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 <グローバリゼーション(グローバル化)>という言葉は、冷戦構造の崩壊以降の現代社会のあり方を分析する切り口として頻繁に使われますが、その言葉で何を指すのかという点は論者によってさまざまです。ここでは、まずグローバリゼーションをめぐる代表的な議論を紹介し、それらに通底する問題系として(広い意味での)「身体」を考えます。そして、その問題意識を<身体のテクノロジー>として少し掘り下げてみましょう。

 いまグローバリゼーションに関して一番議論されているのは、その経済的側面です。市場原理を徹底させることは技術革新を加速し、豊かな社会を生み出すと、現在の経済的グローバリゼーションの推進者達は主張しています。この十数年での国際的為替取引の自由化の結果、そこにつぎ込まれる資金は一日一兆ドルを超え、国際的資本取引の規模も範囲も拡大しました。日本でも、とくに九〇年代以降、規制緩和と民営化に向けた流れが押し進められつつあります。しかし、経済的グローバリゼーションは、インターネットなどの情報産業における技術革新を通じて私たち(情報強者だけともいえそうですが)の生活を豊かにしてくれた反面、世界規模での貧富の差を拡大したことも明らかです(こうした負の側面については、9・11テロ事件の後にメディアの中で流通することが急に多くなりました。しかし、この点ははっきりさせておかなければなりませんが、事件を起こしたとされているのは、グローバリゼーションを真摯に批判してきた人々ではなく、アフガニスタンでのソ連軍侵攻に対抗するゲリラとしてアメリカによって育てられた人々でした)。一方、このようなグローバリゼーションの現状を批判して、トランスナショナル企業や世界貿易機関(WTO)主導ではないグローバリゼーションの可能性を求める運動が草の根レベルでわき起こっています。

 また、経済とは区別される独自の領域として文化の面でのグローバリゼーションを重視する考え方もあります。たとえば、アメリカ型の画一的な消費文化が世界的に拡大(マクドナルド化、ディズニー化)するのと同時的に、ローカルにはそれに対するある種の対抗として、特定の宗教的あるいはエスニックなアイデンティティを絶対視する潮流が力を持ち始めるという現象があります。ムスリム社会を中心とした「イスラム原理主義」やヨーロッパでの極右勢力の台頭はこの一例です。しかし、グローバルにヒトやモノがかつてない規模で移動し、グローバルメディアによって情報が瞬時に共有されるなかでは、文化は折衷主義的で異種混交な多元的文化とならざるを得ません。そうした状況の下では、文化を実体的な不変のものとしてとらえる本質主義的見方は原理主義や排外主義につながりかねないとして批判されています。商業主義的な画一化と排外主義的な原理主義とは、グローバリゼーションのマイナス面を表す表裏一体の双子のようなものなのです。これに対して、カルチュラル・スタディーズのなかでは、画一主義的にもならず自民族中心主義的にもならないエスニシティー(民族性)の可能性が議論されています。

 さて、この二つの視点はどう関係しているのでしょうか。その答えはしばしば、経済的グローバリゼーションが文化を支配の道具として利用しているのか、それとも経済現象に還元できない独自の文化的領域でのグローバリゼーションを研究対象とすることができるのか、という不毛な二項対立として語られていました。しかし、私たちは、グローバリゼーションのなかでの「身体」という問題設定を考えることで、この経済か文化かという二分法に陥る危険から免れることができるのではないかと考えています(ただし、ここでいう「身体」というのは、人間の個人的身体と同時に、多数の人々全体をも集合的身体と考えるという広い意味です)。

 たとえば、経済的グローバリゼーションのなかで、ほとんど瞬間的に行われる資本や生産拠点の移動は、投資家にとっては配当を増加させる手段にすぎないことですが、労働力としてそこに組み込まれていた身体にとってはリストラされるかどうかという死活に関わる問題です。また、文化が単に抽象的な価値観やルールに還元されるものではなく、身体の次元での慣習的行為に基礎を持っていることは人類学者や社会学者によって指摘されてきました。ですから、経済と文化の両方の物質的基礎となっている身体というポイントに注目することで、グローバリゼーションの重層性を理解する道が開けてくるのではないでしょうか?

 さて、最初に、ただ身体というのではなく、身体のテクノロジーという耳慣れない言葉を使いました。でも、これは別にクローン人間や臓器移植のような先端的な医療テクノロジーを念頭に置いているわけではありません。むしろ、そうした先端医療の前提となってそれを支えているような身体の社会的管理を可能としている制度を意味しています。つまり、身体というモノがもともと存在してそこにテクノロジーが介入するという考え方ではなく、テクノロジーによって社会的に構築された身体が関係性としてのみ存在すると考えているわけです。たとえば、臓器移植という医療実践は、単に先端的医療テクノロジーだけによって可能となるわけではありません。まず、人間の身体は臓器の集合であって、それの部品を取り替えても構わない(人間機械論)という医学思想での変化が必要でした。たとえば、「気」を重視する中国医学では臓器の取り替えという発想は決してうまれません。では、こうした近代西洋医学思想が普及して、先端医療テクノロジーとして外科的手術法や免疫抑制剤が開発されれば、それで十分なのでしょうか。そうではありません。重度脳障害(「脳死」)患者がいても、臓器資源として使用する社会的仕組み(全国的な救急医療制度)がなければ臓器移植は実際には不可能であり、「フランケンシュタインの怪物」のように墓場あさりが必要ということになりかねません。また、医学思想での変化だけでなく、重度脳障害である「脳死」を人間の死として宣伝するバイオエシックス学者や知識人も、実際に臓器提供者となり得る人たちに臓器移植を支持させるためには必要です。つまり、ここで身体のテクノロジーと呼んでいるのは、個人的身体や社会的身体をいかに扱うかという広い意味での社会的制度のあり方のことなのです。

 この意味での身体のテクノロジーの中核にあるのは医療・福祉サービスであり、それを支えている枠組みは、先進諸国では「福祉国家」というシステムと考えられます。最近、こうした福祉国家システムの起源が二〇世紀の二つの世界戦争の際の総力戦・総動員体制にあったのではないかという指摘が注目されています。これは「総力戦体制論」と呼ばれる議論ですが、日本の福祉国家と総力戦体制との関連については以前に論じたのでここでは省略します(拙著「軍国主義時代――福祉国家の起源」、佐藤純一、黒田浩一郎編『医療神話の社会学』世界思想社、一九九八年)。ただ、グローバリゼーションのなかでは、総力戦体制であれ、福祉国家であれ、従来の一国家レベルでの枠組みが有効ではなくなりつつあると考えられるでしょう。

 さて、身体のテクノロジーに生じつつある変化を象徴するようなできごとが最近ありました。それは、日本での集団健康診断でのデータが当初の目的以外の医学研究用に流用されていたのが問題化したことです。その際に議論されたのは、血液などから得られる遺伝情報によって、何らかの疾患を今後発病する可能性があると判断された場合、どう医療機関側が対応するのかという倫理的問題でした。本人の事前の説明を理解した上での同意(インフォームド・コンセント)なしに個人の身体の一部(血液など)や個人情報が流用されるのは、それが善用であれ悪用であれ、プライバシー権の侵害となることは明らかです 。しかし、こうした情報は顔を持った個々人の情報としてではなく、無記名の大量の個人性を失ったデータの集積として分析されて初めて、(研究者にとって)有用なものとなることもまた事実です。つまり、一滴の血液は、物質としてはある生きた個人のかけがえない身体の一部ですが、情報としては、(ある特定の病気と関係したり、特定の機能を持ったりする)ヒト遺伝子の情報を担うサンプルの一例に過ぎないのです。この問題にあらわれているのは、身体を物質として扱うか情報として扱うかの二つのテクノロジーの間の相克なのではないでしょうか。そこで、この二つの身体のテクノロジーの違いを少し考えてみます。

 まず、従来の身体のテクノロジーは、物質としての身体を管理することが目標でした。そのために、具体的には、個人を病院などの施設に収容すること(入院、入所など)が重視されていました。これに対して、情報としての身体のテクノロジーでは、電子カルテのようなサイバースペースに登録された情報こそが管理対象となると考えられるでしょう。たとえば、最近導入された介護保険制度でも、同様の変化をみることができます。病院への長期入院(社会的入院と呼ばれます)は否定されて在宅ケアや介護が重視されると同時に、要介護判定に関してはコンピューター化された情報の分析が導入されているからです。判定が、医療者による直接的(身体的)診察にもとづく臨床的判断ではなく、ケアマネージャーによる各種個人情報のファイル化に基づいて行われることは、身体のテクノロジーの違いを反映しているように思えます。

 また、情報としての身体のテクノロジーが姿を現し始めたのと同じ時期に、従来型の(物質としての)身体のテクノロジーの極限ともいい得るハンセン病患者に対する強制収容制度が、曲がりなりにも国家によって自己批判されたことは象徴的なことです。皮肉な言い方をすれば、それは人権意識の進歩というよりも、身体のテクノロジーの新旧交代を映し出しているだけなのかも知れません。ポストモダン思想でよく哲学的、文学的に主張された「人間の死」や「主体の消失」もこうした具体的事態と相関している側面がありそうです。

 物質としての身体のテクノロジーは、ローカルな国家(福祉国家)によって担われていました。しかし、情報としての身体に関しては、グローバルに集積してデータベース化することが可能となりつつあります(ヒトゲノム計画はそうした試みの一つです)。こうして得られた情報は、しばしば特許化され、その排他的独占権は知的財産権の国際的保護をうたうWTO(世界貿易機関)協定の一つTRIPS(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)で守られているために、一国家のレベルではコントロールできない状態になりつつあります。こうした状況を考えれば、短絡的に「反グローバリズム」を主張して、従来の福祉国家的モデルをセーフティーネットとして再構築することが解決になるという主張は非現実的とも思えます。

 ここでは、グローバリゼーションをめぐる議論の重層性を、身体のテクノロジーという対角線的次元(カイヨワ)にそってたどってみました。未来予測めいた結論も、威勢のいい行動提起もありませんが、ただグローバリゼーションという「世界をさまよう新たな妖怪」の問題性を考える一つの手がかりとしてもらいたいと思います。
 なお、本稿での問題意識をリスク社会論中心に展開した拙稿「身体のテクノロジーとリスク管理」は、『グローバリゼーションスタティーズ 総力戦体制からグローバリゼーションへ』(平凡社、2003年)に収録されています。

註:評論紙「La Vue」11号(2002年09月01日発行)掲載にしたものに、一部加筆。


★プロフィール★
美馬達哉(みま・たつや)1966生まれ。京都大学医学部助教(高次脳機能総合研究センター)。専攻領域:医療社会学、医療人類学、グローバリゼーション研究、大脳生理学など。主要業績:「病院」(黒田浩一郎編『現代医療の社会学』世界思想社、一九九五年)、「「脳死」と臓器移植」(佐藤純一、黒田浩一郎編『医療神話の社会学』世界思想社、一九九八年)、最新刊として『〈病〉のスペクタル――生権力の政治学』(人文書院、2007年)ほか。

Web評論誌「コーラ」03号(2007.12.15)掲載
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