何千人殺せば (2017年8月16日)
インパール作戦とは日本陸軍によって1944年3月から7月まで行われた作戦である。当時、イギリスが支配するインド北東部部の都市インパールは、アメリカやイギリスが中国を支援するための補給基地となっていた。日本軍はこの補給ルートを断つためにインパールの攻略を試みたのである。投入した兵士9万人のうち、3万人が戦死または餓死・病死、4万5千人が傷病者となり、歴史的敗北を喫した。
1、何千人殺せば敵陣をとれる?
大敗を喫した最大の理由は、日本軍が補給線を軽視したことである。1日に必要な糧の10分の1程度の補給能力しかなかったといわれる。その結果、前線の部隊には一粒の米、一発の弾薬も届かないような状況がうまれた。死者のうち6割が飢餓や病(マラリア、赤痢)によるものだったという。
朝になると隣で寝ていた兵士が死んでいる。「人が死に、しばらくすると染み出た脂で軍服が真っ黒になる。ハエがたかり、目玉にウジが盛り上がってな。遺族には、そんな死に方をしたなんて言われへん…」(産経WEST 2014年8月15日)
作戦続行が困難になる中で、それでも軍の上層部は作戦の続行を前線部隊に命令した。「何千人殺せば、敵陣をとれるか?」。これは軍上層部が前線に送ってきたものである。敵を何千人倒せば敵陣を奪うことができるかという意味ではない。日本の兵隊を何千人犠牲にすれば敵陣を奪うことができるかという意味である。軍の上層部は、兵隊をそのような存在としてしか見ていなかったのである。
2.平和憲法
日本国憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される」とある。これは明治憲法の「全体の利益のためには、個人は犠牲になっても仕方がない」という考え方を否定したものであり、日本国憲法の最も重要な価値観をあらわすものである。「何千人殺せば敵陣をとれるか」などという、人の命を命とも思わない時代には二度と戻ってほしくない。
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