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■オリエンタリズムとしての対抗言説
 初めにお断りておく。筆者は僧侶でもなければ特定の宗派の信者でもなく、ましてや仏教史を専門とする研究者でもない。単に宗教への漠然とした関心から時折「仏教書」をひもとく素人読者に過ぎない。しかし、その素人の目から見ても首を傾げたくなることがある。本稿ではその一端について述べて、諸賢のご教示を仰ぐ縁にしたい。

 さて、ある人によれば昨年はちょっとした仏教書ブームだったのだそうだが、人々の関心が仏教に向くとき、そこには何かしら好意的な錯覚とでも言えるものがあるように思う。
 私たち「仏教書」ファンは、特に鎌倉仏教の達成を思うとき、仏教の可能性ということについつい期待を寄せてしまいがちになるようだ。しかし、仏教の可能性への期待を語る言葉として、これまでよくなされてきたのは、例えば次のようなものである。

「理性に信頼を置き、あくなき世界改造に進んできた背後には、近代ヨーロッパの「悪しき人間中心主義」があった。今、その反省が求められているのである。仏教はその当初から近代ヨーロッパにおけるような人間中心主義の立場を取ってこなかった。人間の行為を常に自己否定を通じて「浄化」しようとしてきた。」(立川武蔵『ブッダの哲学』p5)

 これは明治以来、繰り返し語られてきた言説の現代におけるステレオタイプな再演である。ここで立川氏の著作から引いたのは、たまたまこうした言説の典型的なものの一つとしてであって、この片言隻句をもって同氏のすぐれた業績をおとしめようというのではない。むしろ現代日本を代表する仏教学者であっても、なおこのようなオリエンタリズムを払拭できないほど、近代ヨーロッパ=理性万能=個人主義=利己主義の限界を乗り越える可能性が仏教にはある、という図式がいまだに影響力を持っている、ということを確認するために引き合いに出したにすぎない。
 ここでは、このオリエンタリズムの図式が前提とする、近代ヨーロッパ=理性万能=個人主義=利己主義という等式の不適切さを論評したりはせずに、ただ、これが日本の近代化の過程で生まれた欧化主義に対する対抗言説であって、そこには歴史的制約があるということを指摘しておくだけにとどめて、話を先に進めたい。

■「対抗原理としての仏教」という図式
(合理的だが浅薄な)近代的なものに対抗する原理としての(深い)仏教、という図式は、形を変えて、なおも再生産されている。
 例えば、末木文美士『仏教vs.倫理』(ちくま新書)にしてもやはりその弊をまぬがれていないように思う(以下の引用はすべて『仏教vs.倫理』より)。
 広い読者層に訴える仏教の入門書が刊行されたのはずいぶん久しぶりのことである。いや、一般読者向けの仏教書自体が、文学者らの体験的仏教論というものを除けば、非常に少なくなっていた。
 本書は、気鋭の仏教学者の手になる「今現在の問題」をあつかった清新な一冊である。アカデミズムの仏教学といっても、従来の仏教学者の大半は、いずれどこかの宗派に僧籍のある仏教者、学僧であって、その学問の本質は宗学であった。一見すると宗派色の薄いように見える般若心経の一般向け解説書も、高神覚昇『般若心経講義』や金岡秀友『般若心経』は真言の密教学の系統だし、往年のベストセラー、松原泰道『般若心経入門』は臨済禅の伝統を踏まえていた。法華経、阿弥陀経や、鎌倉仏教の祖師たちについての本は言うまでもない。
 ところが末木氏は、どこの宗派に所属しているわけでもなく、それどころか「仏教そのものも批判されなければならないところが多くあるはずだ」と、既成仏教から一歩距離を置いて語っている。これならば偏った意見に接することに警戒心のある読者にも受け容れやすかろう。宗教が、信仰の是非が問題になるや、非常に難しいことになり、ときには暴力的なまでの対立を生むことは私たちのよく知らされているところである。宗教には深い知恵が潜んでいそうだとは思っていても、偏った意見は困る、とうすぼんやりとではあるが感じていた(そういう自分に本書を読んで気づいた)。そこに「方法としての仏教」を標榜する本書の登場である。さぞや洛陽の紙価を高めたことであろう。
 ただ、筆が走っているように読めないところもなくはない。例えば冒頭の次の文章は気になる。

「せっかく手元に先人たちの深い思索の跡が残されているのであれば、それを活用しない手はない。しかも長い間の先人たちの積み重ねは日本の文化の深層レベルに沈められ、僕たちの発想を規定しているのではないか。仏教的な発想の解明は、同時に僕自身の深層の解明ではないのか。自分自身を差し置いて、どうして身につかない欧米の哲学のマネをする必要があるのだろうか。」p11

 これは著者自身(「僕」「自分自身」)にとってはそうだろう。しかし、「僕たち」にとってもそうだろうか。もし、この「僕たち」が、著者とその趣味嗜好を同じくする仲間たちのことであればとやかくはいわない。しかし、その「僕たち」が「日本文化の深層」によってその「発想を規定」されているものとされる限り、それはすなわちふつうの意味でのネイティブの日本人一般が想定されるはずである。ふつうの意味でのネイティブの日本人一般とは、移民及びアイヌ・琉球両民族をはじめとするマイノリティーを差し引いた、いわゆる大和民族のことだろうが、それにしたってけっこう数は多い。私自身は、あまり由緒正しくないにしても一応は清和源氏の末流(のはず)で、その限りではネイティブの日本人のはずなのだが、それでも著者のいう「僕たち」の中に含まれるかどうか自信はない。
 なぜかというと、貧しい私の本棚にも、仏教の概説書や教典とその解説書が何冊か積んであるが、それを開くことはめったにない。それこそ「せっかく手元に」と著者に嘆かれそうだが、漢文をベースにパーリ語だのサンスクリット語だのが飛び交う世界は、やはり異質な文化という気がする。
「どうして身につかない欧米の哲学のマネをする必要があるのだろうか」と揶揄する以上は、著者にとって、漢文ベースのパーリ語+サンスクリット語+中世日本語の世界は身についたものなのだろう。差し置いてはならない「自分自身」とは、漢文ベースのパーリ語+サンスクリット語+中世日本語の世界が身についた「自分自身」であるほかはない。それははたして私だろうか?
 しかも「長い間の先人たちの積み重ねは日本の文化の深層レベルに沈められ、僕たちの発想を規定しているのではないか」と仮定し、「仏教的な発想の解明は、同時に僕自身の深層の解明ではないのか」という以上は、「長い間の先人たちの積み重ね」が途切れることなく連綿と続き、かつ、「日本の文化の深層レベルに」のうちに「仏教的な発想」が、その本質は変わることなく維持されていることが前提となる。
 もし、漢文ベースのパーリ語+サンスクリット語+中世日本語の世界が身についていない私のような者もまた、「仏教的な発想」によって自らの「発想を規定」されている「僕たち」であるとするなら、現代の日常的な生活文化・習俗としての仏教、有り体に言えば葬式仏教にも「仏教的な発想」がその本質は変わることなく維持されていることになる。そうであればこそ「先人たちの深い思索の跡」が「せっかく手元に」残されていることになるはずである。
 著者は、本書第9章と第3部で、死者との共存という観点から、葬式仏教の見直し(改革への提言をふくんだ再評価)を図るのだが、それは何も難しい論理をひねり出さなくても、先に引いた文章の中に含意されていること、著者の伝統観、文化観、歴史観のうちから導き出されることなのである。

■仏教者ではない、仏教学者による哲学的思索
 このように考えてみると、ニュートラルな感じがして好感のもてた「仏教そのものも批判されなければならない」という姿勢も、少し斜に構えて受けとめたくなる。これは例えば、倫理学者が倫理学を批判的に捉えかえそうとすることと同じなのだろうか。私は実にうっかりと同じように思い込んでしまった。
 倫理学者が「倫理学」という枠組みを批判的に捉えかえそうとすることは、身を切られるような自己批判であり、自らの「深層を解明」するどころか、そのよって立つ地盤を掘り返すような作業であることだろう。そのような姿勢があれば、その倫理学者が平常どのような学説を唱えていようが、その言は聞くに値することだろう。
 けれども、本書の著者は、仏教学者なのである。従来の仏教学者がたいていは仏教者でもあったが故に、仏教学者が仏教を批判するとはたいへんなことであるように感じられたが、(あえて、なのかも知れないが)信仰の立場に立たない仏教学者が仏教を批判したところで、「学者」の部分は無傷である。
 研究対象を批判することは、著者が再三揶揄する哲学者たちにとっては当たり前のことである。デカルト学者が、心と身体は松果腺でつながっている、とか、真空は存在しない、などと真顔で主張したら、十七世紀ならともかく現代ならトンデモの烙印を押されるのは間違いない(たまにそういう人もいる)。ほとんどの人は批判的距離を取りながら哲学の古典を読んでいるはずである。
 倫理学の場合はどうか。倫理現象を主なフィールドとする研究者と、倫理学説に取り組む研究者がいるだろうが、いずれもやはりほとんどの場合、批判的距離をとっているはずである。さもなければ、倫理学とは単なる道徳のお説教に過ぎないものになってしまう(たまにそういう人もいる)。
 つまり、著者が自らを「仏教者」ではなく「仏教学者」と自己規定する場合、「仏教」に対して批判的態度をとることは、(哲学者や倫理学者がそうしているように)むしろ当然のことであって、自己批判でもなんでもない。批判的態度が「深層を解明」するような重い意味を持つのは、学としての仏教学に対して批判的であろうとした場合だろう。
 このような当たり前のことが、これまでの仏教学が事実上は各宗派の宗学の複合体であったが故に目新しく感じられてしまう。例えば、臨済宗の禅僧であった市川白玄の身を切るような自己批判『仏教者の戦争責任』と同様の意義を持つように錯覚してしまうのである。もっとも、こうした錯覚は読者の側に仏教及び仏教学についての予備知識がないことによって起こることであって、著者に罪があるわけではないかもしれない。
 それではこの著者は何者で、本書はいかなる書物か、ということになるが、仏教思想をフィールドとする古典文献学者による哲学的思索、というのが妥当なところだろう。哲学はなにも職業哲学者の専売ではない。そもそも大半の職業哲学者は西欧哲学をフィールドとする古典文献学者なのだから。そのような意味でこれはまぎれもない哲学書である。
 そうすると、宗教と哲学・倫理をことさらに対比して、宗教の特殊性を強調する必要もないように思うのだが、この著者にとっての「哲学」が西欧哲学史のことであり、宗教が仏教、ことに日本仏教のことであることを思い合わせれば、本書の主張はさほど難しいものでもなくなる。著者のいう仏教とは、西洋に対するものとして立ち上げられた東洋(日本)の理念を言うことになる。

■「嫌倫家」あるいは小市民として
 オリエンタリズムという点だけではない。近代批判という論点でも、末木氏の議論はその構えの次元では従来の論者と大きな違いはないようだ。『仏教vs.倫理』では、「近代的なもの」は、世俗の倫理道徳と言いかえられていく。

「戦争はいやだと思っても、人殺しはいやだと思っても、それでも拷問に耐え、家族まで巻き込んで、自分の信念を貫けるほどの強さはない。多分、裏では文句を言いながら、表では国に従い、世間に従うだろう。「長いものに巻かれろ」ではいけないと言われるかもしれないけれども、自分がそれに抗していけるほど強くないことは、誰よりも僕自身がいちばんよく知っている。」p19

 この文章を書いた末木氏は「倫理とか道徳とかいうのは大嫌い」という倫理ぎらい、いま流行の「嫌煙家」をもじっていえば、「嫌倫家」である。
 いや、まったく共感する。私も痛いのは苦手だし、世間体を気にするたちなので、きっとそうするだろう。戦争や人殺しはおろか、差別も抑圧も、他人を嘲笑玩弄したりすることも好まないが、世間一般がそちらに流れてしまったら、いったい自分一人に何ができるだろう、と途方に暮れるだろう。その時、倫理なんて何の役にも立たないことは明白だ。それどころか、従来の自分の価値観を否定するようなものが新たな倫理として唱えられるだろう。それに従わなければ平穏な生活を維持できないとしたら、私はどうするか。
 それでもレジスタンスに立ち上がるという人は、よほど強い人に違いないのだ。そういう人を私は嫉妬するだろう。内心の疚しさを晴らすために、そういう人の「偽善」を暴くために夢中になるかもしれない。こう考えると、私にも「嫌倫家」の素質はありそうだ。
 私は悲観的にすぎるだろうか。いや、そんなことはない。私は口では平和を望みながら、平和運動に参加したことがない。口では差別のない社会を望みながら、被差別者のためのボランティアをしたことがない。駅前の街頭募金を見つけると目をそらして通り過ぎるような男である。名前を書くだけでいい署名簿が回ってきてもめったに署名はしない。戦争などという大げさな事態を想定するまでもない。すぐ身の回りにいる弱者に対してすら手をさしのべる余裕のない小市民である。
 ここまでは「嫌倫家」と私は同じだが、そこから次の言明が出てくるとなると、違和感を抱く。

■倫理を語る資格/語られ方への違和
「そんなわけで、僕には倫理道徳を語る資格がない。倫理道徳を語る強さはない。」p19

 つまり「嫌倫家」にとって、倫理を語るとは強者の特権なのである。ここには、信念を貫き通す強さがなければ、いかに高尚なお題目を唱えようと無意味である、とする倫理観・人間観が表明されている。
 しかし、私は自らの小市民ぶりを自嘲することで、すでに倫理道徳を語っていなかっただろうか。
 それどころか、信念を貫き通す強さがなければ高尚なお題目を唱えようと無意味である、という「嫌倫家」の言説自体が、ある種の倫理道徳を説いてはいないか。「嫌倫家」は次のようにもいう。

「倫理的に立派なことは誰でもいえる。(中略−引用者)そんなご立派なスローガンを掲げたって、実際に何をするのですか、何ができるのですか、と問われたとき、いったいどのように答えられるのだろうか。口先だけでなく、どれだけ実践できているかが問題だ。ご立派なスローガンはまず疑ってかかる方が賢明だ。」p21

「ご立派なスローガンはまず疑ってかかる方が賢明」ということには、私も異論はないが、その批評の基準が「どれだけ実践できているか」にあるということに注目したい。つまり、倫理を語るとは強者の特権だ、という主張は、言行一致、決断したらすぐ実行、やり始めたら最後までやり遂げる、そういう実践家的人間像を理想とする道徳観が前提にあって、はじめて言えることなのである。
 そもそも、口で唱えただけで平和が実現され、差別が解消され、街頭募金に小銭を投入しただけで貧困が解決されるとしたら、そもそも倫理道徳など語るまでもない。そういう世の中は極楽とでもいうべきか、あるいは私が神仏になったかのどちらかだろう。
 スーパーマンにはなれない自分の卑小さを直視する、ままならぬ憂き世を嘆く、そのことのうちにこそ倫理的思考がはたらいていると考えるべきではないだろうか。そしてその実現が難しいということを語ること自体、ある倫理道徳を語っていることにはならないのだろうか。
 だが「嫌倫家」は、ささやかで屈折してはいるけれども倫理的な思考の可能性に足を止めることもなく超倫理の次元に飛躍する。

「おそらく「正しさ」に挫折するとき、倫理が貫けないと自覚したとき、そして倫理的な「正しさ」が本当にすべてなのだろか、と疑問を持ったとき、そこにはじめて新しい世界が開けてくるのではないだろうか。」p20

 それにしても、どうしてこんなに「正しさ」の不可能性にこだわるのだろう。すべてにおいて完全無欠の善人なんて現実にはいるわけがないのだから、気にすることはないじゃないかと私は思う。ふだんグータラな人間でもたまにはいいことを言う、そして、言ったことを実行できなくてもその発言(判断)自体の正しさはかわらない、語る資格を云々する以前に、すでに倫理道徳は語られている。それでいいじゃないかと思うのだ。
 ところが「嫌倫家」にとってそれは許されないらしい。倫理道徳の領域で物を言ったら完璧でなければならないらしい。倫理道徳とは一方的な勧善懲悪の図式からはみ出してはならないのだ。だからこそ倫理道徳は強者の特権であり、言行一致が貫けないときは「「正しさ」に挫折」したぁ、と、「倫理的な「正しさ」」を投げ捨てて「新しい世界」を求める。思春期の少年ではあるまいし、そこまで純粋さを求めても仕方ないように思うのは、汚れた中年の小ずるさだろうか。

■「弱者には宗教的救済を」でよいのか
 さてしかし、安直な大人ぶりっこですましてもいられないものが「嫌倫家」の言葉には含まれている。倫理道徳を語るにはそれを貫く強さがなければならないとしたら、それができない弱者には倫理道徳を語る資格がないことになる。「嫌倫家」は、だからこそ弱者には宗教的救済を、と説くのだろうが、はたして、それでよいか。これは一考に値することではないだろうか。
 もし弱者には、自らはその実現に寄与するところがないという廉で、倫理的正当性について述べる資格がないとすれば、世の中、踏んだり蹴ったりである。抑圧される側の人間はいっさいの抗議を封じられることになって、泣き寝入りどころか泣き面に蜂だから寝ているヒマもない。
 しばしば、真の弱者は不当な仕打ちに対しても抗議の声すらあげらないものだ、ということがいわれる。レジスタンスできる人は強い人だと「嫌倫家」のいうのも、これを指す。それは実際にそうなのだろうと思う。
 とはいえ、だからといって声高く抗議するものが似非弱者とは限らない。抗議できる強さがあるのだから弱者とはいえない、とは、あくまで声すらあげられない弱者の側に視点を置いた場合にのみ有効な議論だ。抑圧する側と抑圧される側がある限り、抗議の声をあげようがあげまいが、抑圧される側が弱者である。
 もちろん、不当な抑圧に対して、それは不当であると抗議の声をあげることは、それ自体でいくばくかは倫理的正当性にかかわることである。従って、抗議する側にも倫理的正当性が問われてくる。そこで、声すらあげられない弱者もいることを忘れるな、と、そういう声だけはあげられる弱者から問い直しがなされる。「声すらあげられない者も……」という声すらあげられない弱者もいる。ただし、これらはすべて抑圧されている側の問題である。逆に抑圧する側に視点をおいて発言された場合は、お前らは文句が言えるだけマシな生活をしとるのだから黙っておれ、という意味にしかならないから論外である。
 そこで、抑圧される側として抗議をする者には、声すらあげらない者の声を聴く、少なくとも声すらあげられない者がいることを想定して考えることが要請される。これは倫理的正当性(道義)に訴えて抗議する者に要請される倫理である。
 この倫理を、ふつうの意味での義務と捉えたら、それは決して完全に達成されることのない義務ということになる。いったい、声をあげられない者の声を聴く、極端な場合、死者の声を聴くなどということが、現実に満足のいくかたちで行われるだろうか。これはもう出来ない相談だ。シャーマニズムという手もあるが、満足のいくほどではない。そこに世俗の倫理道徳の限界を見出して「新しい世界」に向かうのが「嫌倫家」の潔癖さなのだろう。
 しかし、完全にはできないからといって世俗の倫理道徳を投げ捨てて「新しい世界」に往ってしまったら、なるものもならんだろう、というのが、世俗の垢にまみれて生きている人間の感想である。


★プロフィール★
広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年生まれ。ライター。著書に『東京怪談ディテクション』、『怪談の解釈学』(いずれも希林館)など。ブログ「恐妻家の献立表」

Web評論誌「コーラ」01号(2007.04.15)
〈倫理の現在形〉第1回:「「嫌倫家」末木文美士氏への違和感――『仏教vs.倫理』をめぐって」広坂朋信
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