文化遺産の内容 奈良県の西部、斑鳩の里の法隆寺地域には世界最古の木造建築が数多く残っている。7世紀に法隆寺・法起寺ほかの仏教寺院が造営され、これらの寺院では現在も宗教活動が続けられている。 仏教は中国から朝鮮半島を経由して6世紀中頃に日本に伝わった。7世紀、天皇の皇子・摂政であった聖徳太子が法隆寺・中宮寺を建立し、また、天皇一族により、太子の病気平癒を祈って法輪寺が、さらに太子の没後、その宮跡に法起寺が建てられた。 当初の法隆寺は670年に焼失し、その遺構は現在の法隆寺境内の地下に若草伽藍跡として残っている。寺は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、場所を変更して、再建される。それが現存する法隆寺西院である。その建造物のうち、講堂が925年に焼失するが、990年に再建される。西院と並んで現在の法隆寺の中枢部を構成している東院は、8世紀前半に聖徳太子の斑鳩宮跡に太子の霊を祀るために建設された伽藍である。 法隆寺には西院と東院のほかにいくつかの子院がある。僧侶は古くは講堂周辺にある僧坊で共同で生活していたが、11世紀ごろから高僧とその弟子たちの集団がそれぞれ宗教活動を行う小寺院を設立し、そこで生活するようになる。それが子院である。いま法隆寺に残る子院の建造物の多くは16~17世紀にかけて建設されたものであり,そのころ、西院・東院とあわせて、ほぼ今日に見る法隆寺全体の構えができあがった。 法隆寺は、古くは鎮護国家の寺として天皇家の保護を受け、さらに、12世紀ごろからは広く一般庶民の問に聖徳太子を尊崇する信仰がひろまり、太子創建の寺として多くの信者を集めて繁栄してきた。1868年の明治維新後、神道を重んじ、仏教を排斥する思想が尊重される流れの中で、法隆寺も一時衰えたが、新政府の保護等により往時の姿を取り戻した。広い境内は、修学旅行生はじめ内外の観光客でいつも賑わっている。 法起寺は、聖徳太子の遺命によって、その宮であった岡本宮跡に、その子の山背大兄王が7世紀に建立したと伝わっている。しかし、16世紀末、兵乱によって焼失し、今は三重塔が残るだけとなっている。 参考資料:国指定文化財等DB(文化庁) 2023-6-19 |
世界文化遺産-法隆寺地域の仏教建造物- |