アウシュビッツを訪ねて (2015年3月)
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ポーランドに出かけた。ワルシャワ、トルン、ポズナニ、クラクフなどを見て回ったが、ポーランドに行こうと思った最大の理由は、アウシュビッツを見ておきたかったからである
クラクフから、バスで約1時間。アウシュビッツのあるところは、もともとはオシフィエンチム市と呼ばれていた(図右上 Oswiecim)。 アウシュビッツ第一強制収容所が設立されたのは1940年である。もともとそこにあったポーランド軍兵営の建物を接収してつくられた。 設立の目的は、ドイツが危険とみなしたポーランド人政治犯を収容するためであった。その中には、インテリ、文化人、学者、将校などがいた。 最初はポーランド人だけを送り込んでいたが、やがて他の国の人々やジプシー(ロマ)、ソ連軍捕虜なども送り込まれるようになった。収容所の入り口には“ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)”という皮肉な看板が掲げられている。 収容所は当初14棟の1階建て、6棟の2階建ての20棟であったが、その後、すべて2階建ての28棟に増築された。建設作業は収容されていた囚人約1万6000人を使って行われた。
1941年からは、アウシュビッツから3キロメートルほど離れたところに新しい強制収容所が建設された。ドイツはここをビルケナウ(第二アウシュビッツ)と呼んだ(図左上 BIRKENAU )。 ビルケナウの規模はアウシュビッツとは比較にならないくらい大きい(約1q×2q ≒175ha)。ここには300棟以上のバラックがあったが、現在残っているのは45棟のれんが造りと、22棟の木造の囚人棟のみ。そのほかは証拠隠滅のため撤退直前に破壊され、いまはレンガ造りの煙突しか残っていない。ビルケナウには、おもにユダヤ人が収容された。1944年8月の記録には、その数は10万人に上ったとある。 1942年から、アウシュビッツ・ビルケナウはもう一つの役割を担うようになった。すなわち、ヨーロッパに住むユダヤ人を虐殺するための「ユダヤ人絶滅センター」となったのである。最終的にはヨーロッパ全域から110万人のユダヤ人が送り込まれた。内訳は、 などとなっている(アウシュビッツ資料より)。 ユダヤ人の中には、貨車に身動きできないほど詰め込まれ、食料なしで7日間から10日も旅をさせられた者もいた。今も残る第二アウシュビッツの鉄道引き込み線には、当事の貨車が残っている。 送り込まれたユダヤ人の70〜75%はファイルに登録されることもなく、また、建物に収容されることもなくガス室室に送られた。 その他、ほとんどのヨーロッパの国々の人々がここに収容されていたという(アウシュビッツ資料より)。
ヒトラーはアウシュビッツで大量の虐殺を行なった。日本はドイツと軍事同盟を結んでいた。アウシュビッツを訪れる日本人の多くは、あれはヒトラーがやったのであって日本は関係ない、と思っている 。しかし、客観的にみれば、ヒトラーの友達であった日本も同じような虐殺をどこかでしていたのではないかと疑われても仕方がない。 戦争はむごたらしい。日本が中国大陸などで行なってきた数々の残虐行為は決して許されるものではない。しかし、だからといって戦勝国が日本を非難する権利があるとも思えない。アメリカが東京に焼夷弾の雨を降らし、一晩に8万人を死に追いやった行為、広島や長崎に原爆を投下し、それぞれ14万人、7万人を殺戮した行為は、日本が中国大陸でやった行為とどこが違うのか。
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