ベトナム旅情
(1997年7月29日〜8月2日)
|
(以下の記事はもうだいぶ古くなっています。そのつもりでお読みください。) 【為替レート】100ドン= 約1円 1、サイゴンの風景
到着してまず目に付いたのがバイク。信号が赤から青に変わると、洪水のごとくいっせいに走りだす。みんなツッカケで運転している。バイクは人気があり、若い人の多くはバイクをもっているという。 ベトナムではバイクのことを「ホンダ」というのだそうだ。見るとたしかにホンダのバイクが多い。1台約20万円。公式の統計では一人あたりGDPは年間4万円である。しかし、4万円では20万円ものバイクを買えるはずがない。実際はなんらかの方法でもっと収入があるのだろう。 50CC以下では免許は不要であるが、70CC以上は免許が必要である。しかし、実際に運転している人の大半は免許をもっていない。なぜなら、事故を起こしたとき、免許をもっていてももっていなくてもペナルティは同じなので、誰もとらないのだという。 深夜になると、街の中をバイクにのったアベックが同じところをぐるぐる回ってドライブを楽しむ光景が毎晩見られる。バイクには大人二人に子どもは何人乗せてもOKとのことである。しかし、小さなバイクに4人乗っているのを見たときはさすがに驚いた。
バイクと並んで、庶民の足として使われるのが「シクロ」である。しかし、乗るところは汚いし、シクロを引いている人の中には相当いかがわしい人もいると聞く。 そういう噂が出回っているためか、「このおじさんはいい人です。新潟県○○市××××」と、日本人観光客が書いた「証明書」まがいのものを提示する人がいたのには笑ってしまった。私も1ドル払って乗ってみたが、降りたあとも「ワタシビンボー、ニホンジンカネモチ」と片言の日本語で話し掛けてきて、「引き続き乗れ」としつこく付きまとわれて大いに困った。 その点で安心なのはタクシー。タクシードライバーはベトナムではエリートである。英語でやりとりができ、料金もメーター制で明瞭。サイゴン市内からオムニサイゴンホテルまで10分余り。料金は34000ドン(340円)であった。チップに1万ドンあげた。
2、経済生活 ベトナムの貨幣は「ドン」。100ドンで1円である。フランスパン1個3000ドンなんて聞くとギョッとするが、大したことはない。むしろ、ゼロを二つとるだけだから分かりやすい。ベトナムでは一時年率400%のインフレに見舞われ、いまでもアメリカドルや「金」で財産を保有する人が多いらしい。
実際、町ではドンと並んでドルでも買物が自由にできた。むしろ、ドルで買物をしてくれるほうが喜ばれたようにも思えた。労働者の平均的な給料は1ヵ月7000円くらいである。 これに対して警察官は約1500円、学校の先生は約3000円だという。これでは食っていけないので、みんなアルバイトをしている(そうしなければバイクなんか買えるはずがない!)。 アルバイト代は少なくても給料と同額か、多い人はその数倍にのぼる。警察官はアルバイトができないので、罰金を見逃す代わりにチップを受け取る。 交通違反をした人が10万ドンの罰金と言われ、罰金を払おうとしたら警察官が急に怒りだしたという。彼は10万ドンの罰金ではなく、2万ドンのチップを期待していたのである。 一方、学校の先生は社会的には尊敬されているが、給料があまりに安いので人気がない 。われわれの日本語ガイドをつとめたトンさん(33歳)も、もとは高校の物理の先生だった。父も元高校の校長だった。あまりに給料が安いので、トンさんは8年前に教師を辞め、いまの日本語ガイドになった。 ただし、ベトナムでは日本語をやる人より英語をやる人のほうが圧倒的に多いらしい。一般的に、公務員は一番給料が低いので、親としてはやらせたくない職業である。
1986年、社会主義政策の誤りに気づいたベトナムは、ソ連に先駆けてドイモイ政策を実施し、市場化への道を歩みはじめた。ホーチミンは生涯妻も家族も持たず質素な生活を送った。ホーチミンの社会主義政策には反対だが、ホーチミンは好きだという人は意外と多い。ちなみに、旧サイゴンは現在はホーチミン市と名前を変えているが、地元の人は相変わらずサイゴンと呼んでいる。 サイゴンの公式の人口は400万人。しかし、実際には600〜700万人はいるらしい。サイゴンでは地方の10倍は稼げるから、人が集まってくるのも当然かもしれない。サイゴンで暮らすには、1ヵ月200ドルは必要だということだった。 町の中には1キロメートルに一つは市場がある。サイゴンのシンボルともいえる「ベンタイン市場」に行ってみた。1928年に作られたそうで、建物は国営で、中は権利金を払って営業している個人の店が400軒入っている。 食料、雑貨、衣料など何でもあった。ちなみに、Tシャツ3ドル、ナイキ(?)のポロシャツ3.5ドル、ネクタイ3ドル、タ イピン1ドル、煙草1ドル、テレビ400ドル・・・といったところか。おみやげにTシャツ、ナイキ(?)のポロシャツ、ネクタイを買った。
3、食事
4、ベトナム自然と民族 雨季といっても日本の梅雨のように朝から晩まで雨が降るのではなく、午後3時頃から1時間程度のスコールが降る。にわかに雨雲が広がったかと思うと、いきなり大粒の雨が降ってくる。眼鏡が飛ぶほどではないが、かなり大粒である。車はみんなヘッドライトをつけている。しかし、傘もささずに出歩いている人が多いのには驚いた。子どもも雨の中で気にせず遊んでいた。 ベトナムの南部はメコン川のデルタ地帯となっている。メコン川は川幅が1〜3キロメートルで、川の水は茶色そのものである。川には橋が1本もかかっていない。川の両岸には堤防はなく、そのままたんぼになっている。したがって、肥料はあまりいらない。 川の周囲には中州があり、その間をクリークが走る。そしてクリークを抜けるとすぐ川の本流に入ることができる。1年に3回米がとれ、メコンデルタの農民は比較的豊かであるという。とくに、果樹園経営はもうかるとのことであった。訪れた果樹園のある中州は、幅が1キロメートル、長さが11キロメートルもある大きな島であった。
(民族) ところでベトナムの民族衣裳というとアオザイである。アオはドレス、ザイは長いという意味だそうだ。ピンク、ブルーなどさまざまな色がある。学生の制服に使われる場合は白である。ズボンは基本的には白。ただし、アオザイは不便なので、日常はあまり使われないという。
(宗教)
バスの中で見つけたお守り。しかし、彼らはこの文字を読めない。
19世紀に建てられたサイゴン大教会。フランスの影響が色濃い。
(住居)
5、ベトナムの歴史 938年、ベトナムの呉権(ゴークェン)は、唐滅亡後に広州に成立した南漢国をバクダン川の戦いで破り、ベトナムを中国の支配から解放した。そして1010年には大越国として独立し、李朝、陳朝、後期黎朝などが栄えた。 その後、無能な王が続いたため南北に分裂したが、1802年、ゲン福映により再び統一され、越南国と称し、都をフエに置いた。しかし、この際フランスの志願兵と宣教師の助けを借りたため、フランスの介入を許すこととなった。ちなみに、ベトナムという現在の呼称は、「越南=ヴェツナム」に由来する。 1884年、ベトナムはフランスとの戦争に敗れた。その結果、1887年には仏領インドシナ連邦が成立し、ベトナムはフランスの保護領となった。その後、第二次世界対戦中には、フランスがヒトラーに敗れた機に乗じ、日本がベトナムを支配した時期もある。
6、ベトナム戦争(1965〜1975) 1965年、アメリカによる本格的な北ベトナムへの攻撃(北爆)が始まった。ベトナム戦争は資本主義と社会主義との戦いであり、また、一つの民族による「南北戦争」でもあった。戦争は約10年間続いたが、戦いはすべて南ベトナムで行なわれた。 1968年当時、ベトナムにはアメリカ兵54万人、韓国兵5万人、オーストラリア兵7千人など合計60万人が投入された。しかし、結局この戦争でアメリカは勝利をおさめることはできなかった。南ベトナム国民のうち、上流階級はアメリカを支援したが、貧しい農民の多くははベトコン兵士を応援した。社会主義になれば豊かになれる。そんな幻想が彼らを必死に戦わせたのかもしれない。 サイゴンにある戦争記念館には、ベトナム戦争で実際に使用された武器や戦闘機、あるいはベトコン兵士の処刑に使われたギロチンなどが展示されていた。 また、ホーチミン市から北西へ約70キロメートル。カンボジアへ抜ける途中にあるクチには、ベトナム戦争で使われた地下トンネルがある。20年間にわたって掘り続けられたトンネルの総距離は250キロメートルにも及ぶ。ここはベトコン兵士の拠点で、難攻不落の場所だったところでもある。ベトコンゲリラは「どこにも見えないが、どこにでもいる」と言われたゆえんである。 現在はほとんどが壊れてしまって、一部が観光客用に保存され開放されている。トンネルの中には、台所、寝室、病院、作戦会議室などのほか、映画館まである。トンネル内には所々「落し穴」が仕掛けられており、落ちると竹槍の餌食となる。狭いトンネルを中腰で歩くとすぐに足腰が痛くなりまいった。 ベトナムには地雷がほとんどないと聞いた。せめてもの救いかもしれない。 Cuchi の地下トンネル
7、ベトナムの未来
また、現在ベトナムが抱えている問題を4つあげてもらった。一つは高官がワイロをとること。バレれば死刑になることもあるらしい。二つ目が麻薬。ミャンマーやタイから入ってくるという。三つ目が暴力団。ナイトクラブや市場のミカジメ料で荒稼ぎしているらしい。四つ目が売春。田舎出の女性が多く、AIDSも多いらしい。 国営のショッピングセンターで買物をしていると、本物の蝶々を集めたきれいな標本が目を引いた。見ると38ドルと書いてある。「高い!」と日本語で言うと、「30ドル」と日本語で返してきた。なお「高い!」と言うと、「いくらならいいですか、社長!」と言われたのにはびっくりした。売るためには日本語だって英語だって必死に勉強する。ベトナムではいま、みんな貧しさから脱出しようと懸命である。生きていくのに必死である。 ベトナム人の顔つきだけを見ていると、日本人とまったく区別がつかない。しかし、その心の中には、日本人がすでに失ってしまったハングリー精神がみなぎっている。ベトナムには有望な油田も存在している。20年後、30年後が楽しみな国であるという印象をもった。
|