、魔族の手など借りずとも、勝手に<闇>を生み出してくれる。
国と言う領土を守る為に、奪う事を厭わない種族。
人間と魔族は、いわば、卵と鶏の関係だ。
<闇>という卵を産む鶏、其れが、人間」
「・・・もう、黙りなさい。
獣の分際で・・・。
・・・ウッ」
美獣の爪に裂かれた腕を抑えながら、リースが項垂れる。
痛みに負けて、立つ事も難しくなって行く。
はあっと、上がる息の向こう側で、劣勢を悟った、リースの瞳が歪んだ。
美しく、そして、残酷に。
「私の意思が、マナの女神様の、ご意思なのです。
ファ・ディールに、魔物は不要。
闇は、汚物なのです。
例え、人間が闇の温床であろうとも、ファ・ディールには、マナの女神様がいらして下さる。
マナの女神様が、人間を守って下さる。
・・・私は、お前達には、負けません。
聖剣がなくたって、私には<心>が在る!
<希望>と言う名の、強い<心>が・・・!」
______其の時。
リースの額が、銀色に染まった。
光輝く女神の力が、リースの心から溢れてゆく。
其の光は、リースの槍を包んで、黄金色に染め上げて行った。
血塗られた巨大な槍は、形こそ違っても、まるで、聖なる剣のようだ。
魔物を屠る矛先が、光に染まる。
一方で、俺の心は、深い闇に染まって行った。
溢れ出る汚物が、心を掴んで離さなかった。
左胸の奥で、心臓が、ドクンドクンと鼓動を放ち続けて居る。
其の度に、呼吸が苦しくなって、視界の総てが涙で滲み、歪んだ。
苦しくて苦しくて、たまらない汚物、<闇>が、俺を包んで行く。
闇の力が増大すると、リースの放つ光さえ、赤黒く見えた。
俺の心が、汚いせいなのか。
きっと、そうなのだろう。
ファ・ディールでは、許されない感情だ。
仲間を殺したくなるほどの、憎悪は。
けれども、それならば、美獣は・・・。
イザベラは・・・。
かつて、俺達<人間>の<仲間>じゃ、無かったのか。
其の時、赤黒く歪んだ視界が、ピインと張り詰めて、まるで、鏡のようになった。
漆黒の鏡面が、美獣イザベラを映して居る。
リースと対峙している美獣、其の姿が、リースと同じくらいの年頃に見えた。
16歳のイザベラだ。
『___あの人が、私の総て___』
少女のイザベラは、鏡の中で、鎖に繋がれて居た。
身体中、傷だらけで、骨と皮のようだった。
それでも、瞳は綺麗なままだ。
憧れに満ちた眼差しが、差し出された手の先を、静かに見つめて居る。
少女の手を取る、もう一つの手も、子供のように小さい。
其の腕を、漆黒の篭手が包んで居た。
イザベラを誘う、子供の手が、鎖に繋がれた少女に向かって、告げる。
『奴隷女よ。
俺と共に来るがいい。
いつまでも、光の城の鎖に、縛られている必要は無い。
俺と、魔界へ下るのだ。
お前が功を立てた暁には、俺が、貴様を将にしてやろう。
そうして、お前を虐げた者達に、魔界と、闇の力を示すのだ』
『・・・私は、人間ではなくなるの?』
『魔物は、人間より、心安いぞ。
もう、ヒトのフリをせずともいい。
生命本来の在り方に戻れる。
魔物より、罪深い身で在りながら、偽善を装う人間より、遥かに潔い生き方と言えよう?
魔族としての生を享受せよ。
光の奴隷、イザベラよ』
チャリッと錠の外れる音がして、イザベラの鎖が、あっけなく外れた。
自由を手にしたイザベラから、笑顔が零れる。
そして、少女は、少女の尊厳を守った手に、口づけを落とした。
其の姿からは、もう、飢える事も虐げられる事も無い、安堵の心が伝わる。
救い主を、敬う気持ちが響いて来る。
例え、救いの手が、魔界の物であっても。
イザベラは、自由だった。
鏡は、イザベラの生涯を映し出す。
黒の貴公子に助けられ、魔界で闇の力を習得し、やがて、将となるまでの、短い時を。
それは、深い絶望に捕らわれた、黒の貴公子の心を開きたいと、切に願い続ける時間だった。
其の姿は、魔物と化していても。
心は、人のままだった。
俺の<闇の力>が<イザベラの真実>を映し出す。
イザベラの心の真実。
<記憶>を___。
______其の時。
「マナの女神よ、私に力を___!」
リースの声が響いて、漆黒の鏡面が消えた。
今此処では、リースと美獣が対峙をして居る。
少女の姿では無い、獅子の形をした美獣が、リースの放つ光に押されて居た。
リースは、今、<殺そう>として居る。
かつてはヒトだった生き物を。
「薄汚い獣よ。
女神の元に、散りなさい!
父の仇・・・。
______覚悟ッ!!」
女神の槍先が、美獣の、柔らかな毛並みを、今、貫く。
断末魔の悲鳴と共に、世界が光で溢れる。
眩しいほどの白一色に染め上がり、金と銀の光に、包まれてゆく。
炎のように燃え上がる、聖なる光が、一匹の魔物を、消し炭にして行った。
イザベラの記憶も、想いも、浄化の光で、総て___。
潰されて行った。

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