香港・シェンチェン(深セン)の旅 (2000年8月)

 

以下の記事は2000年に書かれたものであり、そのつもりでお読みください。

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1、歴史
 イギリスによる香港の植民地化は、3回にわたって行われた。まず、1842年のアヘン戦争の結果、南京条約が結ばれ香港島が割譲された。ついでアロー戦争の結果、北京条約(1860年)により、九龍市街地が割譲された。そして最後に、1898年にはシェンチェン河(下の写真のシェンチェンと書かれたすぐ南側を流れる河)以南の九龍半島と、チェクラップコク空港のあるランタオ島など付近の島嶼部が、新界(ニューテリトリー)として、99年間租借された

 香港の中心地は大きく二つの部分からなる。香港島北部と九龍市街である。最初に開発されたのはもちろん香港島である。「中環」(Central)と呼ばれる地域(上の写真の赤い点)には高層ビルが立ち並び、今も香港のビジネス街の中心となっている。東京でいえば丸の内にあたる。 
 一方、九龍はゴチャゴチャとした看板が立ち並ぶ繁華街である。東京の新宿か大阪の難波のような雰囲気のところである。
 九龍とセントラルの二つの街の間にあるのがヴィクトリア湾で、幅は約1、2キロメートル。ヴィクトリア湾を地下鉄と3本のトンネルとフェリーが走る。橋はない。チェクラップコク空港から九龍までは約28キロメートル。快速電車で23分、バスで約1時間の距離である。

2、言葉
 香港に来て一番驚いたのは、英語が意外と通じないということである。イギリスの植民地だったから、当然ほとんどの人がバイリンガルだろうと勝手に想像をしていた。ところが、タクシーの運転手も駅の係員も一般市民も、ほとんど英語が通じない。地下鉄のホームで若い女性に道を聞いたところ、「うーん」とか「アー」とか言いながら、しどろもどろになってBody languageで答えてくれた。同じ植民地支配といっても、日本の朝鮮支配とはだいぶ違っている。

 通常、人々が話している言葉は広東語である。これは中国の標準語である北京語とも全く違う。両者の間には,話し言葉によるコミュニケーションは一切成立しない。広東語を北京語の方言くらいに考えるのは間違いである。

 発音が違うばかりではない。使用している文字まで異なる。今日、北京語は略字を多く使うが、広東語はいまなお旧字を使う。だから、「灣仔」 などという地名が書かれていても、北京語しか分からない人には読めないらしい。

 日本に留学に来ていた中国人の高校生が、「皆さんは日本人なのに漢文が読める。しかし、私は中国人だが、中国の古典の漢文を読めない」という話をしていたと聞いたことがある。どうやら読めない一因は、文法の違いのほかに旧字を習っていないことにもあるようだ。

 そう言えば、シェンチェン(深セン)でわれわれの日本語ガイドをしてくれた金さんという女性も、「吉林省出身でシェンチェンに来て7年目になるが、いまだに広東語はあまり得意ではなく、広東語よりは日本語の方が楽だ」と言っておられた。香港市内の表示はたいてい広東語と英語の二つで書かれており、われわれ日本人には助かる。しかし、北京語しかできない中国人にとっては、外国の街を歩くようなものなのだろう。そのためか、駅では中国人によく道を聞かれた。
”ワンチャイ, this way ? ” と中年の中国人に聞かれたので
”Right.”って答えたら、
”シェーシェー”と言われてうれしくなった。

 でも、あとで気がついたら、方向はそれでよかったのだが、聞かれたプラットフォームからは乗換えが必要で、乗換え無しで行けるのは別のホームであった。あのおじさん、ちゃんと行けたのだろうか。知ったかぶりはやはりすべきではない(反省)。
 あの広大な中国が一つの文化圏として成立していたのは、たとえ発音が違っていても、漢字という共通の文字を持っていたからだと言われる。しかし、北京語の略字はその伝統を崩しつつあるようだ。

旧字体だらけの看板。これが北京語圏の人々には読めないらしい 

3、九龍

九龍は、英語読みではカオルーン(Kowloon)、広東語ではクーロンと呼ばれる。地元ではKowloonと呼ばれることが多いという。



 チェクラップコク空港から、九龍市街地の中心である尖沙咀(チムシャツォイ)のホテルまで、バスで行った。憧れし かし、中心街に近づくにつれて度肝を抜かれた。街の看板が道路中央まではみ出し、2階建てバスがその看板の下すれすれを通っていくのである。

バスの2階から見ていると、看板と看板が重なり合って、前方の視界が大きくさえぎられてしまう。中国人は華僑に代表されるように商売がうまいと言われるが、「なるほど、これじゃ日本人は太刀打ちできない」と、看板を見て妙に納得してしまった。今回の最大のカルチャーショックは、このド派手な看板だったかもしれない。

夜になると、この看板にネオンがともり、いっそうけばけばしくなる。台風が来ると、この看板が吹っ飛ぶので商店もオフィスも証券取引所も交通機関も全部ストップし、外出禁止になるという。

 香港は昼も夜も、人・人・人、人の波である。ほとんどは黄色人種だが、中には少数の白人や黒人も見うけられる。インド人も意外と多い。夜になると、「ローレックス、ニセモノ、ヤスイヨ」と小声の日本語で話しかけてくる怪しげな外国人もいる。香港は、人の波以外、見るべき旧跡も何もないところでもある。

ホテルからの夜景

香港のホテルの自室のPCから、自分のHPにアクセスして悦に入る筆者。香港はIT化が進んでいる。

 

4、香港島 

 ヴィクトリアピークからの眺め

ヴィクトリア湾に望む香港島北部の一帯は、まさに未来都市を思わせるような近代的な都市そのものである。。40階建て、50階建ての見上げるばかりのビル(中国語では大廈と書く)が所狭しと立ち並ぶ。遠くから見れば特徴のあるビルも、そばまで来るとあまりに高すぎて上のほうがよく見えない。

 なぜ、これほどまでに高層のビルを建てるのか。一つには土地がないこと、第2に地理的に地震帯からはずれていること、そして第3に、なによりもビジネス上ここにオフィスを構えることに大きながメリットが存在すること、などが考えられる。とりわけ、セントラル(Central)と呼ばれる地域は、香港の経済活動の中心地域である。

 また、香港島の山の中腹には、「ヴィクトリア・ピーク」と呼ばれる香港で最も眺めのよい観光スポットがある(上の地図の香港島と書かれたすぐ西側)。ここからの眺めは「100万ドルの夜景」とも言われ、手前にはセントラルのビル群、そしてヴィクトリア湾を挟んで、その向こうに九龍半島、さらには遠方に新界がくっきり見える。          

 

5、香港トイレ事情
 香港には公共のトイレがほとんどない。日本だったら、地下鉄の駅などには必ずトイレがある。しかし、香港にはそれがない。商店街でせっかく"lavatory"の看板を見つけても、たいていは店の従業員専用のトイレで、ロックがかかっている。もちろん、レストランなんかに入ればあるにはあるのだが。

 なぜ、トイレが少ないのか。聞けば、作るとホームレスのねぐらになるからだと言う。困ったものだ。 ともかく香港では、トイレを見つけたら、たとえあまりしたくなくても用を足しておくことをオススメする。次にトイレにお目にかかるのはホテルに帰るまでないかもしれないのだ。子ども連れの人は一体どうしているのだろうか。

 

6、香港の貨幣
 Centralの皇后像広場の向かい側に、香港最大の金融機関であり香港の経済的支配者と言われる香港上海銀行(HSBC)がある。イギリスの植民地発展とともに巨大化した銀行で、当然イギリス資本である。建物の前には2頭のライオン像が陣取り、Centralのシンボルとなっている。

 香港には、全部で3種類の通貨が流通している。香港上海銀行の発行する通貨と、中国銀行(Bank of China)および香港渣打銀行が発行する3種類である。最初見たときは、単なるデザイン変更だと思ったが、そうではないことをあとで知る。香港では、それらは全く同等に扱われている。

 現在の発券シェアは香港上海銀行が8割,残り2行が1割・1割を占める。なお,香港には中央銀行にあたるものは存在しない。したがって,金融当局はマネーサプライをコントロールする手段を持たない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑ 香港上海銀行

7、シェンチェン(深セン)日帰りツアー
 今回の香港訪問のもう一つの目的は、シェンチェン(「シェンチェン」は北京語読み、「シンセン」は広東語読み。地元の人はほとんど100%シンセンと発音する)の発展ぶりを見ることであった。しかし、ビックリしたことに、香港からシェンチェンに入境するのは簡単ではない。

外国人旅行者には通常の海外への出入国審査と同じ手続きがなされるのみならず、ビザまで要求される。香港が中国に返還されたとはいえ、全く別の国へ行くのと何ら変わらない。

ただし、香港には「深セン日帰りツアー」と称する日本人向けツアーを主催するパンダトラベルという旅行社があり、ここのツアーを利用すると、団体ビザで入境可能で、個人的にビザを取得する必要はない。パンダトラベルの電話番号は、001−852ー2724−4440で、事前に日本から申し込んでおくとよい。

日本語ガイド付き・豪華な昼食付きで、ビザのことも含めて全ての手配をしてくれる。シェンチェンは治安も悪く、団体ツアーがオススメである。もちろん電話は日本語でOKである。


  香港からシェンチェンまでは33キロメートル。片側3車線の高速道路が走り、車で約30分の距離である。もっとも、出入国審査に時間がとられれば、入境するまでに何時間もかかることもあるという。われわれをシェンチェン入境まで案内してくれたのは、陳さんという男性ガイド。日本語読みでは「チン」であるが、本当はジャッキーチェーンと同じく「チェーン」と読むんだそうだ。
 陳さんによると、香港のマンションの家賃は大変高く、給料の半分から60%にものぼるという。だから、家族が20〜30平方メートルの狭い家に三段ベッドで寝ているケースもあるという。そこで最近増えてきているのがシェンチェンにマンションを求めることである。シェンチェンは物価が香港の3分の1、家賃は6分の1から8分の1。かりに毎日出入国手続きをしても、片道3時間もあれば香港に通える。

シェンチェンの入国審査を終えたところ


 シェンチェン河を渡ると、いよいよシェンチェンの市街地に入る。景観もそれまでの丘陵地帯から広々とした平野に一変する。そこでわれわれを待ちうけていたのは[金」さんという女性の日本語ガイドであった。金さんによれば、シェンチェンは20年前までは人口39万人の田舎町にすぎなかったが、ケ小平の改革・開放政策により経済特区に指定されたあと(1980年)、大発展した。

今目の前に見える50階建て、80階建てのビルは全てこの20年の間に建設されたものだという。道路は広く、街路樹も多い。計画的に作られただけに見事なまでの街並みである。現在は人口は約400万人。そのほか人口統計には載らない「盲流」と呼ばれる数十万人の人々がいる。

この人たちは不法な手段でシェンチェンに入り、不法な手段で生計を立て、シェンチェンの治安悪化の原因となっている。市政府は、何とかして帰郷させようとするが、シェンチェンの高い給料を求めて不法にやって来る人が後を絶たないという。

 シェンチェンは、ケ小平によって発展した。だから、シェンチェンで一番尊敬されている人物はケ小平である。街にはケ小平を描いた巨大な看板が掲げられており、また、シェンチェンの駅にはケ小平直筆の駅名の看板(漢字)がかかっていた。

 街を走っている車はトヨタやフォルクスワーゲンが多い。値段は15万H$(約220万円)という。1ヶ月の給料が普通の労働者で1万円、サラリーマンで3万円というから、一般庶民には高嶺の花である。中国がWTOに加盟すれば、もう少し車の値段も下がるのだろうか。それでも北京などと違って、自転車がほとんど走っていない。シェンチェンでは、みんなバイクに乗っている。


広い土地があるのに,なぜ高層ビルを建てる必要があるのだろう? 

中国民族文化村を見学したあと、ホテルで昼食を取ったが、これがまた豪勢。本格的な広東料理のうえ、なぜか北京ダックも付くサービスぶりである。料理だけでも旅行会社に払った500H$以上の値打ちはある。なるほど、シェンチェンは物価が安い、と実感した。使われている米は長粒種であるが、なかなか美味しい。最近、カリフォルニア米が、安い中国米に押され気味だというニュースを見たが、当然だと思った。
 最後に旅行費用はマイレージで飛行機代が無料だったこともあり8万円(小遣いを含む)であった。            (2000年8月脱稿)

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