番号・名称 年 代   構造等
045 大徳寺寝堂 寛永7年(1630) 桁行二間、梁間三間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺
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特徴等
京都市内紫野に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、宗峰妙超 (しゅうほうみょうちょう) が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇から船岡の雲林院の跡地を寄進されたことによって寺基を拡張し、大徳寺として開山した。応仁の乱によって伽藍は一時荒廃したが、文明6年(1474)、一休宗純が入寺して復興に当たった。貴族階級、戦国大名、新興商人等の帰依により、特に茶道の流行がめざましく、禅界において独自の地位を占めてきた。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために総見院を建立、戦国武将の塔頭建立が相次いだ。大徳寺には、現在24の塔頭がある。
寝堂 (しんどう) は、桁行二間、梁間三間、切妻造、檜皮葺の建物で、法堂と方丈の間に南北棟として建っている。寛永7年(1630)、長州藩の家老・益田元祥 (ますだもとなが) により再建され、応接間として使われた。
参考資料:大徳寺大慈院HP/国指定文化財等DB(文化庁)
2022-12-11
       
       
       
       
大徳寺寝堂 (撮影:2023-2)
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