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1. はじめに

 フェミニスト調査法の研究者であるラインハルツは、オーラルに基づくテクストを生み出すことの意義は、「知られていない特定の個人(あるいはグループ)の声に含まれている不正義を正すこと」(1)にあるとしている。また、「オーラル・ヒストリーは彼女、あるいは彼女たちの声を含まない、バイアスのかかった歴史観を正す」(2)ものであるという。言うまでもないが、「女性の声」はけっして一枚岩なものではない。一人一人の女性の語りは、その個人に帰属する経験に基づいている以上、個々の女性たちの「声」を単純に総体化することは、そのなかに含まれる「差異」、あるいはそれらのさまざまな「差異」と密接に関係する差別の構造を不可視なものへと変えていく暴力につながり得る危険性をともなっている(3)。これらの問題を考慮した上で、女性史の研究者である平井和子は、スピヴァックに依拠しながら、「戦略的に女性の体験や歴史に意味を与えていくことを強調する時期にある」(4)のは、「歴史のなかで女性たちは存在しないかのように扱われ、その声は聞き取られないままきた」(5)からであると述べている。
 本稿では、イスラエルの占領下にあるヨルダン川西岸地区ナーブルス近郊のバラータ難民キャンプに住む一人のパレスチナ女性ハリメ・ティティとその息子の一人オマール・ティティによって語られた母の物語に着目しながら、パレスチナで起きてきた数々の歴史的な「不正義」の一端を描きだしていく。それはまた、パレスチナ難民の発生から約60年を経た現在にいたるまで、何一つ正されることなく継続してきた暴力の暴力性をオーラル・ヒストリーの手法によって問題化しようとする試みでもある。
 彼女の物語が、追放と占領を経験してきた数多くのパレスチナ人全体を代表する、あるいは表象するものではないことは自明のことである。しかしながら、あえて彼女の経験のいくつかをここで紹介するのは、パレスチナにおける不正義が、一人の人生をかくも大きく変えるものとして存在し続けてきたこと、また、それらのことを経験した当事者である彼女やその家族が、そこから発生した痛みや苦しみを過去から現在にいたるまでの生活のなかで感じてきたさまざまな感情――そこには日常生活における笑いや喜びも当然含まれているのだが――と切り離すことができない生活を送ってきたことを深く洞察していくうえで、歴史を語る声の一つとして聞きとられるべきものだと考えるからである。
 私は、ハリメの末息子であるジハード・ティティが自爆攻撃という形で人生を終わりにした2002年に、4ヵ月間、彼女の家で生活をともにしたことがある。その間に、彼女がレバノンで育ったということ、そこで多数の親族を亡くしたことを彼女や彼女の娘との会話を通して耳にした。また2004年に息子であるオマールにイギリスで再会したとき、彼の母が息子の自爆攻撃を知り得るまでの物語を語ってもらった。2005年にバラータ難民キャンプのティティ家を再訪した私は、3年ぶりに再会したハリメから、故郷を追放されてレバノンに向かうまで、および、避難先のレバノンの難民キャンプで両親や兄弟姉妹を亡くすまでの物語を再び教えてもらうことができた。以下では、一方的な聞き手であった私がリ・ライトすることで紡いだ、これらのストーリーを紹介していく。

2. パスポートに刻まれた誕生日:1949年1月1日

 1947年11月29日に国連総会でパレスチナ分割決議(国連総会決議181号)が採択され、イギリスの委任統治下にあったパレスチナを、1)アラブ人国家、2)ユダヤ人国家、3)国際管理地区に分割することが決まった。この決議を受け、シオニスト軍はユダヤ人国家に割り当てられた地域のみならず、その支配領域を広げるために、パレスチナ人の一掃を目的とする軍事作戦「ダーレット計画」に着手した。
 ハリメは、1948年にハイファ市出身の家族がシリア経由でレバノンに避難している最中に生を受けた。「どの街あるいは村で生まれたのか、また誕生の日がいつであったのか。これらの正確な情報は家族から聞いていないのよ」と言いながら立ちあがった彼女は、寝室に向かった。再び居間に戻ってきた彼女は、パレスチナ自治政府が発給したパスポートを手にしていた。そのパスポートに記された生年月日と生誕地は、「1949年1月1日」「レバノン」となっていた。「サウジアラビアのメッカに行くために、パスポートを取得したの。申請時に誕生日が分からなかったから、自治政府の役人が1949年1月1日と書いたのよ」というハリメの横で、娘の一人ウィダットが「1月1日が母の誕生日だなんて。おもしろいでしょ」と笑った。
 レバノンに到着したハリメの家族はアンジャー村を経て、南部のティール市近郊のブルジ・アル・シャマル難民キャンプで生活を始めた。避難当時、1歳にも満たない赤ちゃんであったハリメはそこに来るまでの記憶を有していない。成長の過程で家族から聞いた話をまとめると、避難経路は前述のようになるという。ここで幼少時を過ごした後に、彼女はヨルダン川西岸地区のバラータ難民キャンプに住む従兄イブラヒム・ティティと結婚し、レバノンをあとにした。それ以降、現在にいたるまで、彼女はバラータ難民キャンプで暮らしている。
 オマールによるとティティ家は元来よりハイファ市で都市生活を送るパレスチナの大家族の一つであったという。過去に一族のなかで何らかのいさかいが起き二つに分かれ、イスラエルの建国の過程で双方とも故郷を追われた。一方はヘブロンに向かい、もう一方はレバノン、ヨルダン、バラータ難民キャンプで難民生活を送っている。後者がハリメやオマールの一族である。ジハードが2002年に自爆攻撃者となったとき、へブロンに住む一族の一人が悔やみの言葉を伝えるために、ハリメ一家を訪ねてきた。彼は「自爆攻撃者の姓がティティであることを知り、昔別れた一族の一人に違いないと思った」という。
 国連パレスチナ分割決議から1949年の第一次中東戦争の停戦までに、故郷を放逐されたパレスチナ人の数は70万以上にもおよぶ。ハリメやハリメの家族、イブラヒムとその家族、を含むティティ家の一族、あるいはヘブロンに住むもう一つのティティ家の一族は、パレスチナ人がナクバ(大災厄)と呼ぶ、シオニストによる組織的な追放の犠牲者の一部を構成している。
 1948年というパレスチナの不正義を象徴する年に生まれたハリメのその後の人生は、イスラエルの軍事侵攻や占領によって翻弄されてきた。結婚生活を始めたヨルダン川西岸地区は、1967年の第三次中東戦争の結果、東エルサレムとガザ地区とともにイスラエルの占領下に置かれ、厳しい占領政策によって生活のすべてを管理されるようになった。1982年のレバノン戦争ではレバノンに残してきた家族の多くが虐殺された。1987年に始まった第一次インティファーダと2000年に始まった第二次インティファーダでは、イスラエル軍により息子を逮捕され、さらには第二次インティファーダ中のイスラエルの軍事侵攻のなかで息子が自爆攻撃を決行し、その報復としてイスラエル軍によって家屋破壊の被害を受けるかもしれない恐怖に耐えしのんできた。ハリメという一人の生身の人間に、絶え間なく連続する不正義がのしかかってきたのである。

3. 1982年のレバノン戦争とハリメの家族

3-1. イスラエル軍包囲下の西ベイルート:パレスチナ難民の身の上に起きた「カハサ」
 ロンドンで起きたイスラエル大使暗殺未遂事件を口実に、1982年6月4日、イスラエル軍はレバノンに軍事侵攻を開始した。主にはレバノン南部と西ベイルートがイスラエル軍による無差別攻撃の対象となり、空・海・陸から砲撃が加えられた。当時、レバノンを拠点に解放運動を進めていたPLO(パレスチナ解放機構)は撤退を余儀なくされ、PLOの戦闘員たちは同年8月21日から9月1日までに、ヨルダン、イラク、チュニジア、北イエメン、シリア、スーダンに向けて出発した(6)。それから約2週間後の9月16日から18日までの3日間にかけて、西ベイルートのサブラとシャティーラの2つのパレスチナ難民キャンプの住民は、地獄を経験する。
 PLOと国際監視軍撤退後の西ベイルート。そこはイスラエル軍によってほぼ完全に包囲されており、パレスチナ難民には守り手などどこにもいなかった。そのような状況のなかで、イスラエル軍に後押しされたレバノンのキリスト教右派民兵ファランジスト(カターイブ)(7)が、サブラ・シャティーラ難民キャンプに入りこみ、住民約2750人を虐殺する事件が起きた。レバノンに残っているパレスチナ人の「テロリスト」を「浄化」するという名の下での虐殺だった(8)。当時、両キャンプはイスラエル軍の戦車数百台によって包囲されていただけでなく、同軍によって接収された、近隣のクウェート大使館の屋上に設置された監視所から24時間監視されていたのである(9)。したがって同事件は、イスラエル軍による協力なしには成し得ないものであった。実際にイスラエル軍は、虐殺が行われている最中に、現場を明るくするために照明弾を何度も撃ちあげていただけでなく(10)、ファランジストの民兵に食糧や水を供給していたことが報告されている(11)
 ジャーナリストの広河隆一は、虐殺が展開されていた9月18日にサブラ・シャティーラ難民キャンプに入り、極めて残酷な形で殺害された多くのパレスチナ人の遺体を自分の目で確認した。犠牲となった多くの住民の遺体の一群を指して、彼は次のように表現している。

「ガレージのようなところに老人をはじめ男たちが折り重なるように倒れ、死体の上に車を乗せてある一団があった。老人の胸の上に目をやると、そこには自宅のものと思える鍵があり、それが再び私をうちのめした。パレスチナ人のポスターにはよく鍵のデザインが使われる。それは彼等がパレスチナを追われた時、自宅の家に鍵をかけて、その鍵をその後も後生大事に持ち続けたからである。鍵はいつか祖国に戻ることの証でもあった。そして今、目の前に倒れている老人の胸の上にある鍵は、一人のパレスチナ人の死とともに、その意味を永遠に失い、鍵を受けつぐべき子供も、この集団殺戮の山の中にいるにちがいない。」(12)

 故郷への帰還を待ち望んできた難民が、その夢をかなえるどころか、追放者たちに包囲された避難先で無残にも殺される。夢と命が一瞬にして同時に否定される。このような出来事は何もサブラ・シャティーラ難民キャンプだけで起きた出来事ではない。1970年のヨルダン内戦において、PLOの一掃を図ったヨルダン軍によってパレスチナ難民キャンプは激しい砲撃を受け、約4000人の住民が命を奪われている(13)。さらにはレバノンで内戦が激化した1976年、2ヵ月にわたってファランジストを中心とする右派民兵に包囲された東ベイルートのタル・ザータル難民キャンプにおいても、住民2000人が虐殺されている(14)。2002年4月にヨルダン川西岸地区のジェニーン難民キャンプで起きたイスラエル軍による虐殺事件も特筆すべき出来事の一つである。これらの事件の名目は、すべて「テロリスト」一掃にあった。「対テロ戦争」という名の虐殺事件は、すでに9.11以前からパレスチナ人が経験してきたことだった。また、言うまでもないが、ここでは紹介しきれないほど多くのパレスチナ人の死が、これらの虐殺事件とともにあることも忘れてはならない。
 これらの虐殺事件で犠牲となったパレスチナ難民は、その存在すら認められない対象として、「抹殺」されていったのである。サブラ・シャティーラ難民キャンプにおける虐殺開始当日の9月16日に行われたキリスト教徒・イスラエル軍参謀会議で、ファランジストの参謀長のエリアス・ホベイカとレバノン軍参謀長ファディ・フレム参謀長は、両キャンプで「カハサ」(アラビア語で「切り刻む」という意味)が起きるであろうことを伝えている(15)。この虐殺事件の作戦は「カハサ」と命名されており(16)、事実、この言葉が指し示すように、パレスチナ難民の身体は無残なまでに「カハサ」されたのである。

3.2  15人の家族を失って
 ハリメは、サブラ・シャティーラ難民キャンプ虐殺事件で父と兄弟姉妹あわせて15人を失った。亡くなった約2750人ともいわれる犠牲者の一部である。レバノン戦争が始まった当時、両親と兄の一人は、ハリメが幼少時代を過ごしたブルジ・アル・シャマル難民キャンプで生活をしていたが、それ以外の兄弟姉妹は婚姻などを通じて、サブラ・シャティーラ難民キャンプに生活の拠点を移していた。虐殺が始まった日、父は「偶然」にも両キャンプに住んでいる姉一家を訪問していたために、事件に巻き込まれ、命を失った。ハリメの家族で生き残ったのは、バラータ難民キャンプに住んでいた彼女とブルジ・アル・シャマル難民キャンプにいた母と兄だけであった。夫と子どもたちを失った彼女の母は、悲しみのあまり嘆き苦しみ、事件から6ヵ月後に悶え死んだという。
 現場を直接その目で見ていないハリメが分かっているのは、15人が亡くなったという事実のみである。ニュースとして耳に入ってくる、苛烈なレバノン戦争下を生きる家族がどのような暮らしを強いられてきたのか、撤退するPLOをどのようなまなざしで見つめていたのか、家族がどのようにカハサ・殺害されたのか。これらの詳細を知ることはできない。それは家族との突然の断絶であり、永遠の別れだった。彼女は国境を越えて、葬式に参列することすらできず、ひたすら占領下で泣き暮らす以外になかったのである。
 2002年に時おり涙を拭きながら、ハリメが家族の身に起きた出来事を教えてくれたあと、隣に座っていた娘の一人ナジャが続けて母に代わるように言った。

「私の母はサブラ・シャティーラ難民キャンプでこんなにも多くの家族を殺されたの。最近では甥マフムードがイスラエル軍に暗殺され、それに怒った弟ジハードが自爆攻撃をした。今、私たちは、イスラエル軍に自爆攻撃の報復として家を破壊されるかもしれない恐怖のなかで生きている。イスラエルは、私たちに十分、いろいろなことをしてくれたじゃない。これ以上何をしたいというの。もう沢山でしょう。」

 ナジャの訴えは、究極的な生活破壊をもたらす家屋破壊がまさにその日の夜、翌日、あるいは翌々日に差し迫っているかもしれない緊張感のなかから、絞り出すように出された声そのものだった。英語をほとんど解さないハリメであるが、ナジャの口から聞こえてくる、すでにこの世にいない「マフムード」「ジハード」の名を耳にしながら、娘の声に頷いていた。そんな母子の姿に、私は何一つかける言葉が見つからなかった。
 サブラ・シャティーラ虐殺事件後が起きた当時のイスラエル国防大臣アリエル・シャロンは、事件の間接責任を問われ辞任に追い込まれた。それから20年後、ハリメは首相に返り咲いたシャロンによって、再び辛苦の経験を強いられることになる。それが続く物語である。

4. 自爆攻撃者の母として生きること

4.1 報道が描くハリメ:「自爆攻撃を称賛する母」
 2002年5月22日、イスラエル最大の町テル・アヴィヴ近郊のアイスクリーム・パーラーにて、パレスチナ人による自爆攻撃が起き、犯人とともに2人のイスラエル人が命を失った。犯人はハリメの末息子ジハード・ティティ。バラータ難民キャンプ初の自爆攻撃者だった。わずか18歳の少年に残りの人生を「あきらめ」、身体に巻きつけた爆弾とともに、自らを吹き飛ばし、無差別に市民を巻き込むという究極的な選択を決意させたものは、いかなるものだったのか。彼がこの世に存在しない以上、彼自身の口からその「真意」や「真相」を聞くことは、不可能である。しかし、残された遺族は息子/弟を自爆攻撃に駆り立てた原因の数々を推測することで、ティティ家を襲った重く、深い悲しみに耐えてきた。
 ジハードが自爆攻撃を敢行する5日前、武力による抵抗運動を進めてきたアル・アクサ団のナーブルス地区のリーダーと知られていた従兄のマフムード・ティティが、バラータ難民キャンプ内で友人とともにイスラエル軍によって暗殺される事件が起きた。親しくしていたマフムードの死を知ったジハードは、悲しみのあまり、葬式後に墓の前で三日三晩泣き続けた。その後、事件の復讐を遂げるために、彼は生まれ育った難民キャンプの家族の元から姿を消し、二度と戻ることはなかった。
 ジハードの自爆攻撃は、BBCやAP通信によって世界中に発信された。事件を伝えるこれらのニュースのなかで私の目を一際引いたのは、AP通信がその発信源となり、各国メディアで報道されたハリメのコメントだった。たとえば、2002年5月29日付のワシントン・ポストは、ジハードが自爆攻撃の実行前にハリメに電話をかけた話を"Four Israelis Killed in West Bank: Calls Grow to Erect Protective Fence"(イスラエル人4人、殺害される:保護用のフェンスの建設を求める声、高まる)と題する記事のなかで紹介している。そのなかで、ハリメがAP通信の記者に、"I realized he was going to carry out a suicide attack. I said, 'Oh, son, I hope your operation will succeed"(「彼が自爆攻撃をしようとしていると思った。(電話口で)『息子よ、作戦が成功することを望んでいるよ』と伝えた」)と語ったコメントが掲載されている (17)
 また、同日のニューヨーク・タイムズの記事"Where Israelis Grieve, Some Arabs are Proud"(イスラエル人が悲観にくれるところで、誇りに感じているアラブ人がいる)においては、ジハードの自爆攻撃の「被害者」のイスラエル人の事件当日の詳細が紹介されたあと、「加害者」であるジハードの物語が簡単に描写されている(18)。ジハードがハリメに別れの電話をかけた話も掲載されているが、『息子よ、作戦が成功することを望んでいるよ』というコメントのみをわざわざ取り出している点において、ワシントン・ポストの記事に比べると、母親が息子の自爆攻撃を奨励していたかのような印象を読者にさらに強く植え付けるものとなっている。
 AP通信によって発信されたハリメのコメントは、上述の二紙だけでなく、アイルランド紙Irish Examinerや米紙Star-Telegramなど各地の英字紙で、「驚き」と「衝撃」の物語として記事のなかに組み込まれた。これらの記事は、パレスチナ人を一方的に、そして歴史を学ぶことなくして身勝手にも「テロの推進者」と見なす既存の神話――そのコインの裏側にある物語/神話には、パレスチナ人によるテロの被害者としてのイスラエル人の姿のみ描かれており、パレスチナ人に対する組織的な追放と占領の加害者性は不問にされている――に基づいて作成されたものであることは、説明するまでもない。
 同時に、これらの報道は占領の継続のために「テロとの闘い」を標榜するイスラエルにとって、自らの軍事侵攻を正当化するための好都合なものとなった。米国のイスラエル大使館のウェブサイトの「イスラエルに対するテロ」の資料の一つとして、前述のニューヨーク・タイムズの記事が全文掲載されていたことからも明らかであろう(19)。かくして、ハリメはジハードの自爆攻撃以後、占領者だけでなく、その占領を支え続けている者たちによって、「テロを称賛する母」のレッテルを貼られた女性となったのである。
 メディアの報道が伝えていることがおおよそ「正しい」のだとすれば、ハリメは息子がこれから何をしようとしているのかを推測していたということになる。だが、私がオマールから聞きとった物語は、報道とは大きく異なる。

4.2 息子の自爆攻撃を知った日のハリメ
 2004年にロンドンで亡命生活を送るオマールと北イングランドを旅したとき、ロンドンに戻る特急電車のなかで私は、ハリメがジハードの自爆攻撃を知ったときのティティ家の物語を彼に聞いた(20)。愛する弟を亡くした彼に、母が息子を失った日の出来事を思い出させ、語らせるという辛苦の行為。それは個人的な領域に土足で踏み込むという意味において極めて暴力的な行為であったはずだ。それを分かっていたにもかかわらず、私は彼に口を開かせてしまった。それが間違っていたのかどうか、私にはいまだに分からない。しかしながら、聞き取った以上、私には聞き手の義務として、それらの出来事を可能な限り描く責任がある。
 マフムードの暗殺から5日が経過した日、忽然と姿を消したジハードの身の上に一体、何があったのだろうかと心配する母の元に、本人から電話がかかってきた。電話口で「今晩、会えるよ。でも、今は誰にも連絡をしてきて欲しくないんだ」と話すジハードの言葉を聞いたとき、一瞬、彼女の頭に「もしかしたら、息子は自爆攻撃でも考えているのではないのか」という不安の気持ちがよぎったが、息子の「今晩、会えるよ」という言葉の方を信じて、帰宅を待つことにした。しかし、それは彼女と彼の最後の会話となった。
 次にオマールがジハードのことを耳にしたのは、翌朝のことだった。ティティ家を訪問してきた従兄と友人が、彼に「レバノンのテレビを観たか?」とたずねた。彼がテレビを観ていないことを悟った彼らは、続けてテル・アヴィヴで起きた自爆攻撃について質問した。「『自爆攻撃があったらしい』ということは聞いたけれど、詳しくは知らない」と答える彼に、レバノンのテレビ局が自爆攻撃者の名前をジハード・ティティと報道していることを教えてくれた。
 オマールはその知らせに大きく動顛するとともに、何も知らず、ひたすら息子の帰宅を信じている母にその死をどう伝えるべきか悩み始めた。気持ちを落ち着かせるためにモスクに行ったが、祈りの最中も、頭のなかは母に伝える術を考えることでいっぱいだった。家に帰ると、母はいつもと変わらない様子で「お茶でも飲む?」と聞きながら、台所に入って行った。そんな母の後ろについていったオマールは、思い切って母に話しかけた。「お葬式をしないといけないんだ」。その段階ではまだ何も悟っていない母は不思議そうに、「マフムードのお葬式は終わったじゃない。今度は、一体誰のお葬式をしないといけないというの」と返した。やはり母は何も知らない。でも、言わなければならない。それが彼女の末息子のものであると。「ジハードが自爆攻撃をしたんだ。」彼女は叫んだ。「違う。ジハードじゃない」と。それがその日の出来事だった。
 オマールの語りによると、ハリメは彼に教えられるまで息子の自爆攻撃のことを知らなかったということになる。いや、仮に息子の自爆攻撃を最後の会話から推測していたからといって、誰が彼女を「自爆攻撃を称賛する母である」と断定し、批判できるというのか。ジハードの自爆攻撃から11日後の2002年6月2日に、米紙サンフランシスコ・クロニクルは、"What can you expect from a kid named Jihad?" (ジハードと名付けられた子どもから何を期待できるというのだろうか) と題する記事を掲載した(21)。そのなかで、記者は単純に「ジハード」という名前と自爆攻撃を結びつけ、パレスチナ人の親たちは、子どもたちが成長したときに自らを吹き飛ばす行為に走ることをあたかも期待しているかのように描いている。

「彼を(自爆攻撃へと)動機づけたものは何だっただろうか。それは彼の名前がジハード・ティティであったという事実から、考えていくことができるであろう。子どもに『聖戦』と名付けた親は、最初からはっきりとした子どもの将来の計画を有している。それは自らを吹き飛ばしたとき、いかなる存在となりうることを望んでいるかということである。」

 さらに問題なのは、この記事が、「ヨルダン川西岸地区のナーブルスやジェニーンといった街で通りの噂を聞いていると、彼・彼女たちの子どもが自殺できる年齢になったとき、(親に)期待されたような行動に出るのはなぜなのか簡単に理解できる」と締めくくられている点である。イスラームに対する思いこみと偏見に満ちた、悪意あるこの記事は、息子の行為に対しハリメやイブラヒムに道義的責任を負わせようとする侮辱以外なにものでもない。
 ジハードを産んだハリメが、将来、息子が自爆攻撃者となる願いを込めて、イスラーム文化圏に一般的に普及しているこの名前を与え、そうなるべく育ててきたとでもというのだろうか。もし、そうだというのであれば、息子の死を知ったハリメの「違う。ジハードじゃない」という叫びをどう解すればいいのか。彼女はジハードの死など間違っても望んでなどいなかった。それは、ともに時間を過ごした中で、私自身が何度も目にしてきた彼女の姿からあまりにも明らかなものだった。ジハードのことを思い出し、泣いていたハリメを何度見かけたことだろう。息子のアラが友人宅に泊まったまま帰ってこなかった日の翌朝、彼女がジハードのように彼が自爆攻撃したのではないかと思うあまり、いてもたってもいられない様子を見せたことがあった。無事に電話連絡がついたとき、安堵した彼女は嬉しそうにほほ笑んだのだった。ジハードの事件から4ヵ月経過した後であったが、その日の出来事を知った以降の彼女のはてしない痛みと苦しみは、このような形で彼女の心を苛んできたのである。

5. おわりに

 3年ぶりに会う私の問いに一通り答えてくれたハリメは、静かに笑って立ち上がり、台所に消えた。しばらくして戻ってきた彼女の手に抱えられたお盆の上には、かつてこの家で私が何度となくごちそうとなった食事が並んでいた。無神経ともいえる数々の質問をしてきた私とはあまりにも対照的に、彼女はパレスチナ人としてのもてなしを示したのだった。悲しいほどに懐かしく、温かい食事をごちそうになった後、帰るために立ちあがった私に、彼女は写真を差し出した。それは、生前のジハードを写した数少ない写真の一枚だった。戸惑いを見せる私に、彼女はこれを持って日本に帰るようにと促した。
 ハリメからジハードの遺品をもらうのはこれが初めてではなかった。2002年8月20日の未明、イスラエル軍による急襲を受け、機関銃の銃声が家の真横で激しく鳴り響いていたそのとき、ついに家が破壊されるときが来たと感じた彼女が、私に一つの遺品を渡したことがある。幼い頃のジハードがハリメにねだって買ってもらったマリア像だった。それに引き続き、生身の彼の姿すら知らない私に、息子の元気な姿を写している貴重な写真を託したのはなぜだったのか。
 パレスチナにおける不正義の一端を描くハリメの語り、あるいは彼女の息子・娘たちによる母の経験の「代弁」は、追放や虐殺を一度たりとも経験したことがない強者として、絶対的な「安全圏」に住む私の他者の痛みに対する「想像力」の圧倒的な欠如を突くものだった。記憶のなかに生息し続けている強い慟哭を再び引き出すという代償を払いながら、彼女たちが一方的な聞き手にすぎない私に対し重たい口を開いてくれたのは、それらの証言が当然有しているはずの正当な響きを正面から受け止めることを、静かに求めていたからだった。
 パレスチナをめぐる記憶のなかには、本来、苦難とともに生きてきたパレスチナ人の個の経験が、等しく価値あるものとして織り込まれている。そのミクロな記憶の延長線上に、遺品であるマリア像もジハードの写真もあるに違いない。パレスチナ人が故郷から組織的に放逐され、離散の道を余儀なくされるようになってから60年近くを経た現在にいたるまで、私たちは、それらのすべてを含む記憶から発せられる響きを阻む力を生み出し続けてきた。パレスチナから持ちかえったそれらの遺品は、ジハードの短かった18年の人生の証を共有しようとするハリメの私への慈しみの気持ちを込めたものであっただけでなく、ともすれば聞き取った物語を記憶の彼方に追いやり忘れ去ってしまう私に、パレスチナ人の存在を喚起させる役割を担わされたものではなかったのか。研究室の机の上に飾られているジハードの写真は、日々、私にそう語りかけている。


(1)Reinharz,S.,Feminist Methods in Social Research,New York and Oxford,1992,p.136
(2)Ibid.
(3)同様の指摘はすでに日本においても多くのフェミニスト研究者によってなされてきた。ライフ・ヒストリーの語り手の差異に関する議論においては、次の論文が一つの参考となる。飯野由里子「差異をもつ<わたしたち>の語られ方−あるレズビアン・アクティヴィストのライフストーリー」、桜井厚編『ライフストーリーとジェンダー』(せりか書房、2003年)86-102頁
(4)平井和子『「ヒロシマ以後」の広島に生まれて−女性史・「ジェンダー」……ときどき犬−』(ひろしま女性学研究所、2007年)、106頁
(5)同上
(6)1982年6月のイスラエルのレバノン侵攻とPLO撤退、その後のサブラ・シャティーラ両難民キャンプにおける住民虐殺事件にいたるまでの時間の経過は、次の文献を参考にするとよい。小田原紀雄、村山盛忠編『パレスチナ民衆とイスラエル』(第三書館、1989年)。同書に「イスラエル軍のレバノン侵攻からサブラ・シャティラ虐殺までの経過(一九八二年六月〜九月)」が紹介されている。355-369頁
(7)同虐殺事件の直接の加害者の多くはファランジストの民兵であるが、参加者のなかにはイスラエル軍の指揮下にあったハッダード軍(キリスト教徒からなる自由レバノン軍のこと。同軍は1984年にイスラエル軍によって、シーア派イスラーム教徒を含む「南レバノン軍」として改組された)が少数含まれていたとする説もある。広河隆一『ベイルート大虐殺』(三一書房、1983年)、179頁、181頁、荒田茂夫『レバノン 危機のモザイク国家』(朝日新聞社、1984年)、147-150頁
(8)小田原紀雄、村山盛忠編、前掲書、323頁、奈良本英佑『パレスチナの歴史』(明石書店、2005年)、278頁
(9)広河隆一、前掲書、179頁、および、荒田茂夫、前掲書、149頁
(10)小田原紀雄、村山盛忠編、前掲書、336-337頁
(11)広河、前掲書、188頁
(12)広河隆一、同上、148-149頁
(13)臼杵陽『世界四ブックレット52 中東和平への道』(山川出版社、1999年)、52頁
(14)奈良本英佑、前掲書、268頁
(15)小田原紀雄、村山盛忠編、前掲書、324頁、広河隆一、前掲書、177頁
(16)広河隆一、同上、同頁
(17)Daniel Williams "Four Israeli Killed in West Bank"
ここをクリック(2007年12月10日確認上記のサイトに掲載されていたが、現在では記事が削除されている。2007年12月15日確認)
(18)Joel Greenberg "Where Israelis Grieve,Some Arabs Are Proud"
ここをクリック (2007年12月10日確認)
(19) 同記事は在米イスラエル大使館のリニューアル前のウェブサイトに掲載されている。現在でもそのサイトはネット上に残されている。ここをクリック(2007年12月10日確認)
(20)オマールとの旅行の詳細は、拙稿「軍事占領下の生活:一番悲しい電車〜オマールの記憶の再現と涙〜」、『技術と人間』、2004年8・9月合併号、74-87頁においても紹介している。
(21)Chris Matthews "What can you expect from a kid named Jihad?"
ここをクリック(2007年12月10日確認)


★プロフィール★
清末愛砂(きよすえ・あいさ)1972年生まれ。2006年3月に大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程単位取得満期退学。現在、大阪大学大学院国際公共政策研究科助教。アジア女性資料センター運営委員、非暴力平和隊・日本理事、NPO前夜運営委員などを務める。研究分野は、ジェンダー法学、および社会調査法。著書として、『母と子で見る パレスチナ:非暴力で占領に立ち向かう』(草の根出版会、2006年)、『ブックレット<非暴力、そして希望力へ>(1)世界の非暴力運動の現場から』(ピースネット、2006年)、「そこはシャヒードたちの墓だった:イギリス植民地主義と『対テロ戦争』」、木戸衛一編著『「対テロ戦争」と現代世界』(御茶の水書房、2006年)などがある。
ブログ「Littlefiddlerの読書日記」


Web評論誌「コーラ」03号(2007.12.15)
〈倫理の現在形〉第3回「語りが伝える不正義に向き合う――あるパレスチナ女性のライフ・ヒストリーから」清末愛砂
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