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■「私はどう生きればよいか」という問いと倫理

 「私はどう生きればよいのか」という問いは、哲学や倫理学が主題の1つとしてきた大きな問いである。「いかに生きればよいのか」、その問いは古来よりずっと問われてきた。しかし、この問いは、「よい生」「悪い生」、そしてもっと言えば「よい死」「悪い死」を前提にして語られるものではない。大庭健は、次のように述べている。

「「どう生きればいいのか」という問は、「どう生きれば、道徳的に善いのか?」という問ではない。「どう生きればいいのか?」という問は、「よく生きる」ことを求めているのであって、「善い行いをして生きる」ことを促しているのではない」(1)

 初発の問い、つまり「私はどう生きればよいのか」という問いとは、「私はいかに行為すればよいのか」という問いと同じではないのである。さらに言えば、「私はどう生きれば生きるに値するのか」という問いとも同じではない。大庭は続けて、このように述べる。

「「よく生きる」ということは、“いい人生でしたね”とひとからも祝福され、自分でも“これでいいのだ”と肯定できるような生を歩む、ということに他ならない」(2)

 大庭はこのように、「よく生きる」ことの中にこそ「生の肯定」の原石を見出す。つまり、倫理が問うべき「よく生きる」とは、ある状況下における行為の正当性だけではなく、「生の肯定」を支持するものでなければならない、と言うのだ。さらに私は大庭の主張を踏まえながら、ひとからの承認などは根源的には不要であり、単に「生きていてよい」と主張する(3)。その意味で、「私はどう生きればよいのか」という問いは、生の根源性を問うものであり、そこに棄却されてはならないものが存在する。倫理学は、このような生の根源性に光を当てる営みであるし、そうあるべきなのである。言い換えれば、生の根源性から乖離した倫理などあり得ないとも言えよう。
 本稿で試みるのは、倫理なるものをいかに私たちの生活において思考していくかを問い直すことである。私たちは時として、生活の中においても、この身体や精神において快楽を得、また苦しんだりもする。「私はどう生きればよいのか」という問いは、学者だけが専有しているものでもない。その意味において、生活と倫理的思考とは切り離せるものでもない。前半では、倫理は何を問うべきかを、「私はどう生きればよいのか」という問いを手放すことなく考えたい。それを手がかりにしながら、後半では生命倫理学を素材に、倫理の問い方を考察してみたい。

■「私はどう生きればよいのか」という問いは、何を意味すべきか

 「私はどう生きればよいのか」という問いは、古来より問われてきたものである。現代では一般に、この問いは「私はどうしたら生きる意味を見出すことができるのか」という問いに置き換えられたりもする。あるいは、「私はこの状況のもと、どう行為すべきか」、さらには「私はどうしたら生きる価値があるのか」という問いにも置き換えられたりする。
 みずから毒を服して死んだといわれるソクラテスの、「悪法」を守り自死に至る部分は、しばしば生きる意味を求めて死んだと理解されたりもする。そして、現代的な社会問題にあっては、それが安楽死・尊厳死擁護を正当化するための論理に横滑りする可能性もある。しかし、ソクラテスは私たちを死へと誘惑しているわけではない。『パイドーン』からいくつかソクラテスの言明を引き、確認しておこう。

「不死なるものについても、次のように言うべきではないか。もし不死なるものが不滅でもあるなら、死が魂に近づくとき、魂は滅びることは不可能であると。なぜなら先に述べたことからして、魂が死を受けいれたり、死んでしまったりすることはないだろうから」(4)
「もし不死なるものがまた不滅でもあるということが認められれば、魂は、不死であることに加えて不滅でもあることになるだろう」(5)
「不死なるものが不滅でもあるかぎり、魂が不死であれば、それはまた不滅でもあるのではないか」(6)

 そして、「死が人間に近づくと、人間の可視的な部分は死ぬが、不死なる部分は『死』に場所をゆずって、滅びることなく無事に立ち去ってゆく」(7)とソクラテスは確信するまでにいたる。さらに、言明の引用を続けよう。

「しかし、君たち、もう一つ考えておくべきことがある。それは、もし魂が不死であるなら、われわれが人生とよぶこの期間だけではなく、全時間にわたって、魂の世話をしなければならないということだ。そして、もしこの世話を怠るなら、その危険はいまや恐るべきものに思われるだろう。
 なぜなら、死がすべてからの解放であるなら、悪しき人々にとっては、死ねば、肉体から解放されるだけでなく、魂もろとも自分自身の悪もなくなってしまうのだから、これは天の恵みともいうべきものだったろう。しかしいまや、魂が不死であることが明らかな以上、魂にとっては、できるだけすぐれた賢いものとなる以外に、悪から逃れることも救われることもできないであろう。魂がハーデースへ行くにあたって持ってゆくものは、ただ教育と教養だけであって、これらのものこそ、死者にとってあの世への旅の門出からただちに、最大の利益ともなるし災いともなると言い伝えられているものだ」(8)

 ここでのソクラテスの言明の要諦とは、「魂は不死であり、不滅である。なぜなら、魂は死を受け入れることがないからである」というものであろう。ここで注意すべきは、魂とは、現在私たちのいう「精神」のことではないということである。魂とは生の隠喩であり、さらにソクラテスの思想を現代へと甦らせようとしたとき、魂は生を受肉した身体のことであると読み込む方向も重要になる。すなわち、ソクラテスの言う「よく生きる」とは、現代においてはむしろ「生を受肉した身体への関心、配慮、ケア」をこそ浮かび上がらせるものであって、「生きる意味を求める」というような意味のみではないということである。
 岩田靖夫は、このことを次のように述べる。

「死んで虚無に帰してしまえば、もう悪を為すことも他人に迷惑をかけることも出来なくなるのだから、普通の人間の場合には、自分自身にとっても他人にとっても、それは、どちらかと言えば、大きな善ではなかろうか」(9)

 岩田が、ソクラテスの思想を「本当の意味での幸せな人生とは善を為す人生でしかありえない」(10)と読み込むとき、ここからは「魂の存続」をこそ浮かび上がらせるべきである、としている。ソクラテスは、死すら魂の終わりを意味するものではないと考えるのである。つまり、「よく生きる」とは、私たちの行為のよし悪しを問題にしているのではなく、その手前にある「魂の存続、魂の完成」をこそ問題にしているのだということができよう。これを現代に生きる私たちは、「生への配慮」であると読み込もうと本稿では主張するのである。★

★ただし、以下の点には留意すべきであろう。現代からみることによってソクラテス哲学の中から「生の痕跡」を見出すことが可能なだけであって、そのことはソクラテス自身が「生の哲学者」であることを意味しないということである。実際に、ソクラテスが有罪宣告を受け「悪法も法なり」と法を順守し、結果、服毒自殺に至った過程をソクラテス自身が正しい行為の選択であると考えているからだ。ここにおいて、彼の選ぶ行為の正当性が、彼自身の存在という価値を凌駕してしまっている。
 この「悪法も法なり」という言葉は、「悪法は法でしかあり得ない」という意味において、正しい。ソクラテスが誤ったのは、「法であれば順守すべし」という態度にある。ここにこそ、法と正義の混乱――合法性が正当性を意味する法の水準と、法それ自体を超越的に問う正義の水準との混乱――の萌芽がある。悪法ならば従わないことは、正義の観点から論じることができる。実際に「市民的不服従」なる概念もまた、法にあえて従わないという姿勢から生み出されてきた。法であれば順守すべしという態度は、この現実が正義にかなっているかどうかという視座を無化してしまう。逆に言えば、そのように問わないことによって為政者にとって都合のよい雰囲気を形成してしまう、このことは現在のこの国においても大いに指摘されるべきことであろう。
 また岩田がソクラテスの思想を読み込み、「悪を為す」あるいは「善を為す」と述べるとき、ソクラテスと同じく存在そのものが行為の正当性によって侵犯される可能性がある。言いかえれば、ソクラテスが体現してしまったように、存在を行為の正当化という位相において抹消できるということである。けれども、法は「何を為すべきか」を問い得ない。法がなし得ることとは、行為の合法性(法的な正当性)を与えることであり、現実に迎合し、この現実において生きていくための方便としての指針を与えるに過ぎない。それ以上でも以下でもない。だからこそ、法それ自身は「迎合せざるを得ない現実、生きていかざるを得ないこの現実」が正義にかなっているかどうかを、原理上問うことができない。ソクラテスは、そこを誤ってしまった。そして、現代においても法哲学者や規範倫理学者の中には、ソクラテスと同じ間違いを犯すものが多数いるように私には思われる。言いかえれば、ソクラテスの負の遺産――法の位相を倫理や正義の位相へと怠惰にも横滑りさせてしまう営為――が、現代にも「受け継がれてしまっている」のである。
 ただし、以上の議論は、「法がまったく無意味である」ということを意味するものではない。そのことを確認しておくべきであろう。現在において存在する法および法解釈をもとにしながら「法空間」において現実を批判的に論じ、時として現実の闘争に発展することもあるだろう。また、法的な正当性として制度を勝ち取っていくために、この社会に「あるべき法」を作らせようとする動きもある。そして、それはまた必要なことですらある。ただ、このいずれの場合にも、「現在において存在する法」や「この社会に「あるべき法」」が、いかなる意味において正しく、いかなる意味において正しくないのかについては、当該の法の解釈のみでは答えられないのである。このことはまさに、法が現状肯定にしか加担しないということを、プラスの意味においても考えることができるということである。すなわち、現状を正義の状態に近づけるためにこそ、立法の意味があるということである。この意味において、法と正義とは区別されるものでなければならない。★

 さらにここから一歩踏み込んでみよう。それでは善とは何か。それは人生そのものだということができまいか。人生そのものが、倫理的な善なのであると。死とは、いっけん悪のようであるが、人生の完成地点であるという意味においては、善でも悪でもない。むしろ、人生は幸せであるべきだ。その意味で、幸せな人生、善い人生というのは、同語反復なのである。問題は、現状において「幸せでない」生、「善くない」生を、「幸せ」で「善い」生へと変えていくことにある。倫理が真に問題にしなければならない「よく生きる」とは、実はこの位相にあるのではないか。
 もう少しこの地点において、あるいはこの地点から思考してみよう。小泉義之は、レヴィナスの思想を念頭に置きながら、次のように述べる。

「私たちは、何のために生きるのかなどとはめったに考えない。そんな問いを考えなくとも、そんな問いに答えなくても、私たちは生きてきたし生きているし生きていけるだろう。しかし、だとするなら、私たちは生きることにおいて、何のために生きるのかという問いにすでに答えてしまっているのではないか。(中略)いかなる答えや態度をとろうとも、私たちは生きてしまっている。答えが出なくとも、問いは無意味と思っても、生きるのをやめて死んでしまうことはほとんどない。この事実は重い」(11)

 続いて小泉は、この問いを私たちは「身をもって答えてしまっている」、つまり「問いに対する答えそのものを身をもって体現化し肉体化して生きている」と述べる(12)。「私たちはどう生きればよいのか」という問いは、現に生き、生存することによってのみ、身体に刻印されながら答えられる問いだということである。また小泉は、「何のために生きるのかという問いに対して、幸せに生きるためにという答えも、ただ生きるためにという答えも、人生の実相にそぐわない答えである」(13)とも述べる。
 倫理的に「よく生きる」というのは、私たちが通常行うような行為のよし悪しの判断とは次元を異にする。「私はどう生きればよいのか」を問う人は、すでにその人自身の「生の形式」を生きてしまっている。その問いの次元と、「いまここで私は何をなすべきか」という問いとは、区別される必要がある。「いまここで私は何をなすべきか」という問いは、すなわち、現在の状況下での行為の正当性を問題にすることは、現状を「すでに与えられたもの」として不問にしてしまう。さらには、「正当な行為を行うものこそが生きるに値する」という、生に資格や制限を付してしまうのである。こうした混同が、「よく生きる」という主題を、単に「生きてよいのか、悪いのか」という問いへと変換させてしまうのである。
 「私はどう生きればよいのか」という問いが倫理的に有意味であるのは、そこには「生の肯定」の痕跡が存在するからである。そしてそれは決して「どう生きるのが生きるに値する生き方であるか」という問いではない、ということだ。ここを読み違えるからこそ、生きるに値する生と、そうではない生というような分け方をしなければならないのである。
 すべての生は、よい生である。たとえば、重度の身体・知的障害者や、無脳症児、認知症者などがいっけん「生きるに値しない生」に見えるのは、彼らが適切なケア=「魂の配慮」を享受していないからである。そしてそのために、彼らの生がいちじるしく制限されているからなのである。それは、さまざまな障害者や患者の「生の現実」という諸相から観察し得る事実である。だとすれば問題は、障害者や患者に、「よい生」を与えない社会的制度や、そのような制度――障害者や患者の「よい生」を実現しないような制度――の基盤となる人々の意識にこそあることになる。
 たとえば、自分のこと(14)すら行うのが機能的に独力では不可能な障害者や、自分が何をしたいのか(15)を独力で決定し、私たちに分かる表現で伝える(16)ことすら不可能な障害者も、適切な支援さえあれば、地域の中で自立した生活を営むことは可能である。それは、たとえば自立生活を営む障害者たちが身をもって証明している。自分で独力においてできないということは、自分も周囲も大変だったりするが、それはそれ以上でも以下でもない。大切なことは、「大変さ」を評価し、それを誰が、いかに社会的制度によって負担していくかなのであり、「大変」であるからその生が価値がないとか、生きる意味がないとかいう横滑りを許さないことである。
 話を本筋に戻そう。「私はどう生きればよいのか」が真に問うべきは、「原初的な生の肯定」であり、決して「生の価値の有無/濃淡」や「生きる意味」といった位相ではない。どんな生に生きる価値があるのか、生きる意味がある生とは何か、およびそうした「境界設定」の正当化は、この「生の肯定」の立場からはあまり意味がない。真に問うべきは、「原初的な生の肯定は、いかに可能か」なのである。すなわち、「よく生きる」という倫理学における一つの主題とは、「誰かの生はよくないから生きるに値しない」ということ、およびその正当化を含意するものではない、ということである。

■生命倫理学における「よく生きる」の批判的検討

 「ある状態の者を死に至らす行為が正当化できる」と考えるもっとも典型的な思想とは功利主義であり、それに基づいて打ち立てられた生命倫理学であろう(17)。功利主義による生命倫理学には、次の二つの特徴がある。すなわち、第一点目は「生命の質」(Quality of Life)をその判断基準とすることである。第二点目は、QOLが低ければその生を殺すことを正当化できる、というものである。この二点を功利主義による生命倫理学は主張するのである。
 功利主義は、「回答を出す能力」があるといわれる。実際に、道徳的なジレンマが生じたときに、どの選択肢がもっともよいか、という問いに対し、原理的には唯一の回答を与えてくれる。このあたりを伊勢田哲治は次のように述べる。

「功利主義は、単純加算して最大化する、という手法をとるため、「選択肢XとYのどちらがよいか」という問い一般について、原理的には一意な回答を出すことができる。これはつまり、功利主義が道徳的ジレンマ(それぞれの選択肢がなんらかの道徳的規則を侵犯するような状況)においても回答を出す能力を持つことを意味する」(18)

 つまり、伊勢田によると功利主義とは、「単純加算して(厚生を)最大化する」という手法によってなされる判断のもとで、行為の正不正を決定する立場である。私は、個人の厚生を高めていこうとすることには何の異論もない。その意味において、功利主義の、厚生という帰結を重視する立場と同じである。ただし、功利主義が擁護する倫理的立場とは相容れない。ここにおいて私は、功利主義が示す倫理のあり方は単に現状維持に過ぎず、現在の社会の不正義を巧妙に回避するレトリックでしかないと言いたいのである。
 少し確認しておく。これまでの議論――「生の肯定」の支持こそが倫理学に課せられた大きな責務の一つであるという議論――によれば、現状において厚生が低い生も、生きるに値する。すなわち、どのような生も無条件にその生が肯定されるべきである。しかし、そのことは「そのままの状態でよい」ということを意味しない。誰かの生がよくない、つまり厚生が低いなら、彼や彼女の厚生を高めるための社会的な支援が必要であるということなのである。それは、厚生が低い生を「よくない生」と決めつけ、ともすれば安楽死や尊厳死という「よい死」を与えようとする態度とは全く逆である。
 功利主義の問題点を分析するために、遠回りのようだが、もう一つ確認しておこう。若松良樹は、「正義論としての功利主義にとって致命的な欠陥」(19)を射抜くために、次のような例を挙げる。

「たった一人の独裁者のみが富と権力を独占しており、他の人々はみじめな隷属状態にあるような社会を考えてみよう。ある日パレート主義者は二つの政策を思いついた。政策Aはみじめな人たちの境遇を一切変化させることなく、独裁者の状況を改善する。現状に対して独裁者はAを選好し、みじめな人たちは無差別であるとするならば、パレート主義者は独裁者にAの実施を進言するであろう。パレート主義者の思いついたもう一つの政策Bは、独裁者の立場をほんの少し悪化させる代わりに、みじめな人たちの境遇を大幅に改善する。パレート主義者であれば、Bはパレート改善にあたらないとして、Bを推奨することはないだろう」(20)

 個人の選好によるパレート原理(21)をその主張の根幹とする現代の功利主義の抱える問題は、ここに集約される。政策Bにあって、政策Aに見られないのは、「たった一人の独裁者のみが富と権力を独占しており、他の人々はみじめな隷属状態にあるような社会」じたいを変えようとするかどうかという視点である。政策Bにおいてはそれを漸次的に変えていこうとする可能性があるのに対し、政策Aのほうは独裁者とみじめな人たちとの間の格差をさらに広げている。すなわち、功利主義は、当該社会に問題があったとしても、そのことを問題視するのではなく、その前提をまずは不動とする。そのうえで、当事者間の状況をパレート効率性をもとに改善しようとすることを正当化する論理である。そして、その結果として現状の正しさを問題にしようとする。しかしこの論理では、現状の不正義を真に問題にすることはできない。上の例で言えば、独裁者とみじめな人たちとの間に現存する格差が不正義か否かを、功利主義は問題にできない。仮に、現状において政策Aが選ばれようとも、それは単に「選ばれた」以上のことでも以下のことでもない。功利主義は、それを正当化しようとするゆえに、問題がある。
 ある政策が正義にかなっているか否かを判断するためには、政策に超越する倫理が必要である。しかもその倫理は、正当化されることなく選び取られるべきものである。つまり、私が考える倫理体系というのは、その内部においては整合的であるべきであるが、それじたい決して正当化され得ないというものである。言い換えれば私は、倫理の探求という営為を、正当化という操作から解放しようと試みているのである(22)。これまでも再三述べたが、倫理の探求は「原初的な生の肯定」と密接にかかわるのである。倫理や正義が否定されるならば、「原初的な生の肯定」もまた否定されなければならない。倫理や正義は、そのように「生の現実」と深くかかわるものである。これは決して正当化ではない、そのことは明らかであろう。
 倫理を正当化によって基礎づけようとする営為は、功利主義に限ったものではない。たとえば、以下の鷲田清一の議論を見てみよう。

「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況で、未だ「人の生命」でないものでなく現に「人の生命」であるものを選ぶということはある。が、現に「人の生命」である側の「恩恵」が、やがて「人の生命」となりうるものの生命を奪ってまで実現されてよいかどうかは、「倫理」の問題である。ここで「倫理」ということで絶対的な原則を言っているのではない。やむをえずどちらかの生命を選ばなければならない状況で、それぞれの重さをどう判断するかというその「落としどころ」の決め方を言っているのである」(23)

 鷲田は、ES細胞や中絶胎児を難病研究に使ってもよいかに関する議論の中で、このように述べている。もちろん、「落としどころ」はどこかで決めなければならないし、よりよい「落としどころ」であった方がよい。しかし、それを「倫理」と述べるのは、いかがであろうか。
 「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」は、どうしようもなく現存してしまう。しかし、その枠の中で最善の方法を選ぶ、というのは、エコノミーの問題に過ぎない。なるほど、エコノミーは重要であることを私は認めよう。けれども、どの位置において重要であるかは、問われるべきである。たとえば、病院内や研究室内において、そのような指針は必要であるだろう。だとしても、なぜ重要なのか。それはいちいちその現場で考えていては、救われる者も救われないからこそ必要なのではないのか。そうだとすれば、そうした指針は「現場において思考を停止する」ための「処方箋」としてこそ、重要になってくるのではないのか。言い換えれば、エコノミーの問題――「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」という枠組みの中における最適解の問題――は、それじたい倫理ではあり得ないということである。
 それでは、倫理であり得るもの――と私が考えるもの――とは何か。それは、「そのような状況をなくしていくこと」に他ならない。つまり、二者択一を強いるこのような社会構造こそを倫理は問題にしなければならないのである。現実に二者択一をする場合においても、その選択は、倫理の位相において正当化されてはならず、処方箋や「落としどころ」の位相でしかないことを認識すべきなのである。難病研究をするために、胎児を中絶させ、胎児の細胞を利用することはないだろうが、それでも、中絶胎児を「効率的に」難病研究に利用することは、現場では考え得ることであろう。倫理は、この中絶胎児の利用/難病研究という二項対立をそれじたい破っていかねばならないのである。すなわち、この二項対立より先に考えなければならないことがあるということを、倫理は示唆する。それは「他の代替医療を難病研究に生かす」というものである。それでも、「犠牲」になる中絶胎児はいるだろう。そうしてよい、とは言わない。ただ、淡々と中絶胎児という死者を利用するというだけである。しかし、それはもはや倫理の位相ではないのだということである。

■「生の無条件の肯定」を支持する倫理へ

 本論の主張をまとめておこう。倫理学の初発の問い、すなわち「私はどう生きればよいのか」を考えることというのは、つまりは「生を根源的に肯定する」という位相が含まれていなければならなかった。これを、「私はどう行為し、生きるのが正当な生き方か」という位相にのみ還元して議論することにより、倫理学は生の肯定の痕跡を見失いがちになる。そして、ともすれば行為の正当性の判断基準について考えることこそが倫理学の主題であるという信念で物事を考えがちになる。倫理学がこのように正当化の論理だけを追求することを森岡正博は「正論の倫理学」と批判する。つまり、「正論の倫理学」は、自らの行為を正当化することによって、正当化された行為のみを行えと指令するため、自分が悪と向き合うことに関して目をそらさせるのである(24)。それを踏まえて言えることとは、「正論の倫理学」は、私たちの「生の現実」と向き合っていないということなのである。「生の根源的な肯定」とは、いま、ここに生きる私やあなたの生、そして、見知らぬ他者の生をも肯定しようとする。そして、そのような社会が望ましいという価値判断を下すことでもある。しかし、その価値判断の「正当な根拠」を求めてはならない。それは、私たちの「生の現実」から、危うくも、しかしながらしたたかに担保されるにすぎない。私たちがこの世界を感受しつつ、それじたいが根源的な意味で心地よい、そんなたおやかな感覚こそが、「生の根源的な、無条件の肯定」を担保し得るものであるだろう。


(1) [大庭 2006:v]
(2) 前掲書:v
(3) この主張こそが、根源的な意味における「承認」といえるのかもしれない。
(4) [プラトーン 1968:209]
(5) 前掲書:209
(6) 前掲書:210
(7) 前掲書:210
(8) 前掲書:211-212
(9) [岩田 1994:146]
(10)前掲書:146
(11)[小泉 2003:9]
(12)前掲書:9
(13)前掲書:29
(14)たとえば、衣服の着脱、食物の摂取、起床・就寝のような基本的なことを想定している。
(15)たとえば、いま何が食べたいか、お風呂に入りたいか、寝たいか、排泄をしたいかのような基本的なことを想定している。
(16)もちろん、介助に入っていく中で経験としてだいたいどういうことなのか、分かることはある。
(17)もっとも、その理由は違えど「行為の正当化」は功利主義の対極にあるとされる義務論にもあてはまるゆえ、「正当化」に関する部分への私の批判は義務論にも当てはまる。
(18)[伊勢田 2006:13]
(19)[若松 2004:39]
(20)前掲:38-39
(21)「すべての個人がxをyより選好するならば社会もまたxをyよりも選好しなくてはならない」という命題を(弱)パレート原理という([セン 1970=2000:47])。
(22)立岩真也の『私的所有論』は、私的所有原理を退けながら分配的正義を擁護するための原理を「他者を感受する快」に求めているが、これも一種の「正当化を求めない倫理」の姿であると言えよう。
(23)[鷲田 2007:259]
(24)[森岡 2001:390]

文献
平井亮輔編 2004 『正義――現代社会の公共哲学を求めて』、嵯峨野書院
伊勢田哲治 2006 「功利主義とはいかなる立場か」([伊勢田・樫編 2006:3-25])
伊勢田哲治・樫則章編 2006 『生命倫理学と功利主義』、ナカニシヤ出版
岩田靖夫 2004 『倫理の復権――ロールズ・ソクラテス・レヴィナス』、岩波書店
小泉義之 2003 『レヴィナス――何のために生きるのか』、NHK出版
森岡正博 2001 『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』、勁草書房
大庭健 2006 『善と悪――倫理学への招待』、岩波書店
Plato Apologia Sokratous, Kriton, Phaidon(=田中美知太郎・池田美恵訳 1968 『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』、新潮社)
Sen, Amartya 1970 Collective Choice and Social Welfare(=志田基与師監訳 2000 『集合的選択と社会的厚生』、勁草書房)
立岩真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
若松良樹 2004 「功利主義と立法の科学」([平井編 2004:21-41])
鷲田清一 2007 『思考のエシックス』、ナカニシヤ出版


★プロフィール★
野崎泰伸(のざき・やすのぶ)1973年生まれ。大阪府立大学OD。主な論文に「「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察――障害者の生に即して」(2007年大阪府立大学博士学位論文)、「生活保護とベーシック・インカム」(『フリーターズフリー』創刊号、発売元・人文書院)など。専攻:倫理学。主な研究テーマ:障害者問題。http://tateiwa.kir.jp/w/ny01.htm

Web評論誌「コーラ」02号(2007.08.15)
〈倫理の現在形〉第2回:「どのように<倫理>は問われるべきか」野崎泰伸
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