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■女とポルノが出会うところ

  前回、某ブログの「BLにはまる女性たち」をダシにした分析モドキを批判したんですが、あのあと、やはり前回文中に登場してもらったMさんから、「ユリイカ」が近く「腐女子マンガ」特集を出すことを聞きました。実はMさん、この特集に書いていて、その原稿を先日読ませてもらったら大変面白かったものですから、今日はこれを手がかりに話をしたいと思っています。

  正式には「腐女子マンガ大系」といい、もう目次が青土社のサイトで見られます[臨時増刊号として6月12日に発売された。http://www.seidosha.co.jp/index.php?%C9%E5%BD%F7%BB%D2%A5%DE%A5%F3%A5%AC%C2%E7%B7%CF]。対象がマンガであって「腐女子」じゃないところが、ナルホドと言うか、個人的には好感度大ですね。「腐女子」というオタクな連中が仮想世界の男同士の愛に「萌え」るけれど、現実の恋愛やセックスには消極的だとかいうのだったらうんざりですから。

  そういうことって、根拠なしにいくらでも言えますからね。「マンガ」という枠を設けることで、そういうお喋りは一応防げるでしょう――あくまで一応、ですが。

  前に読売の朝刊で、変な記事あったでしょう。「性の風景」という題で、いつの時代の話だと思うような連載が続く中に1コだけ混じってたのが。[http://www.yomiuri.co.jp/feature/sfuukei/fe_sf_20060719_01.htm?from=os1参照]

  ああ、あれは、前にも一度同じ題で連載があって本にもなり、その第二弾だったんですけど、あんなヌルい、保守的な記事なのに、一度めのときは朝からセックスの話なんかやめろという抗議の電話が来たとか。こんな抑圧的な社会に生きているのかとあらためて朝から気が滅入る連載ではありましたが……。「腐女子」の回も、規範から外れた女たちのけっこう暗い話だったように記憶します。まあ、問題は全然そんなところにはないんで、私としてはかえってどうでもよかったんですが。だけどあれが逆に、恋愛も結婚もするヘテロの女性が、現実のゲイとは一線を画するファンタジーを楽しんでいるとかいう解説だったら、それもうんざりでしょう。

  なんにせよ、当事者としては下手に取り上げてほしくないという気持ちはあります。

  そこは「ユリイカ」だから、ヨミーとは書き手も読み手も違いますよ。去年「ユリイカ」は、「マンガ批評の最前線」という特集もやっていたんですが、そこに、今度の増刊号の目次にも名前の載っている金田淳子さんが、「ヤオイ イズ アライヴ」という題で書いていました。それを思い出してちょっと読み返してみたら、「やおい」をあくまでマンガ表現として論じるという立場だったから、今回の特集もその延長上にあるのではと推測します。

  守さん――目次に名前が出ているし、もうMさんじゃなく、守如子(もり なおこ)さんとお呼びしますが――のメインの研究対象は「レディコミ」だから、マンガの具体的な表現に添った分析はお手のものですね。

  でも、「やおい」を守さんが正面から扱ったものを見るのは、これがはじめてじゃない? それがまた興味深くもあるんですが。

  「ハードなBL その可能性」って、タイトルがまた直球ですね。

  内容もね。「女性は視覚的な表現を見て欲情しない」という俗説を否定する実例として、「ハードなBL」誌へ読者から寄せられた熱い手紙をまず提示し、「女性もフツーに自分の性的なファンタジーの「ツボ」を表明できるようになってきたのは文句なく良いこと」であると断言、直後、「このような方向性を切り開いてきたのが「やおい」である」といきなりのマニフェスト。そうだったのか!(笑)

  この、ネガティヴなところがみじんもない肯定が良いわ!

  戦略的というか一種のパフォーマティヴな記述ですが、これが爽快なのは、「やおい」があまりにも理不尽なおとしめや、見当はずれの攻撃を受けてきたという事実があるからです。ヘテロ女性のファンタジー「にすぎない」とか、男女を男同士に置き換えた「にすぎない」といった言説は、これを機会に一掃されてほしいもの――と、まあ、望むべくもないことを言ってみますが……。

  別に「やおい」でなくても(たとえ男女でも)、性表現を女性が「フツー」に楽しむことは、今なおこのような態度で肯定されてはいませんよね。

S  だいたい、「腐女子」っていう自虐的な呼び名自体が、そのことを物語ってますよね。男女ものを楽しむだけでも否定される(自分自身からも)のに、「女がホモの話を好む」というのは、二段踏み外しちゃってるわけですから。

  守さんは男女の表現である「レディコミ」の方がもともとのフィールドだけど、アカデミックな場ですらそうした研究テーマが困惑の目で見られることは、Sさんもブログで書いてましたね。[たとえばここ http://kaorusz.exblog.jp/2869587/

  ええ。現代の〈紋切型辞典〉を編むとしたら、「ポルノ」とは男が消費するもので女性差別の一形態、とかなんとかで、「やおい」の項目は、「ゲイ差別を助長する」で決まりじゃない? それが、守さんのいつもながらの明快な定義では、ポルノとは「マスターベーションに使うための性表現」ですからね。ポルノを消費する女性主体と商業的な女性向けポルノの存在とを積極的に肯定した上で、守さんは、「最も早く商業的なジャンルとして成立した女性向けポルノ」である「レディコミにおいても、ポルノグラフィックな表現を開拓・牽引してきたのは、同人誌出身のマンガ家たち――例えば、矢萩貴子、鎌田幸美、摩木子など――であることが良く知られている」と書いています。

  いやー、知りませんでした。(笑)

  「レディコミ『コミックAmour』を創刊した水野正文編集長によると、Hが書ける作家を探すために、「Juneや同人誌を手がける女性たちに、男×男で描いてきたことを、男×女に置き換えて表現してほしいと頼んだという」――つぎ、太字でいきましょう――「レディコミもまた、やおいの産物なのである。」見事な逆転ですね。

  反本質主義が良いです〜。

  表面上の男×男は、先行する(現実の)男×女の単純な置き換えにすぎない、という、そして、女の欲望はあくまで男×女が基本だという俗説への、アンチテーゼですよね。これで思い出したのは、シェイクスピアの美青年を称えた一連の詩を、学者たちが、儀礼的なものであって同性愛じゃないと長年言い張っていた件。前半の男×男と、後半の〈ダーク・レイディ〉と呼ばれる恋人相手の男×女(及び前半の美青年との三角関係)の二つの部分からなるシェイクスピアのソネット群のうち、前半を脱性化して、後半ばかりをシェイクスピアの現実の男女関係の反映と見ようとする解釈に対し、前半を同性愛とするばかりか、後半の男×女は、前半の男×男を男女関係に置き換えた偽装なのだとする読みです。

  Sさん、そのソネットの話、ブログに書いてましたね。

  十年以上前に出た本で読んだんですが、当時書いた文章が最近出てきたのでアップしました。[http://kaorusz.exblog.jp/6809107]そこにもあるように、「クイアー」という言葉の現在のような用法も、このときはじめて知りました。守さんの論考、クイアー批評ですよ。

■同性愛の〈表象〉

  私が連想したのはね、山岸凉子が「白い部屋のふたり」を、本当は男同士で描きたかったのに、許されなくて女同士の話にしたとか、反対に、「トーマの心臓」を女同士で描いたら生なましすぎて男同士にしたという萩尾望都とかですね。最初の話では、山岸凉子、レズビアンに興味あったわけじゃないんだ、とちょっとがっかりして、あとの方は、十代の頃に読んだんだけど、女同士で生なましいというのはかえって理解できなかったな。だって、まわりにいる女の子たち、それこそオナニーもしたことがなくて(たぶんそれは誤解だったんだろうけど)「純愛」に憧れてるようなのばかりじゃ、それこそ全然エロティックな対象として見れないじゃない。

  言ってることはわかります。欲望を持っている者に対してでなくては欲望できなくて、そして欲望を持っているのは男だ、と。「純愛」で思い出したけど、このあいだ、ある集まりで、明治から二十世紀の半ば過ぎくらいまでの「女性同性愛」の「流れ」についての、STさんの発表を聞きましたよね。彼女の修士論文であり、もともとは「女性同性愛」の「病気視」に対する「抵抗」を発見したいと思ってはじめた研究だったそうなんだけど……。

  結局、「抵抗」は見つからなかったという……悲しい結論だったのよね。 

  そう。性的には抑圧された愛情関係(少女雑誌の「エス」記事)と、男性向けに表象された「レズビアン・ポルノ」(戦後の風俗誌の、レスビアン=SMみたいな記事)に分かれてしまって、前者が後者に自分を見出すことはない。でも、あのとき思ったのは、あそこで研究対象とされた原資料って、公刊された雑誌の記事でしょう。そうすると結局は、「安全」で「無害」なものしか出てこないんじゃない? そして、たとえばSMのように性的に「過激」であることは、「安全」であることと矛盾しないんですよね。

  あー、制度を補完するものとして、ほどよく過激なわけね。でも、昔だって、実際に女同士の性的な関係がなかったわけはないって、あのとき参加してた人たちが言ってたよねえ。日記に書かないにしても、手紙は残ってるんじゃないかって。

  あと、むしろ制度化されない、名づけられないものとして、それを見出した人もいただろうと思うんですよね。記録に残す残さないは別として。一次資料が残っているかもしれないというのは興味深いですが、思いがけない形でそれはあるだろうとも思うわけです。「エス」の記事がここにありますよ、「レズ」の記事がここにありますよ、というかたちであるのではなくて。

  それを「同性愛」と名づけられたらかえって当事者がびっくりしちゃう、みたいな? 

S  一見「無害」に見えてラディカルという、さっきと逆もありうるでしょう。

  「同性愛」という言葉は、日本では最初、むしろ女同士について使われたんだそうです。これは知らなかったなあ。最初は問題視されたけれど、大正から戦前の昭和期にかけて、女学生間の「エス」は黙認されて「エス」記事花ざかり。というのは、見くびられるわけですよね、これは。女同士で何かできるわけじゃないって。

  女は性的なものから隔離されていなければいけなかった――さもなければ「ふしだら」とされた――わけで、本当に性関係だとはっきりしていればむろん認められなかったでしょう。守さんもあそこで発言してたけど、女同士だから認められないというより、女には性的な知識・経験一切認めないというのが基本ですよね。

  それが、わずか数十年で、「やおいは女性たちにさまざまなマスターベーション・ファンタジーを提供する母体になったのである」[守]のだからすごいよね! 

  「ふしだら」という他称から、「腐ってる」という微妙な自称へ――遅々たる変化とも見えますが……。だけど、「やおいが母体」っていうこの説はすごいと思いますね、私は。

  母なるやおい!(笑)

  つまりね、女には男へ向かう(正しい)欲望が生得的にあるとは認めてないわけですよ。さっき、Iちゃんが言った、「反本質主義」というのもそういうことだよね。むしろクイアーが基本で、異性愛はそこから派生したにすぎないのに誤って基盤とされている。「レディコミ」(女の身体や快楽を描く)や「やおい」でマスターベーションする女たちの、「性的指向」というものはどうなっているのか? 性的「指向」というのがそもそも「男性モデル」なんじゃないか。たとえ男と寝ていてさえ、女にはそもそもヘテロセクシュアルな欲望なんてものがあるのかどうか? とつぎつぎ疑問がわいてきます。

  ふーむ。ときどき新聞とかに、高校生くらいの性交経験率がこんなに高くなったという調査結果っていうのが、出たりするじゃない?

  ええ。今、同年齢では女の子の方が高いのよね。以前は当然のこととして逆でしたが。

   ああいうのを見ていつも不思議に思うのは、一緒に載っている女子のマスターベーション経験率っていうのが男子と較べればものすごく低いのに、誰もそのことに驚いたりそれを取り上げたりしないこと。だけど、マスターベーションも知らないのに、どうしてセックスしちゃったりするんだ? 

  昔だって、そのくらいの年でなんにも知らないまま結婚してさ、おつとめとして性交されて、ぼんぼん子供産んじゃってたんだから――なにしろ、「産む機械」だからね――別に、その頃から、社会的なプレッシャーから異性間性交を「強制」されるという点においては事情は変わってないんじゃない? ヘテロセクシュアルの男の場合、ポルノ的なものは社会に蔓延しているんで、たいていはきわめて制度的に欲望する主体としてかたちづくられて、それを「自然」と自分でも思うわけですが、そのときに、男の欲望を理解できない「女」というのが男と対比させて捏造される。鮎川信夫というとっくに死んじゃった詩人が――だからかなり前の話ですけど――週刊誌にこんなことを書いてました。息子の部屋にポルノ雑誌を発見してショックを受ける母親に対しての言葉なんだけど、男の子は一定の年齢が来れば精通があって、そのときから大人と変わらない快感があるんだからね、母親にはわからないだろうけど、と。

  なんだ、それ。女の子だってあるんだよ! 精通の必要すらない。

  (笑)そうそう。もっと小さいときからね。それを知らない「母親」は、そりゃ、いるだろうけど(知らなくても子は産めますから)。そういう「母親」は、過激な性描写のあるマンガが女の子に悪影響を与えるなんて言い出しかねない。そうだ、これも読売なんだけど、ボーズラブにハマっている娘を心配する母親の相談が出ていたんですよね。

  ああ、あれ……。「性描写の多い本に走る中2の娘」というタイトルで、相談者はどういう本かを具体的に書いているのに、回答者の男性がそもそもBLが何か全くわかっていなくて、女の子向けのカワイイものと想像しているらしいところが笑えました。

  だけど、鮎川信夫が言ってるような「母親」がいまだにいて、さすがに男の子だっ
たら自分と違うものとして考えるんでしょうが、女の子だと悩むのか。いやー、新聞っ
てほんとに役に立ちますね。貴重な実例として「お気に入り」に入れてあります。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/qanda/consul/20061117wn02.htm?from=yoltop

  このお母さん、中2でオナニー知らなかったクチですね。

  今でもじゃない?

I  結びの「父親にも相談できず悩んでいます」という紋切型がそこはかとなく面白い。

  「今まで何十冊と読んでしまった影響はどうでてくるのか」って、何心配してるのか、私には本気でわかりません。

  そりゃ、私たちみたいになるのを心配してるのよ。って、突っ込まれる前に言っておきます。

  でも、私たちみたいな存在をこの母親は想像できないわけだから、やっぱり謎だわ。

  だけど、「女の子」も性的快感を知っており、オナニーしているとしても、女たち――少なくともある女たち――にとってのポルノが、なぜ男同士たりうるのか、この空想はどこから来たのか、という疑問は残るよね。

  それはもちろん、外から来たんですよ。よく、女性のファンタジーだから現実のゲイとは関係ないって言い方を(やおいを弁護するつもりで)する人がいるけど、ファンタジーは閉じたものじゃない。「腐った」頭の中で作り出したんじゃない。「やおい」に書かれたものを、「あれはゲイじゃないよね」とバカにしたように言う人には、私は、「でも、ゲイの表象だよね」と言うことにしています。STさんの女性同性愛史についての発表では、男の同性愛の表現との比較もされていましたが、男色の資料は言うまでもなく連綿としてあるわけです。明治以前は空白という女同士の場合とは、その点比較にならない。それに加えて、明治以降、たとえ男色は遠ざけられても、女を排除した男同士の関係というホモソーシャリティの賛美は現在に至るまで続くわけで、男同士のモデルっていうのはいくらでもあります。

  女たちがそれを流用して、ホモソーシャルにホモセクシュアルを読み込むのに十分なくらいに……。

  そう。「母体」になれるくらいに。これはけっして日本だけの特殊な話じゃなくて、女を排除した男の友情ものとか、西部劇とか、そういう要素を濃厚に含んでますよね。ホモソーシャルとホモセクシュアルは紙一重(こう言うと、ホモソーシャルとホモセクシュアルは「違う」んでしょう、と知ったかぶりをする人がいますが、そういう人は、ホモフォビックな言説そのものをなぞっているんだと自覚してほしいですね)。

  男×男のように女性に訴えかけてくるような、女×女モデルはなかったわけですね。

  女学生たちがかろうじて「エス」モデルで自分たちの関係をかたちづくったとしても、性的であることイコール男のための見世物ならば、性的なものの抑圧にとどまるしかなかったでしょう。現実にも、大部分の彼女たちは結婚して妻/母になるしかなかったでしょうし。「エス」とポルノはけっして重なることがなかった。女にとってのオルタナティヴなエロティック表象はそっちからは来ず、意外な方向からきたということではないでしょうか。

■〈男〉と〈女〉と〈攻め〉と〈受け〉

  このあと、守さんの論考では、男性向けポルノコミックと比較しながらのBLマンガの具体的分析が続くんですが、その基本になる概念が「攻め/受け」です。もちろん、これが「やおい」の特徴だということはさんざん言われているわけですが、守さんはこの二項対立を「すべてのポルノコミックジャンルに」まで拡大適用するんですよね。

  これがまた面白い。「攻め/受け」の固定化というのは非常にプロブレマティックで、だから「やおい」は男女関係の偽装だとか、女はもともと受けだから受けを理解するといった言説を許してきた、そもそもの要因でもあるわけです。

  実際にはゲイ男性はそんなにアナル・セックスをするわけじゃないから、BLは男女の模倣だって言い方をされますよね。

  だけど「攻め/受け」って、ジャン・ジュネの小説においてもはっきりしてるものだし、ギリシアの昔から、これにこだわってきたのはそもそも男なんですよね(D・M・ハルプリンの『同性愛の百年間?ギリシア的愛について』が参考になります)。というのも、権力関係がそこにかかわってくるからで、ハルプリンのいう古典期のアテナイ人にとって、「受け」のポジションは公式には女/奴隷/外国人のものだったわけです。

  身も蓋もありませんね。よき市民は「受け」にならないわけですね。

  このうち「女」だけは、「奴隷」や「外国人」のような社会的身分と違い、そもそも〈生物学的〉に「受け」だと思われがちなわけですが、守さんの「攻め/受け」概念は、さっきIちゃhんの言ったような拡大適用の結果、次のようなセンテンスの中に収まることになります――「「エロ劇画」と「美少女コミック」にはさまざまな違いもあるが、男性が「攻め」で女性が「受け」という作品が圧倒的多数を占めているという共通性ももつ。」

  なにげに男女のポジションを相対化してのけてますね。

  そうなんですよね。その前のところで、彼女は「攻め/受け」は挿入に限られないとする手続きを踏んでいて、たとえば乳首への愛撫という行為を例に引いて、BLで「「受け」が「攻め」の乳首を愛撫するシーンは私の見た限り存在していなかった」と言っています。この「固定化した役割関係」がBLに特徴的だというんですね。アメリカのゲイポルノ小説などを見ても、トップとボトムはあっても行為は相互的ですから、このレヴェルでBLの描写の不自然さを言うことは確かにできます。ところが、守さんの記述は、「攻め/受け」役割を推し進めた結果の、男=攻め、女=受けポジションの非-自然化へ至るんですよね。

  そう、守さんの分析装置では、人間は女か男かより、受けか攻めであることの方が基本なわけですね。

  でも、これはそんなに変わったことではなく、フロイトも男女とは何かという答えに能動/受動しか見出せなかったんだから、これが異様に見えるとしたら、その人がいかに前提としてのヘテロ機制に侵されているかということでしょう。

  こうして「受け」の性別にかかわりなく、男性向けポルノコミックとハードBLを同じ土俵で比較できる装置を作っておいて、守さんは、両者の共通点として、「受け」の身体がコマの中心に置かれていることを挙げます。これも、通常なら、女のエロティックな身体が中央に置かれることは当然とスルーされるところですよね。

  性別を問わない、一次的に快楽を得る「受け」の身体として、事態を記述しなおしている……。

  読者についても守さんは、「セクシュアル・アイデンティティ」という言葉を「攻め」に同一化するか「受け」に同一化するかという意味に使って、どちらにアイデンティファィするかによって読者は攻め/受けの快楽を得る、というふうに記述します。

  ここのところも、男は「攻め」に同一化して、女は「受け」に同一化するのが当然と思っている人が多いでしょうから、かなり変わったことを言っていると取られるか、あるいはそれ以前に守さんの記述を読みえない、つまり、男性読者は攻め/女性読者は受けの快楽を得ると誤読する人も多そうです。私にはすごくわかっちゃうんですが。

  ただ、ここまで主体の性別とその同一化する対象の性別の組合せを自由にしてしまうと、なぜ男同士かということがぼやけません? 

  そこは、一周してもとに(とはいえ螺旋状に別の場所に)戻ってきた感じですね。なぜ「男同士」かというより、なぜ、一次的快楽を得る者(=受け)が、通常とは異なり男性として表象される事態が起こっているのかと質問を書き直した方がいいのではないかという気が、今してきました。

  というのは……どうして? 

  性的対象が「同性である」っていうのは、たんに見かけ上のことですから……。つまり、守さんが「セクシュアル・アイデンティティ」という言葉を使っているところで、私は「エロティックな同一化の対象」という言葉を使うんですが、ある人の性的特質としては、性的対象の性別(いわゆる性的指向)よりも、「エロティックな同一化の対象」の性別の方が重要だとつねづね思っているわけです。別にどっちかに限らなくても、その時々で変わる、でも――「同一化の対象」がバイであったって――いいんですが、その場合でも、男女どちらに同一化するかで味わいは違ってきますからね。

  そうなると、対象に同一化する際に性別は二の次で「攻め」か「受け」かが前面に出る今回の守さんの問題系とは、重なりつつズレるのかも……。

S  一周してその問いに戻ってきたところで、守さんの論考を紹介しえたことに満足して今日は終りにしましょう。この先は、もう少し問題を整理した上でまたあらためてということに。


★プロフィール★
鈴木薫(すずき・かおる)守如子さんが、ここで話題にした特集号を送って下さった。しかしもう読み通している時間はない。とりあえず上野千鶴子と香山リカの文章に、続けて(ページが続いていたので)目を通す。「オタクが性別対称性を持たない以上、オタクの女性版を「女オタク」と呼ぶのは正しくない。したがってあまたある「オタク論」は「男性論」であることの限界をわきまえるべきだ(......)」(上野)。さすが。知識はなくても構造を見抜いている。私が前回、女のオタクは存在しないと書いたのはまさしくこういうこと。どこまでも「女子文化」と決めつけるところはわかってないなと思うが、別にこの人にわからなくてもいい。香山リカ。酷い。最初の一行から最後の一行に至るまで、知識も理解も洞察力もないワイドショートーク。嘆息して本を閉じようとしたとき、上野の論考の前にある金田淳子/三浦しをん対談の最終部が目にとまる。「金田 そうなんですけど、やっぱりオナニーをしたことがない女性というのもいるみたいなんですね。/三浦 それは男性のあいだにある都市伝説では?(笑)」【ソンナコトナイヨ。】「金田(......)だから、不思議に思ったのは、そういう人はセックスも楽しめているんだろうかということなんですね。」【そうそう、そうなんだよね!】

〔付記〕本稿および上記の「プロフィール」原稿は最初6月半ばに書かれ、8月初めになって手を入れました。時の推移につれて書き足したいことも出てきましたが、全体の構成もあり今回は断念しました。しかし、一つだけお知らせしておきたいことがあります。現在TV東京他で放送中の深夜アニメ『鋼鉄三国志』についての考察は書き足したいことの一つだったのですが、上記の通り今回は見送り、その代り(?)、『鋼鉄三国志』ベースの小説を書きはじめてしまいました。8月26日に友人の参加するイベントで委託販売し、11月11日の三国志オンリーイベントとやらでは、私自身も売り子をする予定です。『鋼鉄三国志』については、現在、頭が評論モードではないため、すでに『新古今』の世界です、とだけ言っておきましょう。 ブログ「ロワジール館別館」

Web評論誌「コーラ」02号(2007.04.15)
「新・映画館の日々」第2回:やおい的身体の方へ(鈴木薫)
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