源泉徴収制度の弊害 (2017年12月4日)
納税は義務か?
アメリカ、ドイツ、フランスの憲法に納税の義務に関する記述はない。ところが日本にはある。明治憲法下では、主権者である天皇に対して、非統治者である臣民に納税の義務が課せられた。兵役の義務と納税の義務の二つは一体的なものとして臣民に課せられた。金で払う義務が納税で、血で払う義務が兵役(=これを血税という)というわけである。
古来、税金とは非統治者が統治者から強制的に課されるものであった。ところが、日本国憲法になっても、なぜかこの義務規定が残ってしまった。国民が主権者となったからには、自分たちの社会を維持するために必要なコストは、自らの意思で負担するというのが筋であり、憲法に納税の義務を盛り込むこと自体おかしなことである。
源泉徴収制度の弊害
日本の税金は、全国で524か所ある税務署が国税を扱い、都道府県税は県税事務所、市町村税は各市町村が扱う。納税方法は基本的には申告納税制である。納税者が「税法」に従って、自ら税額を決定し申告する制度である。これに対して、ヨーロッパでは賦課制度が採用され税務計算は税務署の仕事とされる。納税者は税務署に資料を出すだけである。(ちなみに、日本の公務員数が少ないのは、税務計算を納税者に課しているためかもしれない)。
1940年に戦時財政を賄うために「源泉徴収」制度が導入され、さらに1947年には「年末調整制度」が導入された。この制度により、大半の給与所得者は税務計算を会社が行なってくれるため、所得税額を自分で計算するという煩わしさから解放されることとなった。
しかし、そのことは日本の申告納税制度に深刻な打撃を与えることともなった。納税者が税金から切り離され、単なる納税マシーンとなったからである。自ら税額を計算し税務署に申告するという機会がないまま、多くのサラリーマンは「必要経費」やさまざまな「控除」に対する関心をもたなくなってしまった。
戦時中の標語に「黙って働き、笑って納税」というのがあったが、まさに「寄らしむべし、知らしむべし」の状態に置かれてしまったといえる。現在、日本の給与所得者は4600万人であり、そのうち確定申告をした人は925万人にとどまる。申告した人の割合は20%に過ぎない(2013年)。しかも、本来お上の仕事である税務計算に協力しているにもかかわらず、申告した税額に間違いがあれば、それは申告者の責任とされ、税務署から「怒られる」というおまけつきである。
主権者としての租税教育
現在、国税庁が行なっている「租税教育」は、「皆さん、国民の義務としてちゃんと税金を払いましょうね」というものである。そして、小中学生や高校生に「税に関する作文」を書かせ、税金がいかに社会のために役立っているかを啓発している。しかし、こうしたことは本来の租税教育とは全く異なったものである。
一般に「税金の使われ方」は選挙の大きな争点になるが、「税金の取り方」についてはほとんど議論がなされない。税法は難しすぎて理解できないこともあって、せいぜい消費税引き上げに賛成か反対かというレベルである。もっと突っ込んだ形で「誰から」「いくら」徴収するべきかという議論がなされてもよい。特に安倍政権になってから、財界の強い要請を受けて大企業や富裕層に対する租税優遇措置が進められてきた。そのツケが消費税や社会保険料の引き上げ、あるいは財政赤字である。国民は、こういうことにもっと関心を持つ必要がある。
昔、大学で習った統計学の教授が
「統計とかけて、ビキニスタイルの美女と解く。その心は?」
「見たいところが隠されている」
と言っていたのを思い出す。名言である。企業の納税額や優遇措置について、もっと国民に分かるように情報公開すべきである。
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