番号・名称 年 代   構造等
038 大徳寺山門

下層 大永5年(1525)
上層 天正17年(1589)

五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、両山廊付 山廊 各桁行二間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺
特徴等
京都市内紫野に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、宗峰妙超 (しゅうほうみょうちょう) が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇から船岡の雲林院の跡地を寄進されたことによって寺基を拡張し、大徳寺として開山した。応仁の乱によって伽藍は一時荒廃したが、文明6年(1474)、一休宗純が入寺して復興に当たった。貴族階級、戦国大名、新興商人等の帰依により、特に茶道の流行がめざましく、禅界において独自の地位を占めてきた。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために総見院を建立、戦国武将の塔頭建立が相次ぎ、現在24の塔頭がある。
山門は、大永6年(1526)連歌師宗長により一階部分が建造され、天正17年(1589)千利休により二階建に増築された。この時、千利休が二階に自らの雪見の木像を置いたことが秀吉の怒りに触れ、ついに切腹の原因になったといわれている。
参考資料:大徳寺大慈院HP/国指定文化財等DB(文化庁)
2022-12-11
大徳寺山門 (撮影:2023-2)
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大徳寺山門 (撮影:2023-2) 大徳寺山門 (撮影:2023-2)
       
       
       
       
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