国語の勉強の仕方
日本語だと思って、軽く考えていませんか?

 

高校3年生の小論文指導をしていて驚くことの一つに、受験生の国語力が非常に弱いということがあげられる。とくに、長い文章を読んで、筆者のメッセージをつかむ「要約」する力がない。だいたい、小論文の出題で一番多いのは、長文を読ませて、本文を要約させ、次にそれに対するあなたの意見を書け、というパターンである。ところが、肝心の要約する力が全くない。

 そんな体験から、小論文指導の延長として、いつのまにか国語(=要約)の指導にまで関わることが多くなった。もちろん私は国語教育については素人である。しかし、長年の間に、何千冊という本を読んできたから、読書に関するそれなりのノウハウは身に付けているつもりである。以下、 要約を中心とする私なりの文章の読み方についてまとめてみた。

 ただし、ここに書いたのはあくまで一般的な書物を読むために必要とされる日本語力の習得方法であって、センター試験のような「意地悪い」設問を 、超短時間で解くことができるようになるための方法ではない。そのあたりのことについては、国語の先生から教わって欲しい。 (ちなみに、私見によれば、国語力をセンター試験のような形式ではかることが可能かどうかは疑問がある)。

 

1.予想外に差がつく国語

 国語はあまり差がつかないと思われがちだが、とんでもない誤解である。50点や100点の差は簡単に ついてしまうのが国語である。ゆめゆめ国語を日本語だと思って、あなどってはならない。

 とくに、漢文や古文は勉強した量に比例して力がつくから、きちんと基礎を勉強しておいて欲しい。古文の場合、文法のほかに基礎的な古語を外国語だと思って500語程度は覚えておいて欲しい。

 漢文は、授業で理解した後、何回も音読するに限る。1年間に習う漢文の量なんて、全部音読しても、慣れた人なら3時間もかからない。裏技として「三国志」や「史記」などの漫画本を読んでおくことも、漢文の勉強には大いに役立つことも知っておこう。
 
問題は、現代文である。

 

2.偏差値30台から60台へ

 現代文が苦手だという生徒がいた。模擬試験ではいつも国語の偏差値が40以下で、国語の成績が足を引っ張っているという。聞けばあまり本も読まないらしい。そこで、私は二つのことを提案した。

 第一に、何でもいいから、自分で好きな本(または本の一節)を読んで、それを100字以内で要約してもってくること。文を読む際はキーワードをマルで囲ったり、因果関係を矢印で結びつけたりさせる。そして、生徒が読んだ本を私自身も読み、私自身も100字以内で要約する。そのうえで、生徒の要約と私の要約のどこが違うかを照らし合わせる。

 時には、答えを教えず、何日でも考えさせる。教えれば1分で済む。しかし、答えを教えても国語力は身につかない。ともかく本人にトコトン考えさせる。もうこれ以上は限界だ、ギブアップ、というところまで考えさせる。そこまで考えさせて答えを言うと、まさに「目から鱗」である。いきなり教えるのとは学習効果が全く違う。そうした作業を2〜3ヶ月続けた。

 第二に、学校の国語の授業では5分でも10分でもいいから必ず予習をし、その日やる部分で筆者が何を言いたいかをつかんで授業に臨むことを求めた。

 効果はてきめんだった。次の模擬試験では、いきなり偏差値が60台に跳ね上がったのである。細かいことは一切教えなかった。要するに筆者は何を言いたかったのか。それさえつかんでしまえば、後のたいていの問題は解ける「はず」なのである。この例は少しできすぎかも知れない。しかし、こうした実例があったという のは本当である。

 

3.国語力を伸ばすための方法
 
@授業の予習をすること
 国語力をつけるには、まず授業の予習をすることである。ところが、これをやって来る生徒はほとんどいない。英語などと違って、日本語だから予習をしなくても「わかる」と誤解をしているらしい。しかし、たった10分ほど予習をするのとしないのとでは、授業の効果が全く違う。それは実行してみれば分かる。

 予習の目的は、筆者の言いたいこと(=メッセージ)が何かをつかむことである。これなら10分の予習で十分出来る。そして、授業ではそのメッセージを正しくピンポイントで捉えられたかどうかを確かめる。もし、先生の解釈と違っていれば、そのズレがなぜ生じたかを修正していく。それを繰り返せば、早い場合は3ヶ月くらいで偏差値が10〜20くらい上がることもある。
 

A予習の要約は自分の言葉で
 
少し挑発的な言い方になるが、国語が弱い生徒は、国語の授業を受けていながら伸びないわけだから、国語の先生とは違ったやり方がいいのかも知れない。では、具体的にはどうするのか。

 まず、文章を読んだら、自分の言葉で筆者のメッセージをまとめること。要するに、「この人ははこんなことを言いたいんやろ」、と自分流にまとめることである。その場合、集中して読み、文章全体を通して、筆者のメッセージを「ビビーン」と感じとること。

 自分の体験の中から、メッセージに該当するような事例を見つけ出すことが出来れば、一番いい。我々が本を読む場合、国語の授業のように、部分部分を徹底的に詳しく検討し、その結果として、全体のメッセージをつかんでいるわけではない。一読して、全体のメッセージをつかみ取っている。全神経をメッセージをつかむことだけに集中して読めば、普通の文章ならメッセージを感じ取ることが出来るはずである。

 実際、国語の先生だって、自分で本を読む場合はそうした方法で読んでいる。しかし、教室で生徒に説明するとき、「ホラ、みなさんも筆者のメッセージは一読して分かるでしょ」と言ってみても、生徒は口を開けてポカーンとしているだけである。私の経験によれば、京都大学レベルの受験生は、こちらから言わなくても、こうした読み方が出来る。偏差値70レベル以上である。

 しかし、普通の高校生は、短時間でそうしたメッセージをつかむことは難しい。そこで、先生は仕方なく、「ホラ、ココにこう書いてあるでしょう。ココにこういう表現があるでしょ。この部分とこの部分をつなげば、ホラ、要約ができたじゃない」と、事細かに解答へのプロセスを教え込んでしまう。

 生徒は予習もせず、したがって、自分の感性と先生の感性とのズレを埋めることを通して自分の感性を磨くこともせず、思考を停止し、板書された先生の有り難いお説をノートに書き留め、テスト前にそれを覚えて、定期テストで赤点を免れようとする。

 現代文の勉強が、完全に「暗記科目」になっている。これでは国語の力がつくはずがない。こうした現状が全国の高校現場で蔓延している。

 

4,要約の仕方

 一般に要約する場合は、二通りの仕方がある。一つは、自分の言葉で要約するやり方である。もう一つは、文章中の言葉を抜いてきて要約するやり方である。要約力をつける場合、どちらがいいのか。

 結論から言えば、要約の実力を付けるためには、第一段階として、まず自分の言葉でメッセージをつかみ、自分の言葉で要約をすることである。予習では、こうした自分流の表現でメッセージをつかむことが大切である。そして、答案に書くときには、第二段階として、本文中の言葉を引用して書く。つまり、本文を引用するにしても、最初から引用しては いけないのである。

 ところが、多くの受験生は、自分の言葉で要約が出来ないため、先生は「ホラ、ココにこう書いてあるでしょう。ココにこういう表現があるでしょ。この部分とこの部分をつなげば、ホラ、要約ができたじゃない」と、教え込んでしまう。その結果、当然の教育効果として、生徒は、「要約とは本文中の言葉を引用してまとめるものだ」、と錯覚をしてしまう。

 そうではない。本当の要約とは、自分の感性で感じたものが先にあって、それに一番合う適当な文章を本文中から引用するのである。つまり、2つのステップを経て要約文ができるのである。多くの受験生は、自分の感性で感じたものがないまま、顕微鏡でしらべるように文章の部分部分の関係をつぶさに検討し、どこを引用しようかということばかりに気を取られて、文章を読む。顕微鏡で調べる前に、望遠鏡でまず文章全体のメッセージをつかむ必要があるのに、その第一段階の部分がスポッと抜けてしまっているのである。これではちゃんとした要約が出来るはずがない。

 最初は上手くできなくても、メッセージを自分なりの言葉でつかませるトレーニング徹底的に繰り返すことが、国語力をつける一番の近道である。そのためには、すぐに答えを与えてはいけない。辛抱強く、もうこれ以上考えられないという限界まで考えさせることが必要である。先生がいくら名講義をしても、生徒の学力がつくわけではない。

 文章を読ませて、筆者が何を言いたかったのか100字以内でまとめさせる。これを徹底的に、20問でも30問でも繰り返して演習をさせる。そうすると要約力は確実についてくる。そして、要約力がついてくると、今度は細部の設問に対しても正しく答えられるようになってくる。つかみ取ったメッセージに合わせて、解答を作ればいいからである。

 万が一、自分のメッセージの受け取りかたが違っていれば、仕方がない。潔く討ち死にするしかない。「ごめんなさい。 今年は力が足りませんでした。来年もう1度受け直します(笑)」。

 

5,要約は、ピンポイントで捉える

 国語の要約の採点は、ピンポイントで捉えられているかどうかを旨とすべきである。もし、余分な言葉が入っていれば、採点者は零点をつけるべきである。そうすることによって、一切のごまかしを排除し、生徒の感性を磨きあげることが可能になる。少なくとも、練習の過程ではそうすべきである。

 なまじっか、部分点なんか与えるから、生徒は部分点狙いの答案を作成するようになり、それ以上には伸びないのである。

 

,線を引き 、図式化しながら読もう
 
本を読む場合は、自分でお金を出して買って読もう。図書館から借りたものと違って、自分で買った本は重要な箇所に線を引くことができる。どこが重要かを探し、この本のメッセージはいったい何か、ということを常に意識しながら読むことにより、読書を積極的なものとし、集中力を高め、読書のスピードアップをはかることができる。

 線を引くくらいなら誰でもやっているかも知れない。しかし、線を引くだけでは不十分である。キーワードをマルで囲ったり、因果関係を矢印で結びつけたりすると、さらに効果があがる。 特に社会科学系の文章の場合は
y=f(x)
という因果関係で読んでいくとよく解る場合が多い。
あとで読み返す時も、文が図式化されていると、最初の労力の十分の一か百分の一で読み返すことが出来る。

  ただし、私見によれば、社会科学系の文章を読む場合と、文学作品を読む場合とでは、線の引き方や文章の読み取りかたに大きな違いがある。一般に、評論文(社会科学系を含む)の場合は、筆者は自分の伝えたいことを何度も何度も実例や引用を用いたりしながら、抽象度の高いものへまとめていく傾向がある。文学作品については国語の先生に聞いて欲しい。

 また、もし好きな著者と出会ったら、その人の書いた本をできるだけ買い集めて読んでみたい。小説でも、専門書でもいい。一人について徹底的に読み込むと、自分自身の視座が定まり、 他との比較が可能になる。また、自分の思想形成にも役に立つ。
 以上述べたことは英語を読む場合も、基本的には同じである。

 

7,小説が出来るまでのプロセス

 小説家が1000ページの小説を書くとき、どのようなプロセスで出来上がるのか?まず、彼らは「こういう事を書いてみたい」というテーマを思いつく。そのテーマはおそらく、文字数にすれば100字以内の短い言葉だと想像される。そのあと、登場人物や場所や時代背景などの構想を練り、そして推敲を重ね、結果として1000ページもの分厚い本が出来る。

 それを手にした読者にとって、そもそも読書とは何か。簡単に言えば、1000ページの本を通して、筆者が最初に思いついたテーマを読みとる作業といってよい。筆者が何を伝えたかったのか。それが文を読むと言うことにほかならない。

 ところが、文章を書く機会を与えられていない高校生には、文章というものが、何かを訴えたくて書かれたものだという基本的認識がない。もっと、生徒に文章を書かせる必要がある。

 小論文指導をしていて一番困るのは、「心の底から訴えたいということが感じられない」答案である。もっといえば、文章の背後に、世の中を良くしたいとか、正義感とか、そういったものが感じられない答案は、良い答案にはなり得ないといってよい。
 


8,読書とは著者との対話である

 読書とは著者との対話であり、自分で考えるためのきっかけである。ところが、多くの受験生は、設問に答えるために必死になり、ひたすら受け身になって著者の考えを受け入れるばかりで、著者との対話が成立していない。

 読書の基本は、まず著者を「バカ」だと思うことである。何という下らない考え方をするのか。自分だったらそうは思わない。そうした気持ちで本を読むことが読書の基本である。そうした批判的精神で本を読むと、驚くほど読書が積極的になる。

 


9.多読と精読
 
読書の仕方には二通りある。多読と精読である。一般に、学校の授業では行われるのは精読である。一つ一つの文を事細かに分析し、全体の構成やメッセージを読みとる。

 しかし、読書にはもう一つ多読という重要なものがある。細部にはとらわれないで、ともかく全体として何を言いたいのかつかむ読書方法である。

 最近の高校生はほとんど本を読まなくなっている。中には、日本語の文章を読むのは、国語の授業中の文章だけという極端なケースすら見られる。その結果、文章を読むとき、目を顕微鏡のようにして、部分部分にこだわった読み方しかできない生徒が出てくる。国語力が身に付いていない生徒の多くは、こうした読書の仕方に原因がある場合が多い。

 では、こうした生徒の国語力を伸ばすにはどうしたらいいか。答えは明かである。それは、国語の授業時間を今より増やすことではない。生徒にたくさんの本を読ませることである。多読によって、読書の面白さを教える以外にない。

 

10,最後に

 いくら国語力がついても、それでどんな日本語も読めるというわけではない。そこに書かれてある内容に関する予備知識がなければ、何回読んでもチンプンカンプンということもあり得る。

 ある時、何気なく国語の教科書を開いてみたら、そこに有名な経済学者の書いた文章が載っていた。たしか「貨幣とは何か」について論じた文章だったように思う。その文章を見た瞬間、政治・経済を専門とする私には、中身を読まなくても、書いてあることのおおよその見当はついた。

 そして、「もし、私がこの内容を政経の授業で教えるとしたら、1分間もあれば十分だろうな」、と思った。筆者の言いたいことが、それこそピンポイントで分かるのである。それと同時に、国語の教材として扱われた場合、どのような教え方がなされるのかと少し不安になった。文学部出身の人が多い国語の先生にとって、この内容は決して易しくはないと思ったからである。

 日本語であれ、英語であれ、およそ文章で書かれたものについては、常にこうした問題がつきまとう。日本語の達人だからと言って、物理学の教科書をスラスラ読めるわけではない。大学の英文学の教授に経済学の英語のテキストを訳させたら、無茶苦茶な訳をしたという話を聞いたこともある。

 結局、文章を正確に速く読むということは、最終的には、そこに書かれてある内容に関してどれだけの予備知識を持っているかにかかっているといってよい。だから、日頃からあらゆることに関心を持って、幅広い教養を高めておくことが国語力を身につける一番の基礎なのである。(その意味では、この世の中で、国語の先生ほど大変な仕事はない。森羅万象、全てが教材となるからだ。)

 ところが、残念なことにほとんどの受験生は、こうした肝心のことが分かっていない。国語力さえあれば日本語は読めると思っているし、英語力さえあれば英文が読めると思っている。だから、入試科目に関係ない授業は「内職」をして憚らない。

 ひどい生徒になると、耳栓をして(笑)、まさしく「聞く耳」さえ持っていない。内職は絶対にすべきではない。そのことが本当に分かるのはいつのことだろうか。分かったときにはもう「手遅れ」、ということにならなければいいのだが・・・。

 

               

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